第三十二話 国境の基準と、健康的な準備運動
聖王国との国境付近。
そこにはかつて、両国を隔てる険しい山脈が連なっていたはずだった。だが、現地に到着した私たちの目に飛び込んできたのは、山の斜面が巨大なスプーンで抉り取られたような、無惨な光景だった。
「な……なんだこれ。土砂崩れなんてレベルじゃないぞ」
カイルが馬を止め、呆然と口を開けた。
エリスやレオンも言葉を失っている。セラフィナたちが「主」と呼ぶランキング1位の王子――その戦いの痕跡らしきものが、そこかしこに残っていた。
「……見て。あそこ、森が数百メートルにわたって完全に更地になっているわ。……これ、一撃よね。ただの薙ぎ払いで、地形が変わってる……」
エリスが震える指で、平らになった森を指差した。
(ふむふむ。なるほど……!)
私は能面のまま、その破壊の跡を丹念に観察した。
普通の冒険者なら「化け物だ」と逃げ出すところだが、私の解釈は違った。
(やっぱり聖王国の人はレベルが高いな。朝の準備運動で少し身体を動かしただけで、これくらいは『地面が均される』のが普通なんだ。この国の『事務職』な人たちなら大騒ぎだけど、アスリートならこれくらいの整地は基本中の基本に違いない)
私の脳内では、1位の王子様が「よし、今日も健康のためにちょっと素振りするか」と爽やかに剣を振る姿が再生されていた。
「……カイル。何を驚いている。これはただの『地ならし』だ。彼ほどの健康体なら、歩くたびにこれくらいの風圧が出るのは生理現象のようなものだろう」
「どんな生理現象だよ! 生きてるだけで災害じゃねえか!」
カイルの必死のツッコミも、今の私の耳には届かない。
私は確信していた。この先にいる王子こそが、私の握手を真っ向から受け止め、骨の一本も折らずに「いい握力だね」と笑ってくれる、理想の『標準人類』であると。
「……あ、あそこに誰かいるわ!」
セシルが声を上げた。
抉り取られた山の麓。土煙が舞う中、数人の人影が見える。
その中心に立つのは、ボロボロになった布を纏いながらも、隠しきれない高貴なオーラを放つ一人の青年だった。
彼の手には、刃こぼれ一つない白銀の剣が握られている。
(……来た。あれが、1位の王子……)
私は一億倍の視覚強化で、彼のバイタルを確認した。
魔力の密度、筋肉の質、細胞の活性……。セラフィナたちのさらに10倍は超えている。まさにこの世界の頂点。
(……素晴らしい。あれこそが、私が求めていた『100点満点の成人男性』のサンプルだ!)
私は喜び(無表情)のあまり、手近な岩を軽く踏んで加速した。
ドォォォォォォォンッ!!
私が一歩踏み出しただけで、地面に直径十メートルのクレーターが出来上がり、私は音速を超えて王子の目の前へと着地した。
「……ッ!?」
青年――聖王国の王子は、瞬時に剣を構え、私の喉元に突きつけた。
その反応速度、無駄のない動き。完璧だ。
「……何者だ。この状況で、正面から突っ込んでくるとは」
「……私はユイだ。新人のAランクだ。あなたのことをずっと探していた。……あなたのような『普通の大人』に会えて、心から嬉しい」
私はいつもの能面で、最高に友好的な挨拶を投げかけた。
王子の背後に控えていた『黄昏の旅団』のメンバーたちが、絶望に満ちた顔で私を見ていることには、まだ気づいていなかった。




