第三十八話 五十万倍の「いたわり」と、消失する地平線
「……はっはっは! どうした小娘、その程度か! 拳が軽いぞ!」
老師が木刀を一閃させるたび、大気が断裂し、真空の刃が私の頬を掠めていく。
……いや、実際には掠めてすらいない。彼の放つ「理」の力が、私の周囲にある因果律そのものをねじ曲げているような感覚だ。
(……素晴らしい。十万倍の出力を、あんなに涼しい顔で受け流すなんて。アルフレッドなら今頃、分子レベルで霧散してこの世の理からログアウトしていたはずだ)
私は能面のまま、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
ようやく見つけた。私の「本気(の手加減)」を真っ向から受け止め、さらに「もっと来い」と煽ってくれる究極の測定器を!
「……わかった。老師、あなたは本当に『健康なご老人』だ。ならば、私も敬意を表して、さらに出力を引き上げさせてもらう」
私は脳内のダイヤルを一気に回した。
十万倍から三十万倍。そして、老師の笑顔(という名の戦慄)に応えるべく、ついに**「五十万倍」**へ。
――ゴォォォォォォォォォォォォッ!!!
私がその設定を確定させた瞬間、庵があった山どころか、聖王国の北半分を支える大地そのものが、悲鳴を上げて数メートル沈下した。
空はもはや青色ではなく、異常なエネルギーの衝突によって紫色に変色し、雷鳴ではない「空間の軋む音」が鳴り響いている。
「……ひっ、ひぃぃぃ! もうダメだ、世界が割れるぅぅぅ!」
「レオン! 泣いてる場合じゃないわ、結界を……って、私の結界が発動した瞬間に蒸発してるぅぅぅ!」
カイルたちが絶叫しながら、地平線の彼方まで吹き飛ばされないように必死で岩(の残骸)にしがみついている。
「……行くぞ、老師。これは、私からの最大級の『肩叩き』だ」
私は踏み込んだ。
もはや「動く」という概念ではない。私が一歩進んだ場所の空間が圧縮され、老師との距離が物理的にゼロになる。
ドォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
私の拳が、老師が防御に回した木刀に直撃した。
五十万倍。
それは、かつて私がモニタリングしていた「黒の剣(もやしっ子)」たちが一生かけて放つ全エネルギーを、一瞬に凝縮したよりも巨大な力。
「…………ぬ、おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
老師の足元の岩盤が、衝撃に耐えきれずプラズマ化して消滅した。
老師の背後にあった巨大な山脈が、私の拳の風圧だけで扇形に削り取られ、新たな「盆地」が地図上に書き込まれる。
(……止めた!? 五十万倍の拳を、あの細い木刀一本で……!)
私は驚愕した。
老師は全身の毛穴から血を噴き出し、衣服はボロボロになっているが、その瞳だけは衰えるどころか、かつてない黄金の輝きを放っている。
「……カカッ! 愉快、愉快! まさか、この歳になって『死』をこれほど近くに感じられるとは! 娘よ、貴様の『挨拶』、確かに受け取ったぞ!」
老師は笑いながら、五十万倍の衝撃をその身に宿したまま、一歩前に踏み出してきた。
私の拳を「支え」にして、彼は自分の限界をさらに超えようとしているのだ。
(……強い。なんて健康なんだ。この人なら、百一万倍……いや、百万倍まで上げても、きっと笑って『いい運動だ』と言ってくれるに違いない!)
「……老師、あなたは最高だ。これまでの誰よりも、私の『普通』に近い場所にいる」
「……はぁ、はぁ……。……普通、だと……? 貴様、今の……この、神をも殺しかねん一撃を……まだ『普通』と抜かすか……っ!」
老師は震える足で立ち続け、満足げに目を細めた。
こうして、私と老師の「親睦会」は、聖王国の地形を再定義しながら、さらなるインフレの深淵へと突き進んでいくのだった。




