07 女の勘、姉の直感
「ねぇ美幸、あんたやっぱ何かあったんじゃない?」
「えっ? い、いや、何も無いよ?」
週末の土曜日、美貴は妹をランチに誘っていた。
間違えて美幸のスーツケースに入れてしまったカメラを受け取るためで、二人にとってちょうど中間距離にあるであろう新宿での待ち合わせだ。
美貴が見つけた『美味しいけどお手頃価格な洋食屋さん』で遅めのランチを済ませたのち、そのまま食後のコーヒーをのんびり飲んでいるときのことだ。
じろ、と美幸の顔を覗き込んだ美貴は、怪訝そうな顔と心配そうな声で美幸に話しかける。
「あんた子供の頃からなにかあっても『大丈夫』『何も無い』しか言わなかったからね。本当に何も無いときの『何も無い』と、何かあるときの『何も無い』くらい見分けがつくのよ? おねーさまをナメないように」
あはは、と力なく笑ってアイスコーヒーにたっぷりとシロップとミルクをいれ、からからとストローでかき混ぜる。
この3日ほど、美幸の周りでは妙な出来事が続いていた。
職場で使い、帰り際に洗って給湯室で干していた美幸のマグカップが割られていたり、エレベーターであった同僚の女子社員達が、あからさまに美幸に視線を向けてわざと聞こえるようにひそひそ話をしては『いつまでいるのよ』『辞めりゃいいのに』と呟いたり、さらには営業部の部長麻原にしつこくLINEのIDを聞かれたりと、会社にいづらくなるような状態が続いている。
LINEのIDなど、ガラケーの美幸が持っているはずもなく、『あの、そういうのやってません』と必死に逃げていたところに、たまたま吉田が通りがかり『部長が呼んでる』と声をかけてくれたお蔭で、しつこい追求からは逃れられている。
「ねぇ、ホントに何かあったらいつでも言いなさいよ? あんた何かあってもとりあえず我慢しちゃうから、心配なの」
「な、何も無いってば……あ、でもねお姉ちゃん、ちょっとおもしろいことはあった」
「ホントに? ……まぁ、そう言うならしょうがないかぁ……で? 面白いことって?」
「ほら、お祖父ちゃんちで見つけたこのペン、覚えてる?」
美幸がカバンから真鍮製のペンケースを取り出して、姉の前に差し出した。
「あぁ、それ? なんか良いペンだったんでしょ?」
「そうそう。でね? これ、ほら」
ケースをあけ、詰め物を取り外すと、そこには折りたたまれた紙片。
美貴が受け取って開くと、角ばった特徴的な祖父の字が現れた。
「書いた願いが叶うペン? ……文字にならない言葉の願いだけが叶う……? なにこれ? どういうこと?」
「うん、わかんない。でもね、これで日記に『朝の電車で座れますように』って書いたら、次の日の朝座れたの」
「へぇ!? まじで? え? じゃあこれ、書いた願いがホントに叶う?」
「そんなわけないよぉ。ただの偶然。でも、面白いよね。お祖父ちゃんらしいと思う。文字にならない言葉の願いっていうのがなにかわかんないけど、こういう謎掛けっていうか……こういうの、すごくお祖父ちゃんっぽい、って感じる」
「あー、わかる。お祖父ちゃんこういうの大好きだったもんね。へぇ……ねぇ、私万年筆って使ったこと無いけど、どっち向きで書くの?」
美貴は紙ナプキンを1枚取り出して、ペンのキャップを外す。
「あぁ逆向き。そっちじゃないよ。ペン先の金属の方が上向くようにするの。で、紙を優しくなぞるみたいにすれば書けるから」
「へぇ、それじゃあ…………今度の私の企画が通りますように……っと」
「……お姉ちゃん、それ結構本気のやつ……」
「えー? だめ?」
「ダメじゃないけど」
「じゃあほら、お祖父ちゃんのカメラで美幸撮ってあげるからさ。フィルム買いに行こ。ヨドバシで売ってるからさ。時間大丈夫?」
相変わらずマイペースな美貴に振り回されるのは、美幸にとってはもはや日常茶飯事だ。
「うん、大丈夫。特に予定ないし」
「そっか、じゃコーヒー飲んだら行こっか。ついでにさぁ、美幸もそろそろスマホにしたらぁ? いつまでそのガラケー使うの?」
「だって……スマホとか使い方わかんない……」
「使いこなさなくて良いの。たださ? メッセージとか、メールとか、そういうのもあるじゃん」
「うん……それはそうなんだけど、でもスマホって高そうだし」
「高いけど、それだけの価値はあるって! ね? 私半分出したげるからさ!」
「えー……でもぉ……」
うつむき気味に下を向いてコーヒーを混ぜ続ける妹の姿も、美貴にとっては見慣れたものである。
地味で大人しく内気で引っ込み思案で自己主張というものを殆どできない性情の美幸は、なにか嫌なことがあっても声を上げずにとりあえず我慢を選んでしまう。
「今日これからお店行くから、見るだけでも見てみない? ね?」
「……じゃあ、見るだけだよ?」
ゆっくりコーヒーを飲んでから小さなレストランを出て、新宿駅近くのヨドバシカメラへと向かう。
フィルムカメラ関連の売り場へ立ち寄って、中判フィルムと呼ばれるサイズと35ミリと呼ばれるサイズのカラーネガフィルムを買い込んでから、スマホ売り場へと移っていく。
「やっぱ私のおすすめはiPhoneかなぁ。使いやすいし、私も使ってるから使い方教えてあげられるしさ」
「え、あの、ちょっと待ってお姉ちゃん、もう機種変する前提になってない?」
「えー? ねぇ機種変しようよぉ。スマホだったら顔見ながら通話だって出来るよ?」
「それはそうだけどぉ……」
「お父さんもお母さんも、お祖母ちゃんだってスマホ使ってるんだよ? いまウチの家族でガラケーとか使ってんの美幸だけだよ?」
「それも、まぁ……そうなんだけど……」
「大草さん?」
iPhone売り場で、何故かセールスマンではなく美貴に押し切られそうになっている美幸の耳に、最近聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「え? ひぇ、あ、えっ、あ、も、森林さん?」
「お疲れ様です……あぁ、スマホ?」
「いえ、あの、これはその、違っ——」
慌てる美幸と、妹に声をかけてきた青年の顔を素早く見比べ、凄まじい勢いでアタマの中で何らかの計算を繰り広げたであろう美貴が、一瞬で仕事で使えるスマイルを浮かべて森林に顔を向けた。
「あの、妹のお知り合いの方ですか? 姉ですぅ、いつも妹の美幸がお世話になってます!」
「あぁ、はじめまして。同僚の森林と申します。いつも妹さんにはお世話に——」
幸一もすぐさまビジネスモードに切り替わったように、社会人として実に相応しい挨拶をする。が、その挨拶を途中で遮るように、幸一の背後から若い女の声が飛び込んできた。
「ねぇーお兄ちゃん、これとコレどう違うの?」
「お兄ちゃんってばぁ、ねぇー」
かなり馴れ馴れしい女の声だが、幸一を『お兄ちゃん』と呼ぶことからも、彼の妹であろうことはすぐに理解できた。
美幸と美貴が驚いたのは、二人の女の顔が見分けられないくらい似ていることだ。
「……あの、大草さん、コレは妹で、こっちが真美でこっちが亜美」
真美と亜美、と紹介されたが、立ち位置が変わっても恐らく美貴も美幸も気付かないだろう、というほどに顔も背格好もよく似ている。というよりもほぼ同じと言っていいレベルだ。
「妹は一卵性双生児で、今日は妹たちの——」
「えー? お兄ちゃんの同僚の人っすか? はじめましてぇ」
「いつもウチの無愛想お兄ちゃんがお世話になってまぁす」
「え? ねぇ、お兄ちゃんの彼女さん? ですか? ですよね? ねっ?」
「カノジョさんっすよね? ね? そうなんだぁ? へぇ? あ、私たち邪魔だったり?」
「邪魔っぽいね? 亜美、帰ろっか?」
「お兄ちゃん、私たち先帰ってよっか?」
「違う。ちょっと黙ってろ二人とも」
一気に距離を詰めようとしてきた双子姉妹を雑に遠ざけて、すみません、と美貴に対して軽く頭を下げる。
「……すみません、大草さん。アイツら大学生で暇なのか、ほうっておくと延々喋り続ける奴らで……」
「元気な妹さんで良いじゃないですか。賑やかでよさそう。ウチはこの子が物静かで、放って置くと全然喋らないんですよ?」
「ちょ、やめてよぉ、ちょっと、ねぇ、お姉ちゃん……」
自然にぐいぐいと前に出る美貴と、幸一の妹、真美と亜美は結構気が合いそうである。
何とか姉を引っ張り戻そうとする美幸だが、ゴリ押し大好きな姉を引っ込み思案な妹が止められるはずもなかった。
「そうだ! 妹の同僚の方ってことは、ITに詳しい方ですよね?」
「えぇまぁ、情報システム部に所属してますんで」
「そしたらほら、ね? 美幸、スマホ選んでもらったら? あの、この子未だにガラケー使ってて、いい加減機種変させたいんですけど、なかなかするって言わなくって。家族みんなiPhone使ってますから揃えさせたいんですけど、私もそんなに詳しくないんです。初心者が最初に選ぶのってどれがいいんでしょうね?」
「ちょ、ちょっと、ねぇお姉ちゃん? さすがに失礼だってば、ねぇ?」
姉のバッグをグイグイ引っ張りながら、美幸はしきりに『すみません、姉が失礼なことを』『ちょっとお姉ちゃん』と繰り返しながらぺこぺこと頭を下げる。
だが、幸一は特に気にする様子もなく『あぁそれなら』と幾つか展示されている端末に視線を向けた。
「もしガラケーから機種変するなら、そんなにハイスペックじゃなくても良いと思う。この辺とか、コレなんかは割とiPhoneの中でも手頃な方なんじゃないかな」
「は、はぁ……でもあの、本当に私機械が苦手で……壊しちゃいそうで怖いです」
「そこも大丈夫。落としたり物理的に壊したりしない限りは心配しないで良いと思う。それに機械が苦手なら、なおのことiPhoneにするのが良いかな。ちょっと見てて」
幸一はポケットから自身のiPhoneを取り出すと、音声コマンドで操作を実演して見せる。
「こんなふうに、音声で日頃使うようなものは操作が出来るし、iPhoneなら俺でも使い方は教えてあげられる」
「……す、すごい……えっ、こんな、声で操作が出来るんですか? そしたら、電話帳に登録しておけば誰それに電話して、とか言えば電話かけてくれたりするんですか?」
「もちろん。そうだな、電話……もしよければ、音声で指示して、大草さんに電話してみようか」
「あ、は、はいっ、お願いします!」
まるで何の警戒心も抱かずに幸一に自分の携帯番号を教えて、幸一の実演に感激した美幸は、姉の話では散々渋っていたのも忘れたかのようにあっさりとiPhoneに機種変更を済ませた。
さらに、いつの間にか打ち解けていた美貴と亜美、真美とも当然のように連絡先を交換し、この日美幸の電話帳の登録件数は、携帯キャリアのサポートセンターもの番号も含め、初めて二桁に到達した。




