第二十九話 十倍の誤差と、神の代理人の冷や汗
セラフィナの絶対防御『聖域』が、パリンという軽い音と共に霧散した。
ギルド内の空気はもはや氷点下まで冷え切っている。レオンやエリスは、これ以上ないほど目を見開き、呼吸することすら忘れていた。
(……あ、れ? やっぱり壊れた。おかしいな)
私は指先を見つめ、脳内で急速に計算を走らせた。
レオンたちの強さを「1」として、セラフィナさんたちはその10倍、つまり「10」くらいの出力だと見積もった。
私の元の力が100,000,000(一億)だから、その百分の一……いや、もっともっと抑えて、彼女たちの強さ(10)に対してさらにその数分の一の力で触れたはずだった。
(……あ、そうか。1と10の差なんて、一億から見れば0.0000001と0.000001の差でしかないんだ。どっちにしろ、蚊を叩く力よりさらに弱くしないと、この世界の人たちはみんな壊れちゃうんだな)
ようやく算数レベルの事実に気づき、私は内心で深い溜息をついた。
この世界の「最強」の階段をいくら登ったところで、私の持つ一億倍という数字の前では、一段目も百段目も地面にへばりついているのと変わらないのだ。
「……き、貴様。今、何をした……」
セラフィナが、震える声で問いかけてきた。
常に自信に満ち溢れていた彼女の瞳に、初めて「理解不能な存在への恐怖」が浮かんでいる。
「……何、と言われても。ただの挨拶だ。少し鎧が立派だったから、触れてみたくなっただけで」
私は能面のまま、ジョッキに残っていた黒い炭酸飲料を飲み干した。
「……壊すつもりはなかったんだ。この世界の『大人』はもっと頑丈だと思っていたから、つい力が入ってしまったのかもしれない。すまないな」
「お、大人……?」
セラフィナが呆然と呟く。
国内2位、神の代理人とまで呼ばれる自分たちが、この少女にとっては「まだ身体ができていない子供」か何かに見えているというのか。
「……ユ、ユイちゃん! もうその辺にしてあげて!」
見かねたカイルが、腰を抜かしながらも割って入ってきた。
「セラフィナ様、申し訳ありません! この子は……その、ちょっと常識に疎いというか、力の加減がまだ分かっていない新人Aランクでして!」
「Aランク……だと……?」
セラフィナの背後に控えていた魔術師の青年が、顔を引きつらせた。
「聖域を物理的に粉砕しておいて、Aランクだと……? 冗談はやめろ。そんなことが可能なのは、世界にただ一人……『黄昏の旅団』のリーダー、あの御方だけのはずだぞ!」
(おっ、ここで1位の名前が出てきた。やっぱり1位なら、私のこの『ちょっとした挨拶』を耐えられるのかもしれないな)
私は少しだけ希望を見出した。
この世界の頂点なら、もしかしたら私と「普通に」握手ができる人がいるかもしれない。
「……そうか。1位なら耐えられるのか。なら、いつか会ってみたいものだ」
私がポツリと独り言を漏らすと、セラフィナがガタガタと肩を震わせた。
彼女には、私の言葉が「次は1位を狩りに行く」という宣戦布告に聞こえたらしい。
「……よ、よしなさい。あの御方は、今は公の場には姿を現さない。……だが、わかったわ。貴様がただの『新人』でないことだけは、骨身に染みて理解した」
セラフィナは割れた魔力障壁を修復することも忘れ、逃げるように受付へと向かっていった。
『天帝の翼』の威厳は、私の指先一つで、文字通り粉々に粉砕されてしまったのだ。
「……ふぅ。カイル、お腹が空いた。何か、もっとカロリーのあるものが食べたい」
私はいつもの能面に戻り、遠ざかる『標準(予定)』だった人たちの背中を眺めながら、次の食事のことに思考を切り替えた。




