10 報い
美幸はいつもの時刻に目を覚ましたが、ベッドから出ることが出来なかった。
身体が重く頭が痛い。会社に行かなければ、とは思うがどうしても身体が動かない。まるで全身の血液が水銀にでもなったかのように、顔を起こすだけでもかなりの労力が必要なように感じてしまう。
いつもなら電車に乗っているくらいになっても起き上がれず、会社に着いているであろう時刻になってようやく身体を起こすことが出来た。
慣れないスマホを操作して、電話帳の中にある中谷の連絡先を呼び出した。
「……あ、おはようございます、大草です……すみません、今日体調が…………はい……急にすみません……はい、あの、大丈夫です、すみません……ほんとに、すみません……」
電話の向こうで中谷が優しい声をかけてくれている。が、その言葉はほとんど耳に入ってこない。
ただ、体調が落ち着くまで無理をしないように、心配しないで休みなさい、という言葉だけは聞き取れた。
「…………すみません、ご迷惑をおかけします……はい、すみません、失礼します……」
通話終了ボタンを押して、まるで崩れ落ちるようにベッドにどさ、と仰向けになる。
天井を見ていると、何故か涙が溢れてくる。
誰もいない、一人しか住んでいない家の中で、何故か美幸は嗚咽を必死で噛み殺した。
ベッドのすぐ近くにあるティッシュで鼻をかもうとするが、鼻が詰まってうまくいかない。
この日、再び美幸が起き上がれたのは昼過ぎのことである。
出かけようなどという気には全く慣れず、テレビを見る気も起きない。しばらくぼんやりと座っていると、美貴からのショートメッセージが送られてきた。
『企画通った!』
という短いメッセージに、何故か甲冑を着たウサギが親指を立てて『祝着至極!』という文字が付いている、変なスタンプもセットになっている。
いつもの美幸なら吹き出しもしただろうが、この時ばかりは笑顔を浮かべる気にもなれなかった。
「……いいなぁ……お姉ちゃんばっかり……」
呟いた自分の言葉に驚いたように口に手を当てる。
普段なら決して口にしないような言葉だった。
子供の頃から何度も思ったことはある。社交的で活発、自分の思ったことをちゃんと言葉にできる美貴が羨ましいと思ったことなど、もはや数え切れないほどだ。
「なんで私だけ……」
再び座ったまま、膝を抱えて俯いて泣き出してしまった。
姉の美貴に電話をしようか。
いや、だめだ。仕事の邪魔をしてはいけない。
両親にも心配をさせたくない。祖父を亡くしたばかりの祖母になどもってのほかだ。
我慢しなければ。自分ひとりで何とか噛み砕いて、飲み込んで、消化してしまえばいい。いつものことだ。今までずっと、何度も何度もやってきたことだ。今回もいつも通りにすればいい。どうということはない。
そう自分に言い聞かせるが、どうしても感情を抑えることが出来なかった。
結局、夕方までずっとうずくまったまま過ごし、ようやく涙が引いたころに、美幸はペンを持っていた。
祖父が残した、『書いた願いが叶う』というペンで、日記帳の空欄に短く書き込む。
『みんな不幸になれ』
書き終えてキャップを閉める。
その瞬間に血の気が引いた。自分が書いたとは思えない走り書きの文字だった。
慌てて日記帳に書き記された文字を手で擦るが、インクで書かれた文字が消えるわけもない。
「……もうやだ……お祖父ちゃん……」
肺の底からのため息を吐いて両手で顔を覆う。
ペンをケースに収めてから机の引き出しに入れ、日記帳を閉じる。
どうしても日記を書く気になれなかった。何日か気分を落ち着かせてから、まとめて書くことにしよう。前に嫌なことがあった日もそうしてきた。今はまだ、自分の気持ちを整理できる状態じゃない。
ぐぅ、と腹がなる音で、美幸はこの日なにも口に入れていない事に気がついた。
冷蔵庫を開いて、作り置きの料理をいくつか取り出してレンジに放り込む。
カーテンも閉めっぱなしで薄暗いままの部屋で、テーブルの上に少量だけの料理を並べてちびちびと食べ始める。
スマホを何とか持ち上げて、姉からのメッセージに返信を入力する。
『よかったね、おめでとう』
使い方を教わったばかりのスタンプは、猫がクラッカーを鳴らしている絵を選んだ。
送信ボタンを押してからスマホのホーム画面に戻ると、大きな時計のウィジェットは14時を指している。
この時刻、菱橋システムズのオフィスは騒然としていた。
8億の商談を失注した事に加えて、『営業部がミスの責任を他部署の平社員に押し付けようとした』というニュースは会社を大いに揺るがした。
「中谷さん、それに森林さん、この報告書の内容は、間違いないんですね?」
オフィスビルの4階、やや広めの個室で大きな机の上に肘をついて頭を抱えている恰幅のいい壮年の男は、できるだけ丁寧に言葉を区切って尋ねた。
報告書には動画と音声ファイルも添付されており、営業課長の鈴木が突然資料室に怒鳴り込んでくるシーン、恫喝の末に美幸が過呼吸の発作を起こすシーン、鈴木が幸一の襟を掴むシーンに、幸一が斎藤のウソを暴くシーンと、未加工ログデータとレポート形式に加工したログが添えられている。
「間違いないかどうかは、社長が判断して頂きたいですねぇ。まぁ、社長のご指示で設置していた監視カメラのデータが、まさかこんなカタチで役に立つことになるとは思いもしませんでしたがねぇ」
中谷は呆れ返ったような表情を隠そうともしない。
「今後、資料室は企画部と営業部からの依頼は受け付けません」
「い、いや中谷部長、それはさすがに会社として――」
「企画部からは業務ルールを無視した無茶な依頼が来ていましたし、カメラの記録から大草くんに対するモラハラの記録があります。営業部の麻原部長は我が部署の貴重な戦力に何度もセクハラをしています。おまけに今回のようにミスの責任を押し付けようとしましたからねぇ。資料を管理するのが我々の仕事、あくまで社内での立場は対等のはず。そうですよねぇ、社長?」
「確かにそれはその、その通りなんだけれども……」
「それとも? 社長は私の大事な部下に『好き放題身体を触らせろ、よその部署からの嫌がらせも受け入れろ、ミスの責任も押し付けられてオマエが責任を取れ』とおっしゃるおつもりで?」
「そんなことは! そんなことは言ってないんですよ! ただその……」
「社長、俺から一言いいっすか」
菱橋システムズの二代目社長、菱橋由一が脂汗を拭うのを遮るように幸一も口を開いた。
「俺と吉田さんが社内に記録用のカメラとレコーダー設置してまだ2週間経ってないっすけど、二人で解析したらセクハラが12件、窃盗が3件、窃盗未遂は5件、器物損壊が2件、それに社内システムサーバーのログも合わせて確認したら提出済み見積もりのデータ改ざんが11件、売上管理システムとの不審な数字の差分が1件、部外秘情報の漏洩が28件。たった2週間ですよ? ほんの10営業日でコレは、はっきり言わせてもらうと救いようないですね」
資料課のIT担当大臣こと吉田貴大は、森林幸一の指導を担当した技術者である。それも、エンジニアとしては凄腕の部類にはいる。
社内でのセクハラや窃盗発生の報告は、社長の由一にも届けられていた。
だが、代表取締役であるはずの由一は、事実上ただの取締役としての権限しか持たず、『代表取締役会長兼営業本部長』の肩書を持つ初代社長の菱橋浩司が、ほぼ全ての実権を握っていた。
さすがに社内での窃盗は看過できないとして、オフィス内に窃盗防止のためのカメラ設置を決めたのが5月のこと。中谷や吉田、それに幸一が度々『アレ』と読んでいたのは、各所に設置したカメラの映像データのことだった。
サーバー内に特殊なアクセス権限を持つものしか入れない領域を作り、そこに全カメラのデータを圧縮して保存するようプログラムを作ったのが吉田であり、カメラの実際の設置や調整を担当したのが幸一だ。
二人のIT強者は、閑職に追いやられた敗北者とみなされていたがために、誰からも怪しまれることもなく、正々堂々と社長命令で会社内に監視網を築き上げていたのだ。
「あと、コレも一応社長に渡しときますよ。会長に渡したら握りつぶされるだろうから」
幸一が差し出したのは、1本のUSBメモリである。
由一は震える手でPCに差し込み、データの中身を開いて愕然とした表情になる。
顔から血の気が引き、わなわなと手が震え始めた。
「こ、これは、こんな、まさか、本当にこんな事が」
ブツブツとまるでうわ言のように呟く社長の姿を見て、幸一は大きく息を吸って顔を上げる。
「それをどうするかは社長に任せますけどね。とりあえず俺は黙ってるつもりないですよ。それから、営業の鈴木に襟首掴まれたの、きっちり警察に通報しますんで」
それだけ言い放つと、幸一は悠然と社長室から出ていった。
残された中谷と社長の由一は、しばらく何も言葉を出せないでいた。が、沈黙を破ったのは中谷の方である。
「思い出しますねぇ、10年前もこんなことがありましたねぇ」
中谷は10年前、菱橋システムズで危機管理統括室という部署の室長を務めていた。
今で言う情報セキュリティ事故などを管轄する部署の長であった中谷は、当時社長であった現会長に度々社内のモラル向上と綱紀の徹底を訴えていた。
が、会長は頑迷な売上至上主義の男であった。
数字を出せるものが偉い。数字に繋がらない仕事は下の下だ、そう言って憚らない男だった。
口うるさく、それでいて売上を出さない中谷を自主退職に追い込むために作った部署が、資料室である。
閑職に追い込めばそのうち自主退職するはず、と考えた現会長の目論見は見事に外れた。中谷は過去の資料から様々な不正や怪しい取引の証拠を集めていた。
やがてコミュニケーション能力不足という言いがかりに近い理由で資料室にやってきた吉田も巻き込んで、情報収集のための仕組みを作り上げる。
最後のピースが埋まったのは、開発部に所属していた幸一が開発部長に反抗して情報システム部という裏方に回されたことだ。
当時開発が進んでいたプロジェクトで、納期間近の時期に幸一は『特定条件で致命的なバグが生じる』と訴え、納期延長を主張し始めたのだ。
納期が伸びる場合にペナルティが発生する契約だったため、売上至上主義の会長は幸一の主張を当然のように却下。さらに自身の評価への影響を危惧した開発部長も幸一の進言を却下した挙げ句、情報システム部という部署を作って雑用を押し付けた。
幸一を味方に引き込んだのは、吉田である。
やがて中谷、吉田、森林の閑職三人組は、社内の監視網を構築する時間をたっぷりと確保することが出来た。
ただ一人、美幸はこの事情を知らない。ただただ真面目に、愚直に、淡々と地味な仕事を続けていた彼女は、恐ろしく我慢強かった。今回ばかりはその大人しさと我慢強さが仇になってしまったのだろう。『あいつなら何も声を上げないに違いない』と侮った斎藤らによって、美幸は完全に巻き込まれた形となった。
「会社ってのは、そう簡単には変わりませんねぇ」
中谷はそう呟いて回れ右をする。
「そろそろ、社長も色々お考えになった方がいいんじゃないですかねぇ」
社長、菱橋由一はただ黙ってうなだれ、机の上のレポートを受け入れようと必死であった。




