第四十四話 神の領域の普通と、零地点への決意
女神ルナが展開した魔法陣を抜けた先。そこは、これまでの魔界や人間界とは比較にならないほど「濃密」な空間だった。
足を踏み出した瞬間、私はかつてない感覚に襲われた。
「……重い。いや、これは『地面が私を支えている』感触か」
私は能面のまま、足元の白い大理石のような床を踏みしめた。
これまでの世界では、私が一歩歩くたびに地盤沈下やクレーターの心配をしなければならなかった。しかし、この神の領域の物質は、私の一億倍の質量を「当然」のように受け止めていた。
「マジで!? ウチ、身体が重すぎて動けないんだけど! なにこれ、マジありえない!」
隣でリリスが悲鳴を上げながら四つん這いになっている。魔王級の彼女でさえ、この高次元の重力には耐えきれないらしい。
そこへ、一人の老紳士が悠然と歩み寄ってきた。
「おやおや、ルナ。また随分と極端な『バグ』を連れてきましたね」
その老紳士は、ルナの上司にあたる最高神の一人だった。
私は一億倍の視覚強化をフル稼働させて彼を観察した。魔力の波、筋肉の密度、そして存在の強度。
(……見つけた。この人なら、いける)
私は迷わず、その老紳士へ歩み寄った。
「……私はユイだ。挨拶だ、受け取ってくれ」
私は右手を差し出し、これまで一度も解放したことのない、フルパワーの「一億倍」を設定した。
カイル、レオン、アルフレッド、老師、そして魔王リリス。誰一人として耐えられなかった、女神のミスによる究極の出力。
ガシィィィィィンッ。
私の手と老紳士の手が重なった瞬間、神の領域の空気がわずかに震えた。
だが、老紳士は眉一つ動かさず、穏やかな微笑みを浮かべたまま私の手を握り返した。
「……ほう。心地よい握力ですね。ルナ、君にしては良い調整をしたじゃないですか。この娘なら、神々の庭の草むしりを任せられそうだ」
(……耐えた。一億倍の握手を、笑顔で……!)
私は能面の裏側で、三年間で初めて、心の底から安堵した。
ここなら、私は「普通」になれる。誰かを壊す恐怖に怯えることなく、全力で生きることができる。
「……ルナ。私はここに残るべきなのだろうか。ここなら、私はただの『力持ちな女の子』でいられる」
私がそう問いかけると、女神ルナは複雑そうな顔をして私を見つめた。
「ユイさん……。確かにあなとはここなら『普通』に暮らせるわ。でも、いいの? あなたが本当にやりたかったことは、神様として草むしりをすることだったの?」
ルナは私の記憶の断片――あの夏の日の、川の光景を投影した。
「あなたが自分に『一億倍』なんていう極端な呪いをかけたのは、あの時、助けられなかった男の子を今度こそ助けたいっていう、強い後悔があったからじゃないの?」
(……そうだ。私は、あの子を助けて、自分も普通に生きたかっただけだ)
「今のあなたなら、もう『出力』を完璧に制御できるはずよ。神の領域で一億倍の感覚を掴んだ今なら、元の世界に戻っても、世界を壊さずにあの子を救えるわ」
私は自分の右拳を見つめた。
一億倍の力。それは人を壊すためのものではなく、壊れゆく運命を繋ぎ止めるためのものだ。
「……ルナ。私をあの瞬間に戻せ。……やり直すんだ、私の人生を」
「……わかったわ。でも、チャンスは一度きりよ。事故が起こる直前、零地点へ送るわね」
私はリリスと老紳士に短く別れを告げた。
眩い光が私を包み込む。
次はもう、能面で隠す必要のない、本当の「普通」を掴み取るために。




