第三十七話 隠居した怪老人と、十万倍の親睦会
聖王国の最果て、霧に包まれた険しい崖の上に、その老剣士の庵はあった。
「……いいか、ユイ。師匠はもう高齢だ。さっきも言ったが、あまり驚かせたり無理をさせたりしないでくれよ」
アルフレッドが、聖剣の予備を握りしめながら念を押す。
国内一位の彼がこれほど緊張しているのを見るのは初めてだ。レオンやエリスにいたっては、もはや「伝説の人物に会える」という期待と恐怖で、生まれたての小鹿のように膝を震わせている。
「……わかっている。年配者は敬うべき存在だ。四万倍……いや、三万倍くらいの『労い』から始めるつもりだ」
私は能面のまま、庵の扉を叩こうとした。
だが、その瞬間に扉が内側から静かに開いた。
「……騒がしいな、アルフレッド。未熟者の弟子を連れて、何の用だ」
そこに立っていたのは、腰の曲がった老人……ではなかった。
真っ白な髪と髭を蓄えてはいるが、その背筋は鋼のように真っ直ぐに伸び、纏っている空気は研ぎ澄まされた刃そのもの。一億倍の視覚強化で見れば、彼の体内の魔力循環はアルフレッドを遥かに凌ぎ、止まるどころか加速し続けているのが分かった。
(……!!)
私の脳内に、かつてない衝撃が走った。
(なんだ、この人は……。アルフレッドが『事務職から見たアスリート』なら、この人は『アスリートから見た戦闘神』じゃないか。教え子を出し抜いて、自分だけこっそりレベル上げを続けていたのか)
アルフレッドは絶句していた。
「……し、師匠。その……以前より、魔力が増していませんか?」
「ふん。老いて立ち止まるなど、剣士の末路よ。私は毎日、自分の限界を更新し続けている。……それより、後ろの娘だ。貴様、その面に何を隠している」
老師の鋭い眼光が私を射抜いた。
アルフレッドの10倍。それは、私の「一万倍」の攻撃が、彼にとっては「そよ風」程度にしか感じられないことを意味する。
「……私はユイだ。あなたの教え子に合格点を与えた者だ。だが、どうやら彼を『成人の基準』にするのは早計だったようだ。本当の『完成体』は、あなたの方だったんだな」
私は一気にダイヤルのメモリを引き上げた。
一万倍から、五万倍へ。そして、アルフレッドの10倍という事実を考慮し、ついに**「十万倍」**という未知の領域へ。
ドォォォォォォォォォンッ!!!
私が設定を変更した瞬間、庵のある山全体が数センチ沈み込み、上空の雲が衝撃波で完全に消滅した。
カイルたちはその場で白目を剥いて倒れ、レオンとエリスは「あ、もうダメだ」という顔で抱き合って震えている。
「……ほう。面白い。これほど重い『挨拶』を寄こす子供がいるとは」
老師はニヤリと笑うと、腰に下げた年季の入った木刀を抜き放った。
「アルフレッド、下がっていろ。今の貴様では、この娘の気圧だけで粉砕されるぞ」
「……行くぞ、老師。私の『親愛の情』、受け取ってくれ」
私は地面を蹴った。
十万倍。もはや音速や衝撃波という概念すら過去のものだ。私の踏み込み一つで、周囲の空間が歪み、真空の渦が老師を飲み込もうとする。
ガガガギギギギギッ!!!
私の拳と、老師の木刀が空中で激突した。
木刀は折れない。それどころか、私の「十万倍」の重圧を、老師は最小限の身体の動きで受け流し、私の力のベクトルを真横へと逸らしたのだ。
ズガァァァァァァァンッ!!
逸らされた私の力が、背後の山脈を一直線にブチ抜き、遥か彼方の地平線まで巨大なトンネルを作り上げた。
「……くっ!? 受け流された……! 私の『重い挨拶』が、空振りさせられた……!」
(すごい。これが『完成された大人の技術』……! 一万倍のアルフレッドなら、今の激突で武器ごと蒸発していたはずだ。なのにこの人は、笑いながら私の拳をいなしている!)
「はっはっは! まだまだ甘いわ、小娘! 筋力と魔力に頼りすぎて、理が疎かになっているぞ!」
老師の木刀が、私の能面の鼻先を掠める。
私は初めて、冷や汗を流しながら(無表情で)後ろに飛び退いた。
(……十万倍でも足りない。この人……この『スーパーおじいちゃん』なら、もっと、もっと私の『普通』に耐えてくれるはず!)
「……合格だ。老師、あなたは私の『最高品質の基準』だ。これから、徹底的にあなたの体を測定させてもらう」
「ふん、言ったなガキが! どちらが基準か、身体に刻み込んでやるわ!」
最強の老人と、基準を求めて出力を上げ続ける少女。
聖王国の辺境で、地形を書き換えるレベルの「まともな交流」が始まったのだった。




