02 ただいま、日常
どさ、と両手に持ったお土産の紙袋を床に置くと、美幸は大きく深呼吸をする。
東京都内の職場までは電車で40分という位置にある1LDKの物件は、決して広いものではない。が、風呂トイレが別で追い焚きが出来ること、それにオートロックであること、家賃が手の届く範囲内であること、というこだわりの条件で探し抜いた我が家である。
大学を卒業してからすでに2年、一度賃貸契約の更新も済ませてある。同じマンションの住人はほぼ全てが女性であり、気弱で臆病な美幸にとってはうってつけの物件と言える。
「……そうだ、お風呂」
しばらく玄関で立ち尽くしていた美幸は、ゆっくりと浴室へと向かい湯を張り始めた。
入浴は美幸にとって、数少ない楽しみの一つだ。
掃除、料理、入浴、読書。
いずれも『一人で出来る』事が最大の強みでもある趣味で、どれも自宅で完結させることが出来る。
美幸は徹頭徹尾ぼっちである。
内気で大人しく引っ込み思案、目立つことを何よりも嫌い、極端なほどに影が薄い。
存在感すら希薄で、自らの存在を他人に気取られないことにおいては、忍者にも匹敵するかもしれない、というほど人の印象に残らない。
中学生時代には、ホームルームでの点呼で『大草はー……休みか?』と、目の前の教師に言われてしまうほどで、今でものスーパーのレジに並んでも声をかけないと気付かれないことすらある。
服という服はほぼ全てがユニクロか無印良品の無地の地味な色合いのもので、化粧も最低限、持ち物も地味なトートバッグだけで済ませるのが常だ。
姉の美貴からは『もうちょいさ? 何ていうのかな、二十代女子としてほら、あるじゃない?』と呆れ気味に言われるほどだが、地味で大人しく静けさを何よりも好むOLにとっては、目立たない事が最優先事項だ。
加えて、令和の世にしては珍しいほどの機械音痴で運動音痴である。
テレビは未だに録画機能を使いこなせず、何ならテレビそのものをあまり見ないためにドラマの話題などにもついていけない。チャンネルはほぼNHKに固定されているようなものだ。
パソコンなどという文明の利器は当然なく、携帯電話も今どきスマホではなく折りたたみ式のフィーチャーフォンである。
その携帯電話が黒電話のベルの音で鳴る。液晶画面には『美貴』の二文字が表示されていた。
携帯電話に6件だけ登録されている連絡先の一つ、姉の美貴だ。
ちなみに残り5件は両親と祖母で3件、職場の代表電話と、上司の携帯電話の番号である。これだけが、美幸の世界の全てだ。
「もしもし、美幸です」
『あ、おつかれ美幸。もう着いた?』
「うん、さっき着いた。お姉ちゃんは?」
『私も今着いたとこなんだけどさ、ゴメン、私間違えて美幸のカバンにカメラ一個入れてない?』
美貴にはよくあることだ。
活発で社交的、美幸とは正反対な姉はどこかそそっかしい。学生時代、一緒に住んでいた頃は美幸の持ち物を間違えて持っていったり、逆に自分の持ち物を美幸の部屋に置いてしまったりしていた。
「ちょっと待って、カバン開ける」
『ゴメンねー。いやぁ、自分のカバンに入れたと思ったんだけどさぁ』
「うんとね、何かあった。多分カメラ……だと思う。レンズみたいなのふたつついてるの。あとお姉ちゃんの喪服もこっちに入ってる」
『ゴメン! マジごめん!』
「いいよ。喪服こっちでクリーニングに出しとくから。でもカメラは、これどうするの?」
『今度の週末取りに行って良い? 日曜の昼頃とか。ご飯奢るから』
「うん、分かった。私は別に何も用事ないし、多分掃除してるだけだから」
『いやぁゴメンねー。重かったでしょ?』
「なんだか重たいなぁ、くらいは思ったけど、キャスター付きだったから」
『そか。ホントごめん、じゃまた来週ね。明日朝から会議だから、今日早く寝なきゃなんだよね』
「そうなんだ……じゃあ、おやすみ、お姉ちゃん」
『ん、お休み。何かあったらいつでも良いから電話するのよ?』
「うん。わかった」
丁寧に通話終了ボタンを押してから、携帯を折りたたみ充電台へそっと置く。
美貴からも、そろそろスマホに機種変しろと何度もせっつかれた。祖母の幸子ですらスマホなのに、一番若い美幸だけが、携帯電話を使いこなせていない。
「……だって、しょうがないじゃない。苦手なんだから」
誰にともなくそう呟いて、ようやく夏用の上着を脱いでハンガーにかける。
スーツケースに入れたままの喪服も、姉の分も一緒にクローゼットにかけてから荷物を丁寧に取り出した。
同年代の女子と比較して、驚異的に少ない荷物量だ。
化粧も最低限で、髪はほとんど毎日三つ編み。眼鏡は普段用と読書用で使い分けているくらいで、アクセサリーも礼装用の真珠のネックレスくらいしか持っていない。
およそ成人女性として最低限『これだけは持っていたほうが良い』というものだけを持っている、というつましい生活だ。
「私も明日から仕事かぁ……用意しなきゃ」
用意といっても、明日着ていく服に通勤用のトートバッグに入れていく文庫本を選ぶ程度だ。
着ていく服も、2本のチノパンかロングスカートの3種類からボトムスを選び、上はほとんど同じ色合いの服から選ぶだけ。アクセサリーは持っていないのでそもそも身につけることがない。
手早く片付けを済ませていると、風呂場からお湯が溜まったことを知らせるアラームが聞こえてきた。
バスタオルと着替えを持って、念の為戸締まりを再確認してから風呂場へ向かうと、手際よく服を脱いでキレイにたたみ、洗濯籠に丁寧にいれる。
脱衣所の鏡にちらりと目線を向ける。
もう24年見慣れた自分の裸だ。
取り立てて背が高いわけでもなく低いわけでもない158センチ。痩せているわけでも太っているわけでもない標準的な体型に、巨乳とも貧乳とも言えないであろう胸。
平凡な体型というものを現実世界で表現したら、きっとこういうものだろう、と美幸本人も心の底からそう思う。
「早く温まろ」
そう呟くと、見慣れた裸に興味もなさそうに浴室へと向かう。
丁寧に髪を洗い、時間をかけて身体も洗ってから浴槽に身を沈める。
温かい湯が冷え性の身体にぬくもりを伝えてきた。目を閉じて何度か深呼吸を繰り返すと、つい眠ってしまいそうになる。
カラスの行水と言われるほど早風呂な美貴と違い、美幸は長風呂だ。長いときには1時間ほど風呂場からでない事がある。
大学を卒業してから新卒で入社した会社は、機械音痴の美幸からは周囲も想像していなかったIT企業だ。
何十通もの『お祈り』通知を受け取り、心が折れかけたころ、大学4年生の秋頃にようやく内定が出たのがIT企業の菱橋システムズである。
美幸自身、なぜ採用されたのかわからなかったが、ようやくギリギリで掴んだ正社員の立場を守るために、必死でくらいつこうとした。
が、IT企業の仕事が出来るほど美幸はパソコンやスマホを使えるわけではない。
最初は総務部に配属されたものの業務をこなすことが出来ずに、退職するかそれとも資料室という閑職部署への転属を指示され、それ以来1年半ほど今の仕事を続けている。
恐らくパソコンを普通に使える者であれば、退屈この上ない職場であろう。当初美幸も数カ月で音を上げて自主退職するだろうと思われていた。
が、思いがけず美幸は粘り強く、さらに地味な作業を延々と続けることが全く苦にならない性質であった。
地味で目立たず、不毛とすら思える作業を1日8時間も続ける作業は、他の資料室に送り込まれた者にとっては地獄だったのだろう。資料室の部長と主任、それに美幸の3人以外で、最も長く続いたもので2ヶ月、最も短いものは半日で退職願を会社に提出する事となった。
資料室長は、以前他部署の部長を務めていたが、数年前に資料室設立とともにその部署の長となっている。
主任は以前人事部に所属していたものの、資料室へと配属されて以来ずっと転属がない。
「がんばらなきゃ……」
お湯に浸かりながら呟いて、ため息のような深呼吸を何度か繰り返す。
目立たないように、ただただ人目につかないように過ごすクセがついた人生で、恋人はもちろんのこと、友人と呼べる者も今はいない。
小学生や中学生の頃は片手の指でお釣りが来る程度の人数ではあるが、仲の良い同級生はいた。が、卒業と同時にまるで美幸のことを完璧に忘れ去ったように、連絡も年賀状も一切なくなった。
美幸自身、家族以外と深く関わることを避けていた。仲が良くなったところで、友人としての関係が長く続いた試しがない。物静かな美幸は、自分のことも『つまらない人間』と見てしまっている。
もちろん、趣味である読書ではロマンスものを読むこともあるし、作品によってはラブシーンもあったりもする。が、それらのいずれも美幸にとっては『物語の中だけのもの』であり、自分とは全く縁のない世界の出来事であると断じていた。
何なら、スター・ウォーズやマーベルものの映画のようなもので、スクリーンやテレビの『向こう側』の世界での出来事だ。
姉の美貴からも、あまりにも男の気配がない妹を心配したように『いい男いたら紹介するよ?』『彼氏つくらないで良いの?』『とりあえず友達からでも良いんだから』『ちょっとお茶するだけでも』と持ちかけていたのだが、美幸は困ったような笑顔で首を横に振るだけである。
そもそも男友達が出来たことすらないのに、交際など一体何をどうすればいいのか、全く想像も出来なかった。
たまに見る映画で男女がイチャイチャするシーンがあっても、『ふぅん、こういう世界があるんだぁ』程度の感想しか持たない。出演する女優と同じ立場に自分がたったら、などという発想はビタ一文湧いて来ない。
ざば、と音を立ててお湯から出て、改めて風呂場の中の鏡で自らの姿を眺める。
目立って整っていないというわけでもないし、美人と言えるほどの見た目でもない。本屋で男性向けのコーナーでたまに見かけるグラビアアイドルの写真を見ると、『凄いなぁ、何食べたらあんなになるんだろう』と思う程度である。
ドアを開けてバスタオルを手に取ると、丁寧に、手際よく髪や身体を拭き始める
「早く乾かさなきゃ」
そう呟いて浴室の換気扇のスイッチを押すと、あまり上手とは言えない鼻歌を歌いながら、肌触りの良いパジャマに着替える。
カラオケなど行ったこともない美幸は、機械音痴、運動音痴に加えて、音楽においても音痴であった。




