第四十五話(最終話) あの夏の残像と、掴み取った当たり前の日常
蝉の声が、耳を劈くように響いていた。
肌を刺すような強い陽光。足元を流れる冷たい川の水。
「……戻って、きた」
私は自分の手を見つめた。
神の領域で覚えた「一億倍」の感覚は、まだこの身体に刻まれている。だが、今の私にはわかる。一億倍の力を、一億分の一の精度で、完璧に「一」として出力する方法が。
「あ、アニキ! 待ってよ!」
視界の端で、小さな男の子が川の中流へ向かって走っていくのが見えた。
記憶と同じ。あの子はこの先で足を滑らせ、増水した川の深みに飲み込まれる。
そして、それを助けようとした私が……。
「……させない」
私は地面を蹴った。
クレーターはできない。爆音も鳴らない。
ただ、プロの短距離走者が走るような、極めて洗練された、だが「人間」の範疇に収まる最高の速度。
「わっ……!? あ、あああぁぁっ!」
男の子が濡れた岩に足を滑らせ、バランスを崩した。
激しい濁流が、あの子を飲み込もうと牙を剥く。
(出力、一億分の一。……いや、一億分の、二!)
私は男の子の身体が水に浸かる直前、その細い腕をガシッと掴み取った。
これまでの私なら、腕を掴んだ瞬間にあの子を消滅させていただろう。だが、今の私の指先には、確かな「人の柔らかさ」を感じる感触があった。
「……大丈夫だ。捕まえた」
私は男の子を抱きかかえ、そのまま対岸の砂地へと着地した。
足元には、砂が少しだけ舞っただけだ。
川の事故は、起こらなかった。男の子は私の腕の中で、驚いたように目を丸くしている。
「あ、ありがとう、お姉ちゃん……。……すごいや、空飛んでるみたいだった!」
「……ああ。……気をつけろよ、川は危ないからな」
私は男の子を地面に下ろし、その頭をポンポンと叩いた。
掌から伝わる、生きている人間の体温。
女神のミスで始まった狂ったような三年間は、この瞬間のためにあったのかもしれない。
「おーい! ユイ! 何してんだ、早く行くぞ!」
遠くから、友人たちの呼ぶ声が聞こえる。
私は振り返り、眩しそうに目を細めた。
そこには、魔王も、勇者も、伝説の老師もいない。
ただ、私を「普通」として受け入れてくれる、何気ない日常が待っていた。
「……今、行く!」
私は走り出した。
一億倍の力を隠し持ちながら、世界で一番「普通」に生きる少女として。
女神ルナは空の彼方で、「あー、よかったぁ!」と胸を撫で下ろしていることだろう。
私の身体能力は、今も一億倍のままだ。
でも、そんなことはどうでもいい。
明日も、明後日も、私はこの「一」の力を噛み締めながら、当たり前の今日を過ごしていくのだから。
(完)




