06 楽しいお昼休み
「あの、森林さん」
昼休みの時間になって、いつも資料室にいない者がキャビネットだらけの部屋に入り込んでいた。
くたびれたスーツに、もはやネクタイを締めるのも諦めて襟元が開いたままのシャツ、それに無精ひげにボサボサの短い髪。
何故か吉田と幸一の二人は、床に座り込んでパソコンを開いたまま、何か作業をしながら極めて不健康な昼食を取っている。
吉田は買い物袋一杯の菓子パンにコーヒー牛乳。幸一はカップヌードルにおにぎりという、『炭水化物フェスティバル会場はこちらです』と看板でも出してしまいそうなほどに偏りまくった食事である。
「いつも、そういうの食べてるんですか?」
「ん? あぁ、まぁ……男の昼飯なんてこんなモンだよ」
「でも、野菜とか、ビタミンとか足りてないと思います」
「まぁまぁ」
ずるるる、と豪快な音を立ててシーフードヌードルをすすって、たった3口でコンビニのおにぎりが口の中に消える。
どちらかというと少食な美幸からすれば信じられないような食事である。
実家では成人男性は父親だけだった。姉はよく酒を飲むこともあり、割とよく食べる方ではある。だが、若い成人男性の食欲と食事情を目の当たりにする機会はほとんど無い。カップヌードルにコンビニおにぎり4つなど、下手をすると美幸の1日分の食事に相当する位の量だ。
吉田に至ってはクリームパン、あんぱん、カレーパン、ピザパンにあんバターサンド、あんドーナツと、餡モノが3つも被っていることなどいささかも意に介さず、全てのパンを3口で完食しては甘いコーヒー牛乳で飲み下している。
お世辞にも食事を楽しんでいるというよりは、脳の栄養源であるブドウ糖の摂取を最優先にしたような『補給』である。
「ん」
デザートのチーズトーストを咥えたまま、吉田がパソコンの画面を幸一に向けると、シーフードヌードルのスープを全て飲み干してから幸一が何かブツブツと呟きながら何かを操作している。
何をしているのか気になるところではあるが、美幸には目の前で何が起きているのかさっぱりわからない。
中学生のときに読んだ『走れメロス』で、『メロスは政治がわからぬ。メロウは村の牧人である』と書かれていたのを唐突に思い出す。太宰治の言葉を借りるならば、さしずめ今の状況は『美幸はITがわからぬ。美幸はただの機械音痴である』といったところだろう。
「あ、そうだ。中谷部長、後でちゃんと依頼出しますんで、資料お願いしていいですか?」
「あぁ、もちろん良いよぉ? 何ならここで直接見ても良いけど、どうする?」
「ありがとうございます。じゃ直で」
「うんうん、じゃあ大草くん、森林くんの資料さがし、手伝ってくれるもらっても良いですかねぇ?」
「え? あ、はい、わかりました。……えと、あの、よろしくお願いします」
「よろしく。じゃあ早速なんだけど、今から5年前の資料からなんだけど」
幸一が指示した資料を段ボールから取り出し、コピーを取って専用のファイルにまとめていく。
その手際は、PCを操作していた幸一が手を止めてじっと目を向けるほどの速度であった。
「大草さん、凄いね。よく紙の資料なのにそんだけ早く見つけられるね」
「え? あ、あぁ、あの、これはその、そう出来るように整理してますので、中谷部長と吉田主任が」
「いやぁ、見つけやすいようにしてはいるけど、それでもこれだけ早く見つけられるのは大草くんだからだねぇ。僕や吉田くんじゃあこんなにサクサク見つけられないんじゃないかなぁ」
「そ、そんなことないですよぅ……」
照れ笑いを浮かべながら、美幸は資料を探す手を止めることが無い。
あぁこれならこっちの棚のこの段のこの箱、その資料なら向こうの棚のこの箱に入ってるこのフォルダーの中、とシステムでの検索に頼ることもなく、迷いなく資料を探し当てていく。
このアナログ検索能力は、美幸は意識したことも無かったが、中谷や吉田が資料室の要と頼りにしているものだ。
パソコンでの作業に慣れている男性陣は、デジタルでの検索は非常に手早くやることが出来るが、アナログの検索速度では美幸の足元にも及ばない。
「えっと、とりあえず今からファイルに綴じますね」
過去5年分の書類の山から抜き出した情報をコピーして、資料としてひとまとめにする。その情報を探すに当たって中身の確認をすることこそあるが、まとめられた資料で何をするのか、何のためにまとめるのかについて問わないのが資料室の暗黙の了解である。
「幸一、情シスからアクセス出来るか確認」
「わかりました。じゃあ……それじゃ大草さん、その資料情シスまで持ってきてもらっていいかな?」
「あ、はい。わかりました。それじゃあまとまり次第お持ちしますね」
吉田にしては珍しいくらい長い文章を喋ったが、コーヒー牛乳をぐい、と飲んでからは再び沈黙の男に戻ってしまった。
ドアを開けて足早に資料室から出ていった幸一を追いかけるように、フォルダを抱えた美幸がオフィスの廊下を歩いて行く。
途中すれ違うOL達は、やはり会釈する美幸に一言の挨拶も返さない。
花形の部署に所属する者たちにとって、日陰の部署である資料室や情報システム部などは、特に挨拶を返す価値もない存在とみなされていた。その傾向は職階が上になればなるほど顕著で、営業部、開発部、企画部の部長などは幸一や美幸といった裏方部署の『下っ端』には視線すら向けようとしない。
資料室と同じく、薄暗く狭い通路の突き当りにあるドアをノックすると、内側から少しくたびれた顔の幸一がドアを開けた。
「お疲れ様です。依頼されてた資料、こちらです」
「ああ、ありがとう。助かったよ」
「いえ、これが資料室のお仕事ですので」
にこ、と笑みを浮かべて会釈をすると、幸一も軽く頭を下げてフォルダを受け取る。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
一度部屋の奥へと幸一が引っ込んでいく。
数えるのが嫌になるくらいの数のパソコンと、何に使うのかわからないケーブル類、それに美幸にとっては全く身近でない機械類がチカチカと緑やオレンジの灯りを点滅させている。
うわぁ、と驚愕とも畏れともとれるため息を漏らして棚いっぱいに並べられたハードディスクの塔を見上げる。
機械音痴の自分が触ったら、おそらくとんでもない事になってしまうだろう、ということだけはわかるのか、美幸はドアの向こう側に一歩も立ち入ろうとはしなかった。
「これ、せめてものお礼」
「えっ? あ、いえ、あの」
戻ってきた幸一が差し出したのは、ベビースターラーメンの小さな袋。駄菓子屋でよく見かける、なんということはないお菓子だ。
「ごめんね、こんなのしかなくって。あ、コアラのマーチもあるんだ。ちょっと待って」
「あ、あっ、あの、森林さんっ?」
戻ってきた幸一は、本当にコアラのマーチが小分けに入っている袋をもって戻ってきた。
「何か御駄賃みたいで気が引けるけど、ホント情シスってこういうのしか無いんだ。まぁ、気が向いたらいつでも遊びに来てよ」
「は、はい……ありがとうございます」
ITに疎い人間にはなかなか近寄りがたい空間だ。恐らく用事がなければ訪れることはあるまい、と思える場所から『それじゃあ、失礼します』と短く告げてとぼとぼと歩き去る。
いつもなら誰ともすれ違う事無く、誰とも会話を交わすこともなく資料室に戻るのだが、この日はなぜか後ろから呼び止める声が聞こえたような気がして振り向いた。
「資料室の大草さんよね?」
「え? あ、はい、お疲れ様です……」
首から下げた社員証を確認すると、企画部の坂巻、という女子社員だった。
「情シスに用事だったの?」
「あ、はい、資料の依頼を頂いてましたので」
「ふぅん、一人しかいない部屋に行って? へぇえ……そうなんだ」
「……あ、あの、何かご用事ですか?」
「別にぃ? 用事がなきゃ話しかけるなってこと? さすが、資料室って忙しいのね、企画部と違って」
「あ、いえ、あの、す、すみません、そんなつもりじゃ……」
「資料室も情シスも、大した仕事もないのによくそんな忙しそうに出来るよね。その仕事してるフリが上手なのって羨ましいわぁ」
坂巻という名前の女の顔には、明らかに侮蔑の感情しか込められてない笑みが浮かんでいる。
いつの間にか美幸の前に立ちはだかる女子社員は3人に増えていた。いずれも企画部の面々である。
不意に坂巻が美幸に顔を近づけて、声のトーンを落として耳元で囁いた。
「あんたみたいな、大人しそうな顔して男に近づくヤツ、大っ嫌いなのよ。何のために資料室に飛ばされたのよ。さっさと辞めちゃいなさいよね」
「えっ?」
顔を話した坂巻は、口の片方だけを上げる歪んだ笑みを浮かべて『はっ』と半笑いの声を上げると、スカートを翻すように美幸に背を向ける。
「あーぁ忙しい忙しい。さっさと行こ」
「そうよねぇ、資料室とか情シスって暇そうでホント羨ましい」
「えー? 私あんな暇な部署耐えられない」
「そうよねぇ」
口々に好き放題なことを言いながら、最後は高らかな笑い声を挙げて通路の角を曲がりエレベーターへと去っていった。
しばらくその場で立ち尽くしていた美幸は、ふぅ、と深呼吸をしてから無言のままで資料室へと戻る。
「資料、渡してきました」
「お疲れ様、大草くん。情シスの部屋はどうだった?」
「……え? あ、す、すみません部長、何でしたっけ?」
少しぼんやりとしていたような美幸に、吉田はほんの少しだけ鋭い視線をむける。が、すぐに視線をパソコンの画面に向けた。
「いやぁ、なんでもないよ。じゃあ午後は今日も特に作業依頼は入ってないね。いつも通り、各自自己研鑽で定時まで。ね? あぁ吉田くんは昨日徹夜だったから、今日は残業しないでちゃんと帰るように。良いね?」
「……っす」
短く返事をしてから、吉田はすぐにパソコンの液晶画面に視線を戻し、何事かを書き記しているのか、凄まじいスピードでキーボードを叩いている。
美幸はどこか引っかかるよなものを感じながら、いつものようにトートバッグからタッチタイピングの本を取り出して、自席のパソコンに向かい合う。
いつものように眉尻を下げて、泣きそうな顔になりながら『えっと、B、B、B……Bは左手の? 人差し指の斜めした……』と頼りないことを呟きながら、キーボードとの格闘を始めた。




