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04 四重の『音痴』

 美幸は机の上に自前の弁当を取り出して、小声で『いただきます』と呟いてから、水筒のお茶を一口飲み込む。

 小さな弁当箱には、冷凍食品なども盛り込みながら、自分で作った昼食が詰められていた。

 中谷と吉田は近くの食堂に通うのが常で、昼休みになると資料室は美幸ひとりでのお留守番になる。

 とはいえ、この資料室を訪れるものなどごく稀で、今日幸一がやってきたのも非常に珍しい出来事である。さらに吉田が一言でも会話をするのも珍しい事態だ。

 静かにゆっくりと弁当を食べて、給湯室で弁当箱を軽く洗うと他部署のOL達とすれ違う。

 ぺこ、と美幸が会釈をしても、誰一人として振り向くものすらいない。

 入社してから2年と少し、もはや美幸にとっても慣れたものである。

 自分の席に戻ってからは、美幸の楽しみのひとつでもある読書の時間だ。バッグから文庫本を取り出すと、栞を挟んでいるページを開いて読書用の眼鏡にかけかえる。

 長編のサイエンスフィクションの小説を静かに読んでいると、昼食をすませたのか中谷が先に戻って来た。

 恐らく定食屋からオフィスに戻る途中で買ったのだろう、ペットボトルのコーヒーをの蓋を開け、ちびちびと飲み始めた。

「お、読んでますねぇ」

 どこか嬉しそうな中谷がコーヒーを飲みながら、のんびりと穏やかな声をかけてきた。

「今どんなの読んでるんですか?」

「あ、これですか? これはSFのですね。人工知能モノです」

「へぇ、大草くんはAIに詳しい?」

「いえ、全然わからないです……すみません」

「難しいですよねぇ、AIって。色々使われてるけど、僕もなかなかねぇ」

 苦笑しながら中谷はスマホを取り出すと、あまり良くない手際で操作し始めた。

「いやね、娘が『パパってIT企業に務めてるなら、AI使えるでしょ』とか言ってくるんですよ。今はいろんなとこでAIが使われてるみたいですけど、僕もさっぱりですねぇ」

 答えに困った美幸は、なんと言って良いか全くわからないような愛想笑いを浮かべる。

「AIが普及したら、私たちの仕事ってなくなっちゃいますか?」

「いやぁ、どうでしょうねぇ」

 美幸は筋金入りの機械音痴である。パソコンどころか自宅のテレビの録画予約機能ですら姉の美貴に助けてもらわなければ使えない。

 さらに自転車にギリギリ乗れるが逆上がりと跳び箱とスキップが出来ない運動音痴でもあり、おまけに初めて訪れる場所ではほぼ確実に道を間違えるほどの方向音痴。トドメに音感ゼロに近い音痴でもある。

 そんな美幸がAIなど扱えるはずもなく『最近NHKのニュースでちょくちょく見るし、なんだかよくわからないが便利なものらしい』という程度の認識でしかない。

 菱橋システムズに入社して、必死で覚えたのが電子メールの使い方と業務連絡用のチャットツールの使い方、そして勤怠管理システムの使い方である。

 タイピングは今時珍しい『一本拳スタイル』で、じっくり時間をかけてテキストを打ち込んでいくため、業務終了時に提出する日報作成も、普通に書けばかなりの時間を要する。

 そんな美幸のパソコンにチャット着信を知らせる通知が届いた。

 実に珍しいことだ。業務の指示は基本的に中谷からしか来ないし、中谷からの連絡は目の前にいるということもあり口頭がメインだ。

「えっ? だ、誰」

 チャット画面はユーザーごとに分かれており、発信者は『森林』というやたら『木』の字が多いアイコンで表示されている。

『お疲れ様です、情シス森林です。さっきの、大丈夫でしたか? もし人事とかに報告するなら協力しますので、遠慮せず言ってください』

 というメッセージと、その後に顔文字で親指を立てているような人のアイコンが表示されていた。

「え、えっ、えと」

 美幸は慌ててはいるものの、いかんせんタイピング速度が花魁道中よりも遅い。

 人差し指をキーボードの上でウロウロさせてようやくポチ、と押して、また人差し指をウロウロさせてポチ、という具合なので、短文を入力するにも相当な時間を要する。

 キーボードを見なくても文字を入力できるという神業を、ほぼ全社員がやってのける事が出来る、というのが未だに信じられないというのが美幸にとって正直なところだ。

「あ、あぁ、どうしよ、どうしよ……」

 かた、かた、かた、かた、と大変に緩慢な文字入力速度は、実に原稿用紙1枚分を入力するのに1時間弱を要する程である。

『無理にとは言わないですが、一応色々と証拠は押さえてあります。データとして保存しますし、今日のことはこちらでも記録を残しますので、今気が向かなくても心配要りません』

「あ、あああああ、どうしよう、どうしよう、追いつかない……」

 一言入力する前に、幸一からメッセージが送られてしまう。

「あっ、違う、間違っちゃった……えぇと、デリートキー? あ、バックスペースキー……だったっけ、どうしよう、どうしよう」

「大草くん、大丈夫、慌てない慌てない。慌てるとミスタイプ増えますからねぇ。ゆっくり落ち着いて」

「は、はいぃ……」

 泣きそうな顔でキーボードを睨みつける美幸に、まるで頑張っている娘を見るかのような優しい表情を向ける中谷は、あえて美幸から視線を外す。

 人から見られると極度に緊張してしまう美幸の性格を知っているからこその対応だ。

「あ、あ、り、が、と、う、ご、ざ……Zってどこだっけ、え、無い、Zが無いよぅ……」

「大草くん、Zキーは左手小指のすぐ下……いや、そうか、そうだったねぇ。Zは一番左下辺りにありますよ」

「あっ、ありました! ありがとうございます! えっと……ざ、い、ま……S、S、S……あ、あった、す……で、この矢印をクリック……え? あれ、何か変なの出ちゃった……」

「大草くん、クリックのときは、左側のボタンですねぇ」

「あ、は、はい、左側でしたね。すみません、ありがとうございます」

 たっぷり時間をかけて「ありがとうございます」とだけ、10文字のメッセージを打ち込んで、何故か大仕事をやり遂げたような顔で水筒のお茶をぐっと飲み込む。

 この有り様でよくIT企業に就職できたものだ、と美幸自身毎日のように思ってしまう。

 せめてタイピングだけでも身につけようと頑張っているつもりではあるのだが、入社してから2年間、未だに身についていない。

「中谷部長……キーボードって、どうやったら出来るようになりますか?」

「うん? あぁそうですねぇ……最初にホームポジションっていうのを覚えるところかなぁ。右手の人差し指をJ、左手の人差し指をFに乗せて、そこを基本ポジションにする、っていう感じですねぇ」

「そうすれば、キーボードが出来るようになるんでしょうか……」

「まぁ、どれくらい出来るようになるかは人によりますけど、出来るようになるまで練習すれば、確実にできるようになりますよ」

 美幸は困り果てた顔でノートPCの画面に視線を戻す。

 チャット画面には新たなメッセージが表示されていた。

『給湯室で話した、盗難やハラスメント防止のためのレコーダー設置は今のところまだ非公開なので、出来ればあまり人に話さないようにしてください。資料室の中谷さんと吉田さんは二人とも知ってます』

「え? ……えっ……?」

 給湯室で営業部の麻原にセクハラを受けていた美幸を庇うように幸一が言ったセリフ、『盗難やハラスメント防止のために社内にレコーダーを設置している』という話しは、美幸もてっきりあの場で麻原を立ち去らせるための方便だと思っていた。

 が、実際に社内では盗難事件は私物の破損に紛失、さらにはパワハラ、セクハラといった問題が出ていた。

 菱橋システムズは、2000年問題が国内で取り沙汰される少し前に設立された、IT企業としては中堅クラスの会社である。

 現在の社長は創業者であった会長の息子であり、事実上の傀儡政権のようなものだ。

 現在80歳近い会長は10年前に社長を退いたものの、未だに実権を手放していない。取締役会は名ばかりで、ほぼ会長が独断で全て決めているような状態だ。現在東証グロース市場に上場している株価の動向に毎日目を光らせている。

 だが、美幸のような末端の、しかも閑職に追いやられた社員にそのような取締役のような雲上人の事情などは伝わらない。殆どの社員は上の事にはほぼ無関心で、ただ日々の業務をこなすだけ、といった状態に陥っていた。

「さて、昼休みも終わりですねぇ。じゃあ午後も頑張りましょうか。……って午後は特に作業予定はないですね。じゃあ各自、自己研鑽ということで」

「っす」

 中谷の言葉を合図にするように吉田はスマホを取り出し、中谷はブラウザを起動して漫画サイトの巡回を始める。

 美幸はたどたどしい手つきでキーボードを操作し、幸一からのチャットに『わかりました』とだけ打ち込んで、早くも終業時に提出する日報を作り始める。

 とは言え、実際に提出する日報はほぼ毎日同じ内容だ。吉田が作ったテンプレートに、その日のレポート提出先の部署を入力するだけである。

 入社半年後に覚えた『コピペ』の操作で日報テンプレートをコピー、『レポート提出先』の欄に『えいぎょうぶ』と入力して漢字変換。

 さらに、業務依頼システムで表示されているレポート内容を『レポート詳細』にコピペして完了である。

 全て手打ちすれば、おそらく1時間から2時間を要する作業だが、この方法を覚えてからはかなり早くなった。

「自己研鑽……あ、そうだ」

 およそ半日、実質的な自由時間が出来たことに少しばかり戸惑った美幸だったが、トートバッグの中の本を一冊取り出して、ノートパソコンの横に置く。

 美幸が取り出した『すぐにできるタッチタイピング』と銘打たれた本の表紙を開き、まるで泣き出しそうな顔で眉を『ハ』の字にしながら、たどたどしくタイピングの練習を始めた。

 この日、午後は新たな依頼が来ることもなく、たっぷり数時間タイピング練習が出来た美幸は定時になると同時に勤怠管理システムの退社ボタンを押し、PCをシャットダウンして帰り支度を始める。

「すみません、お先に失礼します」

「はい、お疲れ様でした。今日は災難でしたねぇ。明日からは営業部の案件は僕がやりますから、安心してくださいねぇ」

「あ、は、はい。ありがとうございます。それじゃあ……お疲れ様でした」

「……っす」

 言葉少なな吉田も会釈をして美幸を送り出す。

 エレベーターに乗り込んでオフィスビルを出るまでの間も、企画部や営業部の女子社員がちら、と美幸を見ては『良いよね暇で』『私定時で退社したことない』と嫌味のような言葉を囁くが、もはやこれも美幸にとっては毎日のことだ。

 エレベーターが1階に着くと同時に小声で『お疲れ様でした』と申し訳程度の挨拶をして、少しだけ足早に家路についた。


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