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05 小さなお願い

 いつも通り、帰宅後の料理、食事、風呂のルーチンを済ませてから、美幸の夜の時間が始まる。

 と言っても美幸の習慣は、性格や見た目と同様大変に地味なものだ。

 中学生の頃から続けている日記と、そして読書と編み物である。

 趣味以外では大変に不器用な美幸だが、料理と編み物と刺繍、それに手書きで文字を書くことに関しては非常に器用な部類にはいる。苦手意識を持っている物事に対しては大変『恐る恐る』になってしまうため、ただでさえ遅い手のスピードが更に遅くなってしまう。が、一度マスターした技術に関しては、姉の美貴が驚くほどに器用で精密な作業が出来る。

 まだ7月の半ばで真夏日になるほどの気温が連日続いており、編み物には向かない季節ではある。が、今年は自分と、姉の美貴と祖母幸子のためのセーターを編む予定にしているため、早めの準備を始めていた。

「まずは日記書かなきゃ」

 そう呟いて、美幸は机に向かう。

 結構分厚い日記帳を開き、まだ何も書いていないページを探し当てると机の引き出しを開けて愛用のペンを取り出した。

「……あ、そうだ」

 何かを思い出したように手を止めて、いつものペンのすぐ隣に置いてあった真鍮のペンケースを開く。

 いつ頃の万年筆であろうか、比較的小柄だった祖父の手に馴染むようにか、それほど軸も太くなく握り心地は悪くない。

 法事から戻ってきた翌日にはペン軸のクリーニングも済ませてある。あとはインクコンバーターを取り付ければ、すぐに書くことが出来るはずだ。

「えへへ……お祖父ちゃんのペンかぁ……」

 しげしげとペンを眺め、ペンケースもひっくり返したり開けたり閉じたりしていると、ケースに詰めてあったベルベットのサポート部材がぽろ、と取れた。

「あっ……あ、これ取れるんだ」

 少しホッとしたように床に落ちたサポート部材を持ち上げてケースに戻そうとしたが、美幸の手が途中で止まる。

 折りたたまれた小さな紙が、サポート部材とケースの間に挟まっていたのだ。

「……なんだろ……お祖父ちゃん、また何か隠してたのかな」

 美幸が『また』と語るくらいには、祖父の喜英は色々なものを隠しては、見つけたものを驚かせるのが好きというお茶目な一面を持っていた。

 幼い頃、美貴と美幸が祖父の家に遊びに行ったときなど、家中にお菓子を隠しては『さぁ、見つけた分だけ食べていいぞ』と二人の孫娘に探検と宝探しを楽しませていたものだ。

 美幸が手にとって広げた紙片には、ひと目で祖父のものであるとわかる角ばった文字が記されていた。

『書いた願いが叶うペン。ただし文字にならぬ言葉の願いだけが叶う』

 しばらくの間、じっと紙片に書かれた文字の意味を考える。

 文字にならない言葉の願い、それなのに『書いた願いが叶うペン』。書いた願いが文字にならない、絵で描けとでも言っているのだろうか。だとしたら絶望的だ。美幸はドラえもんの絵描き歌を歌いながらでも、まともにドラえもんすら描けないほど絵が下手なのだ。

 いたずら好きの祖父のことだ、きっと何らかの意味を込めたに違いないが、そもそも書いた願いが叶うペンなどというものがあるはずもない。あるとしたら、それは魔法のペンだ。

「お祖父ちゃん、また何かやってる……」

 そう呟きながら、祖父の生前のいたずらっぽい笑顔を思い出して、思わず美幸も笑顔になる。

 穏やかで、明るくて、博識で、周囲にいる誰からも慕われて、その豊富な知識からくる知恵を貸して欲しいと請われることも多かった。

 孫娘である美幸や美貴に対しては、常に『良いおじいちゃん』であった。なぞなぞや宝探し、それにドライブに連れて行ってくれた先でも色々なことを教えてくれた。思い出してみれば、変わったカメラで美幸と美貴の写真を撮ってくれたこともある。きっとその時のカメラは美貴の手元にあるのだろう。

「じゃあ……そうだ」

 美幸はペンのキャップを外して少し考え込んでから、日記帳にさらさらと丁寧な字を書き込んだ。

『明日の朝、電車で座れますように』

 短くそう書いてから、くすっと笑い声を漏らす。

「そんなわけないよね」

 誰にともなく呟いてペンのキャップをはめて、いつものペンに持ち替えてから日記を書き記す。

 仕事中にセクハラにあった。やっぱり男の人は怖い。

 でも情報システム部の人が助けてくれた。男の人がみんなああいう人ばっかりだったらいいのに。

 帰りによったコンビニでシュークリームが売り切れていたのが残念。

 そんな日常を記した日記は、もう12年続けている。何日分かをまとめて書くこともあるが、毎日何があったのか、どんなことを感じてどう思ったのか、そんなことを短く書き記している。

 祖父が死んだ日の日記には『お祖父ちゃんが亡くなったという連絡。どうして。今からお父さん達と一緒に病院に向かう。いつものお祖父ちゃんのイタズラであって欲しい』と記されていた。いつもの丁寧な字ではなく、焦って書いたことがわかるような、少し乱れた文字だ。

「……そんなワケないよ」

 再び小声で呟いて日記帳を閉じる。今日やるべきことはもう他にはない。テレビを付けてNHKのニュースをラジオ代わりに聞きながら、編みかけのセーターに手を伸ばした。

 つい熱中して夜ふかししてしまった翌朝。弁当を作って朝食を済ませてから、いつも通りの時刻に家を出る。

 いつもの駅のいつものプラットホーム、いつもの柱の傍で、いつもの電車に乗る。人波に押されるように車両の中に押し詰められた。

 通勤電車ではよく見る顔ぶれもいるのだが、今日美幸の前に座っていたのは、口を開けてだらしなく眠っている中年の男だった。

 美幸が前に立ったと同時に目を覚まし、キョロキョロと周りを見渡して『うぉ、やべっ』と呟いて慌てて電車を降りていく。

 目の前の席が空いたことに驚きつつも、何故か両隣に立つ見知らぬ男にすみません、と呟いてから偶然空いた席に腰を下ろした。

「よかったぁ……めったに座れないのに」

 昨夜書いた日記のことなどすっかり忘れている美幸はそう呟いて、トートバッグから文庫本を取り出した。

 職場の最寄り駅までおよそ30分と少し。朝に電車で座れたら、それだけでもその一日何か良いことがありそうな気がしてしまう。

 本当にささやかな幸運だが、これは電車通勤あるあるというものだろう。

 電車に揺られながら文庫本をゆっくりと読み進め、いつもの席で『すみません、降ります。あの、すみません、あの、えっと』と小さく声をかけながら、人の壁をかき分けて、ドアが閉まる直前にようやくプラットフォームに降り立った。

 大勢の人の流れに逆らうこと無く、いつもと同じルートで会社へと向かう。

 エレベーターで同じ会社に務める同僚に会釈をするが、誰も美幸に会釈を返すこともない。が、今更美幸も気にすることもなく8階の資料室へ向かう。

「おはようございます」

「……っす」

「えっ」

 いつも通りの時刻に資料室のドアを開けると、そこには大柄な吉田が少しばかり疲れたような顔で、リポビタンDの瓶を持って座っていた。

「吉田主任、今日早いんですね」

 こくり、とちいさく頷いて、ノートPCの画面を睨みながら凄まじい勢いでキーボードを叩いている。

 機関銃みたい、と言う感想は、ほぼ毎日美幸が抱いている感想である。事実吉田は文字入力の速さなら全社でナンバーワンだ。

 いつも通り出社の手続きをして、社内チャットの画面を開く。

 このあたりの『PC起動後の自動処理』を設定したのは吉田だ。あまりにも文字入力が遅く、下手をすると日報を作るのに残業しなければいけなくなるような美幸を見かねて、吉田が言葉少なに設定を買ってでてくれたのだ。

 不意に資料室のドアが勢いよく開いたかと思うと、ネクタイを絞めていない若い男が入ってきた。

「吉田さん、こっちオッケーです」

「あ、お、おはようございます、森林さん」

「……っと、おはよう。大草さんいつもこれくらいの時間に来るの?」

「はい。私はいつも8時半に」

「そうか……あ、そうそう吉田さん、例のアレ、とりあえず準備出来ましたよ。パスはさっきのアレで」

「おう」

 実に短い返事をかえして、吉田はまた凄まじい勢いでキーボードを叩く。

 本当にまるで軽機関銃の連射のような音を立て、黒い背景の画面を幾つも操りながら何かの作業を進める。が、機械音痴でIT音痴な美幸には、『何か凄いことをやっているんだろうなぁ』という感想を持つのが精一杯だった。

「じゃ吉田さん、俺ちょっと戻って仮眠しますよ。何かあったら内線ください」

「ん」

 大きく伸びをして幸一はドアを開ける。

 少しばかり無精髭が伸びた顔には疲労の色がありありと見て取れた。

「あ、あの、ひょっとして徹夜だったんですか?」

「ん? あぁ、まぁちょっとやることがあって。まぁ大丈夫。ちょっと今は細かいことは言えないけどね」

 それじゃ、と軽い言葉を残して幸一は鷹揚に通路を歩いていった。

 ちょうど幸一を入れ替わりになるように、今度は中谷が部屋へ入ってくる。

「あ、おはようございます」

「おはようございます。大草さん今日も早いですねぇ」

「あ、いえ、今日はその、吉田さんが」

 中谷が部屋の中に目を向けると、リポビタンDの新しい瓶の蓋を開けている吉田の姿。吉田の顔にも、ところどころ無精髭が伸びていた。

「あぁ、そうか。吉田くんはアレだ、森林くんから相談があった例のアレだねぇ?」

「……っす」

「ありゃぁ、徹夜だったんだねぇ。ま、大事な話ではあるけど、無理はしないようにねぇ」

 いつも通り、ちょっと間延びしたような緊張感の薄い話し方。

 中谷は美幸が配属されたときからこの調子である。飄々とした振る舞いは誰に対しても同じで、相手によって対応を変えるといったこともない。

 実質的に会社のトップである会長に対しても、その会長に頭が上がらないなどと言われている社長に対しても、他部署の部長達に対しても全く同じように、同じ口調で対応する。

 資料室という部署自体10年ほど前に新設されたものだが、吉田と中谷がどういう経緯でこの部署にいるのか、美幸は知らされていない。

 当然ながら、このとき吉田と幸一の二人が何のために徹夜していたのか、その事などIT音痴の権化のような美幸に知らされようはずもなかった。

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