08 悪意のカタマリ
どさ、と大量の書類が美幸の机に乱暴に載せられる。
坂巻と記された社員証の女と、さらに他に3人がノックもなく資料室に入り込んで、段ボール箱が乗ったカートを美幸の机の引き出しにぶつけてきた。
「お疲れ様ぁ。これお願いしまぁす」
口調だけは丁寧な言葉遣いで、坂巻は傲然と美幸を見下ろした。
ちょうど昼休みの終了直前で、吉田も中谷もいない状況だ。ただ一人、自前の弁当を食べ終えて文庫本を読んでいたところに、突撃と言えるほど唐突な来訪だった。
「これ、全部ラベリングして保管しといてくださぁい。今日中で」
「えっ? こ、これだけのを、今日中ですか?」
「え? 何? 資料室ってそういう仕事ですよねぇ? 仕事したくないって言ってますぅ?」
侮蔑の感情を隠そうともせず、坂巻は次から次へと美幸の机の上に書類を載せていく。
「カンタンじゃないですかぁ? ただ分類して? 綴じて? 箱詰めするだけ? ですよね? あー楽な仕事で羨ましい。こんな誰でも出来るような作業で給料もらえるなんて羨ましいですぅ」
「じゃあ、君たちがやってみるかい? 誰でも出来る簡単な作業なんだから」
坂巻たち3人の後ろから、相変わらず緊張感のない語り口の中谷の声。
3人のすぐ後ろに立っていた中谷は穏やかな表情を浮かべているが、目だけは笑っていなかった。
「君たちは確か企画部だったっけね。そういう依頼は作業依頼システムを使うように通達がでてたはずだけど、作業依頼は入ってないねぇ? 会社の業務ルールを無視して、いきなりこれはどういうことかな?」
傍目には穏やかだが、中谷のすぐ後ろには大柄な吉田も立っており、3人の女子社員は早くも気圧され始めていた。
「吉田くん、ちょっと企画部に行って確認してもらえるかな?」
「……っす」
大柄な男が踵を返して足早に部屋を出ていく。
「困るねぇ、こういうことをされると。それに、この分類とラベリングと保管を、いつまでだって言ってたっけ?」
「え、あ、あの、いや……今月中……?」
「聞き間違いかなぁ? さっき今日中って言ってたよねぇ? 企画部は業務ルールを無視して、他部署の都合も無視して仕事をする、という意思表示ととって良いのかな?」
「いえ、あの、これは……」
坂巻達3人はしどろもどろになりながら、進むもならず退くもならずの状態に陥ってしまった。
「それに、資料室に持ち込むときは、それぞれの部署で分類済みの状態にする、というのがルールになってるのは知ってるねぇ? 未分類の状態で持ち込むというのは、これはどういう意図があるのかな?」
「す、すみません中谷部長!」
遠くから慌てたような女の声が近づいてきた。
高そうなスーツを身に着けた女は、資料室で立ち尽くしている3人を睨みつけてから中谷に頭を下げてきた。
「すみません! この子達が先走ってしまいまして、未分類の資料を持ち込んでしまいまして!」
「そのようですねぇ。これは、企画部からケンカ売られてると思っていいんですかねぇ?」
「とんでもない! すみません、厳しく言って聞かせますんで、すみません!」
ふぅ、とわざとらしいため息を吐いて、青ざめたまま立ち尽くしている坂巻らに視線を向けた中谷は、敢えてなにも言葉をかけずに企画部の女課長、大谷に身体ごと向き合った。
「最近、社内でパワハラやモラハラが多く見受けられてるみたいですが、企画部ではハラスメント教育をしてないんですかねぇ。それとも、資料室みたいな裏方の部署には何をやってもいいと教えてるんですかねぇ?」
「も、申し訳ありません……決してそのようなことは……」
「今後、企画部からの業務依頼の扱いについても考え直さないといけない、ということはよくわかりました。で? どうするんですか?」
怒りの感情も露わに、大谷は部下である坂巻たちを睨みつける。
「謝罪なさい! 業務ルールを無視してこんなことをして! 何考えてるの!」
「す、すみませんでした……」
3人はすごすごと引き下がろうとする。が、その前に吉田が立ちはだかった。
「おい」
低い声と見下ろすような視線に、坂巻達3人はびくっと怯えたような表情を浮かべる。
「片付けろ」
そう短く言って、美幸の机の上に雑に積まれた書類を指差す。
結局3人の女子社員達は、大谷の叱責を浴びながら書類を箱に詰め直して引き下がっていった。
中谷は企画部の女子社員と一緒に部屋から出て、どこかへ行ったまま定時近くになるまで帰ってこなかった。
呆気にとられている美幸に、吉田が甘い缶のカフェオレを差し出してきた。
「大丈夫か」
「え? あ、は、はい……え、えと、あの……はい、大丈夫……です」
「ああいう依頼は受けなくて良い。業務依頼システムとルールの意味がなくなる」
「は、はい……」
ぐす、と美幸が鼻をすする。
視界がぐにゃ、と歪み、呼吸が苦しくなる。
泣きたいと思っているわけでもないのに、自然に涙が溢れて鼻が詰まってきた。
「え、あっ、あの、ごめ、すみません、あのっ……」
「……使うか?」
ぐすぐすと涙ぐみ始めた美幸に、吉田がボックスティッシュを差し出してきた。
ずびばぜん、とあからさまに鼻が詰まった声でティッシュを受け取って目に当てる。
仕事場で泣いたのは、美幸にとってこれが初めてのことだった。
これまでセクハラも何度もあった。おそらくはパワハラだろうという経験もある。今回のもおそらくはモラハラに分類されるものだろう。
全部、自分が我慢すればそれで済むと考えていた。喉元を過ぎればそれで大丈夫。同じような事があっても受け流してしまえば良い。気にしなければ大丈夫。話を大きくしたら、また嫌がらせが待っているに違いない。
それが、美幸にとっての処世術だった。
ただただ黙って、小さく蹲って、人目につかないように、目立たないように、荒立てないように、誰の目にも留まらないように、誰からも気にされないように。
だが、日頃から繰り返した我慢は着実に、丁寧に、容赦なく美幸の心を少しずつ抉っていく。
必死で嗚咽を抑え込むように声を殺して、誰に言っているのかわからない『大丈夫です』という言葉を繰り返して美幸は泣いていた。
吉田はそんな美幸にあえて声をかけず、自席に座るとパソコンを操作する。
美幸にとって、この『優しい無視』が心の底からありがたかった。慰められたら慰められただけ、惨めな思いをすると考えていた。
敢えて何も見ずに、何も聞かずにいてくれることがどれほどありがたいことか、そのことを噛み締めつつ十分程うずくまった美幸は、ようやく落ち着きを取り戻す。
「ありがとうございました、吉田主任」
「……気にしないで良い」
ボックスティッシュを受け取って、吉田は相変わらず無愛想で無表情な顔を美幸に向ける。
真っ赤に泣き腫らした目を見て、今度は目薬を差し出してきた。
「だ、大丈夫です。目薬なら持ってますから」
「そうか」
短くそういって、意外なほどあっさりと目薬を机の引き出しに戻す。
中谷が戻ってきたのは、ちょうど美幸が目薬をさしていたときのことだった。
「いやぁ、災難だったねぇ大草くん。企画部にはちゃんと抗議しておいたから」
「……すみません、中谷部長」
「いやいや、大草くんが謝ることじゃないですよ。ああいうのを一度許すとね、次からはどんどんエスカレートしますからねぇ。吉田くん、どうかね、アレは。大丈夫そう?」
「……っす」
中谷が『アレ』といったものが何を指すのか、まだこのときの美幸は知る由もなかった。
この日以降、暫くの間美幸は坂巻達と顔を合わせることはなかった。
オフィスビルのエレベーターでも、フロアの通路でも、ほとんど会うこともない。だが、営業部の数人からはあからさまな無視をされるようになっている。
大丈夫、いつものこと、と自らに言い聞かせるように呟く美幸にとって、会社での楽しみは時折資料室を訪れるようになった幸一との何気ない会話だった。
賑やかな双子の妹の話や、美幸の姉の話なども交えて、かなり距離が近づいていた。
会話を重ねる内に、実は幸一が家族と同居していることや、自身は全く料理が出来ずほとんど外食ばかりであること、それに吉田が幸一の先輩社員にあたり、一時期は同じ開発部に所属していたことなどを知らされた。
「吉田さん、俺の指導担当だったんだよ。でもさ、吉田さんって基本喋らないから、あんま教えてもらえなかったなぁ」
あはは、と笑いながら、相変わらずカップヌードルにおにぎりという不健康極まる昼食を食べる幸一を、菓子パンを食べながら吉田が睨みつける。
「そうだったんですね……お二人共、もともと開発だったんですか」
「まぁね。中谷さんは確か、俺が入社したときにはもう資料室でしたよね?」
「そうだねぇ、資料室は僕が作ったようなものだからねぇ。ま、左遷というか、厄介払いみたいな感じだったのかなぁ」
あははは、とあっけらかんと笑う割には穏やかでない内容だ。
だが、空気を読むことに長けた美幸は、それ以上の深堀りを出来なかった。
「でもまぁ、吉田くんも森林くんも、優秀なエンジニアだと思うんだけどねぇ」
「いやぁ、ホントに優秀だったら情シスにはいないですよ」
菓子パンの最後、メロンパンを飲み物無しで完食するという、美幸からすればとんでもない荒業をやってのけた吉田が、美幸のもつ携帯がいつの間にかスマホに変わっている事に気がついたように、美幸の手元を指さした。
「あ、こ、これですか? ついに私もスマホにしちゃいました……森林さんに選んでもらえて」
「森林が……?」
少し驚いたような表情の吉田に、慌てたように美幸は手をぱたぱた顔の前で動かした。
「あ、いや、えと、ち、違うんです、あの、あの、これは」
「新宿のヨドバシでばったり会ったんですよ。大草さんは確かお姉さんと? だっけ? 俺は妹の買い物につきあわされてるときに。んでスマホ売り場にいたんで、おすすめを教えただけです」
「なんだ、そうか」
「吉田さん、なんでそんな残念そうなんすか」
苦笑交じりに幸一がペットボトルのお茶を一口飲むと、つられたように吉田も少しだけ頬を緩ませる。
穏やかな昼休みの時間は、ここ数日の美幸にとって心のオアシスとでも言うべきものだった。
突然ドアが荒々しく開き、営業部の課長、鈴木が怒鳴り込んでくるまでは。
「大草ァ! お前なんてことしてくれたんだ!」
その場にいた全員が、突然の闖入者に視線を向ける。
予期せず名前を大声で呼ばれた美幸は、ひゅうっ、という変な呼吸音と共に動きを止めてしまった。




