18 魅力的なお誘い
菱橋システムズが、いわゆる『ガサ入れ』を受けてから、会社を取り巻く周囲はいまだ大混乱が続いている。
ちょうど半期決算の時期と重なったこともあり、証券取引所に提出すべき決算書類を出す事が出来なかった。
パワハラやセクハラの訴訟とは別に、超過勤務手当、いわゆる残業代の未払いについての訴訟を起こされただけでも、企業イメージとしては致命的なダメージを受けることとなった。
すでに閑職と言われていた中谷、吉田、さらに情報システム部の幸一に、結局のところ美幸も退職している。
さらに企画部の大谷も退職してからすぐに、会社に対して未払賃金支払いとパワハラに対する慰謝料支払いを求める訴訟を起こした。
弁護士の高田真由は、退職した元従業員達の訴訟を取り仕切る事となり、所属事務所から複数の弁護士を動員して集団訴訟として手続きを進める予定になっている。
意外だったのは、社長の菱橋由一が訴状で訴えられている内容を事実であると早々に認めたことだ。
「まぁ、結果的に退職金とかもとりあえず支払われたし、とりあえずは……次の職探しだなぁ」
「で、ですよね……どうしよう……私、また就職活動するの、気が重いです」
はぁ、と物憂げなため息を吐いてうなだれる美幸の姿を見て、幸一は苦笑いを浮かべる。
この日、幸一は妹たちから『っていうかお兄ちゃん、お弁当のお礼してないとかマジあり得なくない?』とガン詰めされたのち、美幸を食事に誘っていた。
ギリギリジャケットを着用しないでも食事が出来る気軽なレストランでコース料理を楽しんで、ついさっき最後の一皿を食べ終わったばかりだ。
「とりあえずは、お互い重荷は降りて、もう後は弁護士に丸投げ出来るんだし、長い休暇を貰ったと思って」
「……そうですね、大学3年生以来です。こんなゆっくり休もうって思えたの」
「そうそう、ゆっくりして良いさ。吉田さん、早速バイクであっちこっち行ってるみたいだよ。ほら」
幸一がスマホの画面を美幸に向ける。大きめのスマホの画面には、大きなバイクにまたがって『日本最北端の地の碑』と刻まれている宗谷岬のモニュメントの前で、美幸が見たこともない楽しそうな笑顔で親指を立てている吉田の姿が映し出されていた。
「吉田主任、笑うんだ……」
「あははは、そりゃ笑うよ。滅多に笑わないだけで」
「そ、そうですよね、すみません……そう言えば、中谷部長は……?」
「ああ、中谷さんは久しぶりにまとまった日数休めるって、奥さんと娘さんと一緒に台湾旅行だってさ」
「台湾ですか? ……いいなぁ、私海外行ったこと無いです。幸一さんは、どこか行ったりするんですか?」
「うーん、ちょっと出かけようかなとは思ったけどね。多分行かない。時間出来たら妹たちの良いドライバーになっちゃってね」
「亜美ちゃんと真美ちゃんですね。明るくて優しくって、いい子ですよね」
「そうかなぁ? アイツら遠慮を知らないし人使い荒いし、いい子とは思えないけどなぁ」
少し面白くなさそうな表情を浮かべた幸一を、何故か楽しそうな笑顔を浮かべて見上げる。
実に平和な光景だ。もしこの二人の姿を菱橋システムズの現在の経営陣が見たら、怒り狂っていたかもしれない。
社長の由一に加えて会長に営業部長、開発部長、企画部長、管理部長と、いわゆる経営陣はマスコミへの対応や訴訟の対応準備で疲弊しきっている。
社員も実に半数以上が退職し、かつて美幸にモラハラを繰り返していたOLたちも、ちゃっかり訴訟の原告団に名を連ねようとしていた。
が、弁護士の高田の『坂巻さんですね、あなたを被告とする裁判も予定しております。原告と被告両方の弁護を担当することはできませんので、ご自身で別に弁護士と代理人契約を締結してください』というにべもない言葉に途方にくれているところだ。
このところ、美幸と幸一は毎日直に会うわけではないが、LINEなどでのメッセージのやり取りはほぼ毎日続いている。美幸が『文字入力の練習に付き合って欲しい』と頼み込んでのものだが、幸一は幸一で美幸とのやり取りを楽しんでいる。
過去に『真面目すぎて重い』と言われ、挙句の果てに浮気されてフラれるという手痛い失恋を味わって以来、真面目な女性としか付き合いたくないと考えるようになった。
今、幸一の目の前には、心配になってしまうほどに純粋で優しく、内気で人見知りであるものの真面目で誠実な美幸が、自分のすぐとなりで笑っている。もしこの店に美貴か亜美か真美がいたら、物陰から飛び出て『はよ付き合え!』と強引にくっつけていたことだろう。
二人にとって幸運なことに、今この場には亜美も真美も美貴もいない。二人のペースでのんびりと話をすることが出来ている。
「あのさ、大草さん」
「はい」
「もしさ、次の就職先何も決まってなかったらだけど」
「……なんにも、ホントに何にも決まってないです……」
「そっか、そしたら……俺の大学の同期のやつが何年か前に起業してて、開発要員と社内のシステム部門要員、それにデータ管理事務をする人と企画スタッフに品質管理部門が出来る人を探しててさ」
「……は、はぁ、凄いんですね……同期の方が社長さん、ですか……」
「会社内部告発して辞めたって言ったら、今度飲みに行こうって話になったんだ。大草さん、話聞いてみない?」
「はぁ……え? えっ? わた、私ですか? で、でも私、なんにも出来ないですよ?」
「いや、何もできないって……大草さん、自分のすごさ分かってないね?」
「すごさなんて無いです! だって、だって私まだキーボードもまともに使えなくって、スマホもちょっとしか――」
「大草さんの強みは、アナログにあると思うんだよ」
幸一の印象に強く強く残っていたのは、二人で資料室の棚と段ボールの山の中から、紙の資料を探していたときのことだ。
デジタルの検索と物理的な紙資料の検索は、情報検索という点では共通するがまったくの別物だ。
デジタルでの検索に強い幸一だったが、紙を探すとなると『ラベルを頼りに目視と手作業で地道に探す』しかない。幸一が何より驚いたのは、美幸の『目視と手作業で地道に探す』作業のスピードと、その作業に対する驚異的な集中力である。
「俺はITとかデジタルに強いっていう自覚はある。一応、技術で喰ってるからね。大草さんはITだのデジタルだのには弱いかもしれないけど、物理的なものとか情報の管理には凄い適性があると思う」
「で、でも私……そんな自信ないです……」
「大丈夫、大草さんが凄いっていうのは、俺が保証する」
「でもその、私がもしその、お知り合いの人を紹介して貰ったとしても、その方を失望させたりしたら森林さんまで悪い影響が……」
「そこも大丈夫。俺もよく知ってるやつだけど、そういった事は考えないから。実は吉田さんと中谷さんも紹介してて、企画部門スタッフには大谷さんも推薦してるんだよ。ほら、ちょうど欲しい人材がみんな『こっち側』だからさ、その話ししたらそいつも『募集のためのコストが浮いて助かるから、是非紹介してくれ』って。大草さんも是非話聞いてやって欲しいんだよ」
しばらく戸惑っていた美幸であったが、よくよく考えたら人見知りな美幸にとっても実にありがたい話だ。
新しい会社で、全くの孤立状態からのスタートで人間関係を築き上げるというのは、人見知りで臆病な美幸にとっては富士山登頂にも等しい難行だ。
そんな無茶な挑戦をするよりは、すでに良い関係を築けている人間関係のまま、職場だけを新しく切り替える事が出来るなら、これは実にうまい話だ。乗らない手はない。
「一応待遇面だけど、菱橋システムズよりは給料も上がるし、残業はあるけど毎月20時間以内厳守、通勤手当全額支給で完全週休二日制。祝日も休みだし、最低でも菱橋よりは良い待遇を約束してる」
「あ、あのぅ……ホントに、私なんかがそんな、良いんでしょうか……」
「もちろん。先方が『スカウトさせて欲しい』って言って来てるんだから、良いに決まってる」
美幸は大きく深呼吸を繰り返す。
なかなか美幸が決断を下せずにいる間に、小さなレストランの店員が食後のデザートを運んできた。
小さなチョコケーキに、デミタスカップのような小さなカップに注がれたコーヒーだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
中年の女はそう告げると、キッチンがあるであろう店の奥へと引っ込んでいった。
ちびちびとチョコケーキを口に運ぶ間も、美幸はひたすら考えていた。
考えれば考えるほど、乗らない手はない話だ。
大学生時代、何度心をへし折られたかわからない就職活動を再開する、と考えただけで食欲が失せてしまう。だが、この話に上手に乗れて、採用まで決まってしまえば、少なくとも再就職先の心配はしないでも済む。
コミュ障とも言えるほど引っ込み思案で人と話すことが苦手な自分の性格を顧みれば、万が一どこかの会社に採用されたとしても、新しい会社でゼロから人間関係を作るなど、到底耐えられそうにない。事実菱橋システムズでも、当初総務課に採用された美幸は令和にあるまじきITスキルの無さと対人スキルの無さから資料室へ転属となったくらいだ。
「まぁ、今すぐに返事をっていう話じゃないよ。ただ、出来れば今月中くらいに返事をもらえないかな。返事を貰えれば、先方に取り次ぐから。あぁそうそう、その大学の同期は日本と台湾のハーフで、王英基っていうやつで、日本語と中国語と英語とスペイン語とオランダ語? だったかな? 確か5ヶ国語か6ヶ国語がペラペラ。国籍は日本で、みんなから『ワンさん』って呼ばれてる。俺は中学高校からの同級生で『ヒデ』って呼ぶことが多いかな。下の名前が『ひでき』だから」
「そ、そうなんですね、台湾……って確かITが凄いんですよね?」
「そうそう。まぁヒデは日本生まれの日本育ちだから、文化的なバックボーンも日本だから、普通に接して大丈夫なヤツだよ。日本の大企業に就職したけど、『こんな人を人間扱いしない会社はクソだ!』って言って、それで自分で会社作ったんだ。『真面目な人が損をしない会社が無いなら、俺が作る』って言って」
「……す、すごい……」
「どう? 興味出てきた?」
「は、はい、凄いです、あの、その真面目な人が損をしないっていうの、すごく、なんていうか……良いと思います」
「でしょ?」
にこ、と嬉しそうな笑みを浮かべた幸一が食後の珈琲を飲み干すころには、美幸の心は決まっていた。
「あの、森林さん。私、その……王さんにお話を聞いてみたいです」
つい先程までは、美貴と相談してから決めようと思っていた。が、不思議なことに幸一の笑顔ひとつだけで、美幸の心は決まってしまった。
このとき、美幸は唐突に理解した。自覚した、と言って良いかもしれない。
自分が、幸一に対して特別な感情を抱いているという、美貴に言わせれば『今更すぎない!?』と叱られてしまいそうなことを。




