03 資料室へようこそ
満員電車から弾き出されるように降りて、人並みに紛れて改札へ向かい駅の混雑した出口を通って、大勢のサラリーマンやOLに混じってチノパンにスニーカーという実に地味な格好のOLがとぼとぼと歩いていた。
「みんな凄いなぁ……どうやったらスマホ見ながら歩けるんだろう……」
ぼそ、と呟いてからトートバッグを肩にかけ直す。
駅から歩いて10分程度のオフィスビルにあるのが、美幸の勤め先である菱橋システムズ株式会社だ。
中規模のビルの4階から8階、合計5フロアを占める中堅IT企業で、美幸の所属する資料室は最も上階である8階だ。
エレベーターを降りて、なぜか廊下ですれ違う同僚たちの目を避けるように猫背になって、最も奥まったどん詰まりにあるドアを開けた。
「おはようございます」
無人であることがほぼわかりきっている部屋に、律儀に挨拶をしてから静かに入る。
9時の始業時刻の前、8時半に出社する美幸は資料室の中で毎日一番早く出社する。
ノートパソコンの液晶パネルを開いて電源ボタンを押す。
OSにログインして、自動的に起動するブラウザのサイトで自分のメールアドレスとパスワードを入力。社内システムにログインしてから、画面中央にデカデカと表示された『出社』ボタンを押す。
タイムカード代わりの勤怠管理システムは、自社内で構築されたものである。
ITに明るいものなら、ここからメールを確認したりブラウザで今日のニュースを確認したりするのだが、IT音痴な美幸は、社内連絡用のチャット用ソフトを起動するだけで関の山だ。
「あー、おはようございます、大草くん」
「おはようございます、部長」
始業の15分前、毎日決まった時刻に出社してきたのは資料室の長、中谷だ。
つい昨年、50才になったばかりの部長はのんびりとした口調で喋るのが特徴的で、社内にあって『昼行灯とはアイツのことだ』と噂されるほど全く目立たず淡々とした人物である。
気が狂うほど大量の段ボール箱と、紙に印刷された資料が保管されている棚しかない部署、資料室の長で、資料室発足当時からこの部屋の主である。
続いてドアが開き、大柄な人物がのそ、と姿を現す。
「……っす」
「あ、吉田主任、おはようございます」
「……っす」
非常に無口な吉田は、資料室において主任という肩書で、趣味が筋トレという寡黙な男だ。
資料室で最もITに通じており、過去には花形部署の開発部に所属していたこともある。が、あまりにも寡黙でコミュニケーションがうまくいかず、こうして閑職に分類される資料室に配属された。
「さあてと、それじゃあ二人とも、今日も一日よろしくお願いします」
中谷がにこ、と優しそうな笑みを二人に向けて、今日も1日の仕事が始まった。
とは言え、資料室の仕事は退屈そのものだ。
他部署から『いつからいつまでのこういったデータが欲しい』という依頼があったら、該当するデータや書類を取り出してコピーし、ファイルして提出する、といったものが日常業務だ。
営業部や開発部、それに企画部といった花形の部署からの依頼がほとんどだが、年末が近くなったりすると、総務や労務からの依頼が増えることもある。
が、閑職と言われるだけあって、資料室は基本的に暇だ。依頼がない日は『出社した時点で業務終了』ということもある。
この日は営業部からの依頼があったため、出社直後に途方に暮れるといったことは無かった。
「大草くん、この営業部からのだけど、今日行けますか?」
「はい、大丈夫です」
「そう? じゃあお願いして良いかなぁ?」
「はい。わかりました」
「んじゃあ吉田くんは企画部からの、お願いしますねぇ」
「っす」
吉田は本当に無口で、絶対値として非常に物静かな美幸から見ても大変に物静かな人物だ。
巨体の存在感から、美幸のように影が薄いというわけではない。大きな手で器用にスマホを凄まじいスピードで操り、仕事がないときはスマホでゲームをしている時間が長い。
部長の中谷は、部下がスマホゲームをしていても特に咎めることはない。何しろ中谷自身もやるべき作業がないときには、スマホのアプリで漫画を読んでいるのだ。
『大草くんも、作業がないときは好きに過ごしていいですからねぇ』
と、あらかじめお許しが出ていた。
お蔭で美幸の読書量は入社前と比べても数倍に増えている。この日も、トートバッグの中には文庫本が数冊収められていた。
仕事を始めてから昼の時間まで、本当に誰も一言も喋らないままで時間だけが経過して、美幸が担当した営業部からの資料請求への提出ファイルが出来上がる。
念のために中谷の確認を経てから、営業部のフロアへと歩いていった。
4階から8階を占有しているためか、階段で昇り降りする際に他社の従業員と会うことはほぼない。この日も階段を降りて営業部へと向かう。
ちょうど営業部の長である壮年の男が給湯室へ入っていくのを見つけた美幸は、ファイルを抱えて給湯室へと歩いていく。
「あの……麻原部長、資料室の大草です。ご依頼いただいていた資料、こちらです」
「おぉ、お疲れさん」
かなり恰幅のいい体格の麻原はわざとらしく美幸の手を撫でるようにファイルを受け取ると、給湯室の出口側に立ち位置を変える。
「いやぁ、助かったよ。ところで大草くんはー……今何歳くらいだっけ?」
「あ、あの……24才、です……」
「そうかぁ、24才ねぇ。どう? 彼氏はいるの? 今どきは結婚するのも遅い子がいるけどねぇ、やっぱり子供作るなら早いほうが良いとボクは思うんだよねぇ」
ニタニタと笑みを浮かべながら、ジロジロと美幸の顔からつま先まで舐め回すように何往復も見る。
「どれぇ?」
「ひっ」
唐突に麻原の手が美幸の尻に触れた。偶然当たったなどというものではなく、明らかに邪な意図をもった接触で、手のひらをベッタリとつけるような触り方だった。
「大草くんは安産型じゃなさそうだけど、今まで彼氏がいた事ないの? 男性経験は?」
あからさまにアウトな発言を、給湯室という人目の届かない密室に近い空間で、おまけに尻を撫でながら繰り返す。どこからどう見てもセクハラ以外の何物でもない。
「や、やめてください……」
美幸は、度々こうしてセクハラの被害にあっていた。
営業部長の麻原は、気弱で大人しく気弱な女子社員をターゲットにして執拗なセクハラを繰り返す常習犯だ。
手を振り払って逃げるべき場面だが、気弱で大人しく臆病で内気な美幸は、震えながら『やめてください』と小声で訴えることしか出来なかった。
生理的な嫌悪よりも、恐怖のほうがはるかに強かった。
身体も自分より大きく、腕力でも社内での権力でもどう考えても勝てない相手が、まるでいたぶるように、品定めをするかのように自分の身体を撫で回すのは、耐え難い屈辱と嫌悪と恐怖をもたらすものでしか無かった。
「男性経験がないなら、どうかね? ボクが優しくリードしてあげようか? ん?」
「……あ、あの、お願いします、やめてください……」
言葉で美幸が言葉でも、麻原の手は美幸の尻を撫で続けている。
「ん? お願いします? そうかそうかぁ、じゃあ今度夕食でも――」
「麻原部長、今どきそこまであからさまなセクハラ、大問題ですよ」
不意に給湯室のすぐ側で男の声。
同時に麻原の手は美幸の身体から離れて行った。
「何のことを言ってるんだね? ボクはセクハラなんかしとらんだろ。言いがかりはやめて欲しいモンだね」
「部長、忘れたんすか? 社内で盗難だのハラスメントなんかの報告があるから、社長が社内に色々レコーダー取り付けるって通知があったでしょ」
短髪の若い男はまるで美幸をかばうように麻原の前に立ちはだかり、胸ポケットに入れたスマホケースをとんとんと指先で叩いた。
そのスマホケースはカメラを前面に向けており、レンズは麻原の方を向いている。
「今日び、どこで誰がどんなレコーダー回してるかわかんないってのに、度胸ありますねぇ。さすが営業部長」
やや細身ながら、その立ち居振る舞いはふてぶてしいと言えるほどに堂々としており、その眼光はどこか静かな怒りに満ちているようにも見える。
「なっ、なにをそんな! 言いがかりだ! 不愉快極まる! このことは社長に報告するからな!」
「どうぞどうぞ、俺からも社長に言っときますよ。ここで俺が見聞きしたこと全部」
男の呼びかけに、麻原は言葉にならないような捨て台詞を吐いて、美幸の手からファイルをひったくると、わざとらしくどすどすと足音を立ててオフィスの通路を進み、殊更に大きな音を立ててドアを開け、嫌がらせのような音を立ててドアを閉めた。
「……ったく、エロジジイが……」
男はそう呟いて舌打ちをすると、ゆっくりと美幸へと振り返る。
「大丈夫? じゃないよね、ガッツリ触られたろ? アイツ、セクハラ野郎だからあんま近付かない方が良いよ」
男は美幸の首から提げられた社員証をちらりと見てから、ジャケットで隠れた自分の社員証をひょいと掲げた。
「資料室の大草さん、だよね? 俺は情報システム部の森林。災難だったね。俺も8階に用事あるから一緒に行こうか」
「え、あ、あの……森林、さん……も、8階にですか?」
「そう。ちょうどさ、資料室の吉田さんに渡すのがあってね」
「あの、えと……ありがとう、ございました……」
「ん? ……あぁさっきの? いやいいって。むしろ何か申し訳ないよ。ああいうおっさんが未だに幅きかせてるから、同じ男だってだけで俺達まで痴漢扱いされるんだ。ああいうのはきっちりシメないとダメだな。大草さんも、ああいうときは大声出すとかぶん殴るとかして良いんだよ?」
しゅん、と音がしそうなくらいに俯いて、美幸は小さく首を横に振る。
「だ、だめです、あの、私……怖くて……」
「そっか……」
「すみません、私、あの」
「いや、謝んないで。こっちこそなんかゴメン。とりあえず8階行こうか」
「あ、はい」
社員証にかかれているのは、所属部署と氏名、それに職階である。若い男の社員証には、情報システム部、主任、森林幸一と記されていた。
やや痩せ気味な身体つきで、身長は営業部長の麻原よりもやや低い程度。だがそれでも美幸と比べると長身だ。
森林の少し後ろについて歩きながらも、美幸は特に何か話すこともなく資料室へと到着する。
「お疲れ様です、情シスの森林です。吉田さん、例のアレですけど、設定完了ですよ。はいコレ」
「おう」
相変わらず言葉少なな吉田は、幸一から何かを受け取ると、小さく頷いてパソコンの画面に視線を向けた。
「あと中谷部長、営業部の依頼んときですけど、大草さんじゃなくて吉田さんに割り振ったほうが良いっすよ。あのおっさんセクハラしますから」
「えっ? 大草くん、麻原部長にセクハラされた!?」
「されてました。ガッツリ、今どきここまでヒドいセクハラあるかっていうくらい」
「え、あ、あっ、あの、その」
突然の話にオロオロと答えを出せない美幸は、何故か申し訳なさそうに『すみません』と頭を下げて自分の席へ腰を下ろした。
「ゴメンねぇ……わかった、営業部からの依頼は僕か吉田くんで担当するから。次から気をつけるよ。ありがとう、森林くんも」
「いや、良いっすよ。それより吉田さん、例のアレ、よろしくお願いしますね」
森林はそう話して、美幸にひょい、と軽く手を挙げて資料室を後にした。




