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11 歩き始めはゆっくりと

 美幸は改札を出た後の横断歩道で、なかなか一歩を踏み出せずにいた。

 信号が青になり、点滅して赤になる。しばらくののちまた青になる、というループをすでに5回繰り返している。

 トートバッグのベルトをぎゅっと握りしめて、このまま回れ右をして帰るかどうかを散々考えた。が、家へ帰る度胸も会社へ向かう勇気も、今の美幸には無かった。

 会社を3日も休んだのは、初めてのことだった。

 木曜日から会社を休んで、金曜と、さらに土日も挟んで月曜日も会社に行くことが出来なかった。

 中谷は『大丈夫、心身の疲れは響くからねぇ。ちゃんと休んで、元気になってからいつでも戻っておいで』と優しく話してくれた。が、その言葉を額面通りに受け取るわけにも行かないだろう、と火曜日のこの日、美幸は清水の舞台から飛び降りるつもりで、いつも通りの時刻にいつも通り家を出て、いつも通りの電車に乗り込んだのだった。

 交差点の手前でどうすることも出来ず立ち尽くしていると、すぐとなりに大柄な人影が立ち止まった。

「大丈夫か」

 聞き慣れた低い声。自分の耳よりもかなり上の方から聞こえる声は、吉田のものだった。

「……いや、すまん。聞き方間違えたな……今どれくらいヤバい?」

「…………あ、あの、吉田主任、私は大丈夫……」

「まだ大丈夫じゃないだろ。無理するな。仕事は心配しないでいい」

「で、でもあの、あんまり休んだら私、会社にいられなくなったり……」

「しない」

 ぶっきらぼうで言葉少なではあるが、今の美幸にはわかる。この不器用な気遣いは吉田の優しさからくるものだ。

「あ、あの、すみません、この前はその、何もできなくて」

「気にするな」

 吉田につられて、自然に会社へ向けて歩き始めてしまった。その事に気づいたのは、通い慣れたオフィスビルのエレベーターに入ってからだ。

 いつもエレベーターで会っても会釈すらしない営業部の社員は、相変わらず美幸に視線を向けもしない。

 というよりは、少し不自然に目を逸らしているようにも見える。

「もう心配しなくていい」

「あ、あの、でも」

「中谷さんと森林が話をつけてる。営業の斎藤と鈴木にはちゃんと処分が出る事になってる。それに企画部の奴らにもだ」

「えっ、あ、あの、そんな、あの」

「大草は被害者だ。もし斎藤に鈴木に、坂巻だったか。アイツらのことを心配するなら、ちゃんと処分を受けさせろ。その方がアイツラのためだ」

 力強く、それでいて有無を言わさない吉田の言葉は、厳しいものではあったが同時に優しげでもある。

「それに、あのセクハラジジイにも処分が出る。まだ怖いかもしれんが、安心していいぞ」

「…………あの、吉田主任……なんでその、そこまで」

 エレベーターは4階から各階に停まり、そのたびに何人かが降りていく。中には見知った顔もあったが、皆腫れ物を避けるかのように吉田にも美幸にも視線を向けようとしない。

「人間、誰だってやったらやったなりの報いがある。良いことでも悪いことでもだ。それだけだ」

 低い声で、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう話すのと同時に、エレベーターは8階で停まった。

 歩き慣れた通路をいつものようにあるいて、薄暗い廊下の突き当たりにあるドアを開く。

「っす」

「あ、あの、おはようございます」

 中谷が立ち上がり、ドアへと歩み寄ってきた。

「大草くん? 今日電話がなかったから心配してたんだよ。まだ無理しなくて良いんだよ?」

「い、いえ、あの、さすがにもうご迷惑をおかけするわけには……」

「いやいや、大草くんは『迷惑をかけられた側』、被害者なんだから。会社のことは心配要らないんだよ?」

「はい、あの、吉田主任にもさっきちょっとお話を伺いました」

 いつものように自席についてPCを開き、電源を入れていつもの手続き。

 出社ボタンを押して、勤怠履歴を確認する。

「先週ちょっとお話した通り、今回の大草くんのお休みは会社都合だからねぇ。全部有給扱いになってるよ。とりあえず、仕事はぼちぼちでいいし、会社にくるのがきついようならまた連絡をもらえれば大丈夫だから」

「いえ、あの……私、また会社に来てもいいですか? 家にいると、色々余計なこと考えちゃいそうで……」

「そうだねぇ……じゃあ、くれぐれも無理はしないようにねぇ? 体調最優先、ちょっとでも不調があったら休む。良いね?」

「は、はい。ありがとうございます」

 社内システムの履歴を確認すると、ここしばらく企画部と営業部からの依頼は幾つかしか入っていない。しかも、その依頼は全て『却下』のラベルが付いていた。

「じゃ、吉田くんも大草くんも、今日も自己研鑽ということで」

 中谷は相変わらずの昼行灯の顔で、いつものセリフを話した。

 吉田はスマホを取り出し、中谷はブラウザを起動する。美幸は『いいのかな』というような表情で、トートバッグからタッチタイピング教本を取り出した。

 この日から数日は、本当に日がな一日『自己研鑽』が続いた。お蔭で美幸はゆっくりとではあるが、人差し指以外の指を使ってタイピングが出来るようになっている。

 仕事の後、帰宅した美幸は日記を数日分まとめて書いたが、祖父のファーバー・カステルの万年筆は引き出しにしまったまま、以前から愛用していたペリカンの万年筆で丁寧な時を書き記した。

「さて、と」

 日記帳を閉じてキッチンに向かう。

 冷蔵庫の中の食材で簡単な夕食を作り、NHKのニュースを見ながら静かに食べる。

 この日の昼、幸一は久しぶりに資料室へやってきて、よりによってペヤングソース焼きそばの、しかもかなり大きな品とコンビニのおにぎりという、どう考えても不健康でしかない昼食を凄まじい速度でかき込んでいた。

 吉田と幸一が語るには、技術者というのは食事をしながら仕事をするのが普通であり、どうしても早食いになってしまうのだという。

 事実、焼きそば2つ分にコンビニおにぎり3つという、1食で美幸の2日分の摂取カロリーに匹敵する量の食事を、わずか10分程度で終えてしまっている。

「……お礼になるかなぁ……」

 そう呟きつつ、少し背伸びをしてシンクの上にある戸棚から予備の弁当箱を取り出した。

 普段遣いのもの一回り大きな弁当箱を開け、じっと中を見る。男性の弁当としては到底量が足りないだろう。だが、インスタント麺とおにぎりという、炭水化物しか摂れないような食事の補助くらいにはなるかもしれない。

 食事を終えて一旦キッチンを片付けた美幸は、再び料理を始めた。

 いつもは夕食を作るのに合わせて弁当用のおかずを作り、冷蔵庫で保存しておいてから翌朝会社へ持って行く、というのが日常のルーチンだ。

 この日は、いつもの倍以上の分量でおかずを作り、手際よく弁当箱へ詰めていく。

 高校生の頃から続けている弁当作りは、美幸にとって趣味でもある。色とりどりのキャラ弁、というものでもなく、どちらかと言うと見た目も地味なものではあるが、味は美貴や母、祖母の折り紙付きだ。

 数日間、笑顔を浮かべることも少なかった美幸は、料理をする内にいつの間にか広角が自然に上がり、下手な鼻歌を歌い始めていた。

 自分のための弁当だけを作る日々が長く続いたが、この日美幸は実に数年ぶりに、自分以外の誰かのための弁当を作った。

 出来上がった弁当を冷蔵庫に入れて、大きく深呼吸をする。

「そうだ」

 何かを思い出したかのように呟いて、一度は仕舞った日記帳と、祖父の万年筆を取り出す。

『みんな不幸になれ』

 自らが書いた呪いの言葉を二重線で消してから、そのすぐ下に丁寧な文字を書き込んだ。

『美味しく食べてくれますように』

 書き込んでからしばらく経ってから、文字を手で軽くこすってみる。当然のことながら、文字はかすれもしない。

「やっぱり……そうだよね……。ごめんねお祖父(じい)ちゃん、こんなこと書いて……」

 囁くような声で、そこにいるはずもない祖父、喜英に謝罪の言葉を口にする。

 きっとあのイタズラ好きな優しい祖父なら『そういうこともあるさ。大丈夫大丈夫。倒れても、しゃがみ込んでも、そこからゆっくりでも歩き出せば良いんだよ』と優しく頭を撫でてくれることだろう。喜英はそういう祖父だった。

「うん、頑張るよ、お祖父(じい)ちゃん」

 またそう呟いて、丁寧にペンにキャップを被せ、そっとケースにペンを収めて引き出しを閉じる。

 翌朝、少し重たいトートバッグを肩にかけて会社へ赴き、出社してから不自然な深呼吸を何度か繰り返し、まだかなりたどたどしいタイピングでチャットウィンドウに文字を打ち込んでいく。

 最後の送信ボタンをクリックする前に、また数回深呼吸。

 文字通り、重大な決意をもって送信ボタンを押すと、チャット履歴のウィンドウに美幸が送信したメッセージがぽんと表示された。

『お疲れ様です。ご迷惑でなければ、もしご都合良ければお昼いっしょにいかがですか? お弁当を作ってきました』

 しばし無人の部屋で、ふとチャットウィンドウを見返す。

「……ど、どうしよう……私ひょっとしたら、すごく図々しいことを……」

 なんとかして送信したメッセージを消せないか、マウスをぐるぐるとあちこち動かしている内に、メッセージには『開封済み』のラベルがついてしまった。

「ああああああ! ど、どうしよ、どうしよう、どうしよう、消せないのかな、消せるよね? 取り消しできなかったかな?」

 ひとり慌てていると、資料室のドアが静かに開き、昼行灯が顔をのぞかせた。

「おはようございます」

「どどどどどうしよう、どうし……あ、な、中谷部長、おはようございます……」

「……どうしました? なにかトラブルですか?」

「え、あ、あの、いえ違うんです、えっと、その、これはトラブルとかではないんですけど……」

 美幸が慌てていると、パソコンから可愛らしい通知音。

 チャットウィンドウを見ると、なんと幸一から返信が届いていた。

 顔文字に加えて、親指を立てたようなアスキーアート。その次の行に『12時ダッシュで行きます!』という、実に勢いの良い言葉が届いている。

「あ……ああぁ……ど、どうしよう……」

 途方にくれたような顔の美幸の顔を心配そうに覗き込む中谷の視線に気づくこともなく、美幸は力なく椅子に腰掛けて、ブツブツと『どうしよう』『やっちゃった』『何話せば良いの』と呟く。

 吉田がスマホを片手に持ったまま、いつもの『……っす』という、挨拶にしても短すぎる言葉をかけた姿を見てか、美幸は何かを思い出したようにバッグから買ったばかりのスマホを取り出した。

 大急ぎで、かろうじてキーボードよりも早く打ち込めるテンキー入力でメッセージを入力する。

『たすけておねえちゃん』

 短くそうメッセージを送った数十秒後、早速美貴からのメッセージが返ってくる。

『どうした? 緊急事態?』

 相変わらず、ウサギが甲冑を着ている謎のスタンプで『出陣じゃあ!』と叫んでいる絵が送られていた。

 確かに緊急事態かもしれない、そう思いつつ、スマホを手に持って救いを求めるような目を中谷に向ける。

 何かを敏感に察した上司は、優しい笑みを浮かべて頷いた。

「さぁて、じゃあ今日も各自、自己研鑽を頑張りましょうかねぇ」

 美幸は再び、必死でメッセージを打ち込み始めた。

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