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自由の虚像、鮮血のプロローグ

帝都の喧騒が遠い夢のように思えるほど、中立国の夜は深い静寂に包まれていた。

中立国の版図は、機能ごとに明確に切り分けられている。

中立国を統治する北の「統治区」。

東西に脈動する「商業区」と「工業区」

そして、その狭間から南へと滴り落ちるように広がるのが、人々の営みの吹き溜まりである「居住区」だ。


昼間の喧騒が嘘のように、街は死に絶えたかのような暗闇に沈んでいる。

家々の窓はことごとく光を失い、通りを照らすのは、等間隔に配置された古びた電灯の、心許ない琥珀色の光のみ。その光もまた、深い闇をより一層際立たせるための、無機質な装置に過ぎなかった。

その闇の底を、音もなく這う影があった。

影は一つではない。複数だ。

彼らは足音すら殺し、夜の静寂に溶け込みながら、居住区の中央へと集結していく。

そこには、住民たちの祈りと自由の象徴である巨像が鎮座していた。


【自由の虚像】


それは帝国のような強国に依存せず、この国独自の統治を受け入れることを選んだ民衆が、自らの手で作り上げたものだ。

「統治という規律の中にこそ、守られるべき真の自由がある」

その理念は一見すると美徳だが、自ら枷をはめることでしか安寧を得られない民衆の悲哀を象徴する、最大級の皮肉でもあった。無機質な石の瞳は、安らかな眠りにつく民たちを静かに見下ろしている。


だが、今夜、その石像の足元に集まったのは、自由を愛でる者たちではない。

冷たい月明かりに照らされた「虚像」の影で、黒衣の影たちは短く、掠れた声で打ち合わせを済ませた。感情の削ぎ落とされた、事務的で冷徹なやり取り。

それが終わると同時に、影たちは霧が散るように四方へと分かれ、居住区の各地方へと消えていった。

彼らが通り過ぎた後には、不自然なほどの静寂が残った。

それは嵐の前の静けさではなく、すでに終わりの始まった世界が吐く、最後のため息のようでもあった。


深夜の居住区に、遠くで犬が怯えたように吠える声が一度だけ響き、そしてまた、元の重苦しい暗闇へと戻っていった。


〜〜〜〜〜〜〜〜


翌明朝。

窓から差し込む柔らかな光が、飛鳥のまぶたを揺らした。

飛鳥はゆっくりと意識を取り戻し、自分が自室の使い慣れたベッドの上に横たわっていることに気づく。


飛鳥(わたし……ジャックと稽古して、その後……)


霧がかった朧げな記憶を、指先で手繰り寄せるように辿っていく。だが、いくら意識を集中させても、思考は常に同じ場所で断絶してしまう。リヒトに愛刀を奪われた、あの瞬間だ。

飛鳥「玄武っ!?」

記憶は途絶えていても、魂に刻まれた本能が叫んだ。自身にとって命を繋ぎ止める「楔」に等しいその刀を、一刻も早く手元に感じなければならない。

慌てて視線を這わせると、枕元には、いつもと変わらぬ鈍色の鞘に収まった「玄武」が、薄橙の朝日を浴びて静かに横たわっていた。


「目覚めたか」

部屋の入り口から、低く、落ち着いた声が響いた。

弾かれたように視線を向けると、そこにはリヒトがいた。彼は入り口の壁に背を預け、腕を組んだまま、感情の読めない瞳で飛鳥を見つめていた。

飛鳥「リヒト……。私、稽古をしていたはずよね? その後、私に何があったの?」

己の中で渦巻く最大の疑問をぶつけた。なぜ自分はここにいるのか。なぜ、あのような深い喪失感だけが残っているのか。

リヒト「……大したことではない。それより身体の調子はどうだ。メーガスが上位治癒魔法で全身を組み直した。よっぽどのことがない限り、後遺症はないはずだが」

リヒトは飛鳥の問いを正面から受け流し、淡々と彼女の状態を確認した。余計な混乱や恐怖を与えまいとする、彼なりの不器用な配慮。だが、真実を知りたい飛鳥にそれが伝わるはずもなかった。


飛鳥「……迷惑、かけたのね?」

リヒトの煮え切らない態度、そして「上位魔法」などという大掛かりな処置を受けた事実。それらが、飛鳥に自分が何らかの異常事態を引き起こしたことを悟らせた。

リヒト「……」

リヒトは何も答えず、ただ沈黙を貫いた。

その「肯定」とも取れる沈黙こそが、飛鳥の不安を確信へと変えた。解決には至らずとも、自分が制御不能の何かに陥り、彼らの手を煩わせたことは明白だった。

飛鳥「……ごめんなさい……」

俯いた飛鳥の口から、掠れた謝罪が漏れた。


ジャッカルという新天地を与えられ、再起を誓ったはずだった。それなのに、実戦どころか稽古の段階で他者に劣り、あまつさえ護られる側に回ってしまった。自分にはこの場所で共に歩む資格などないのではないか――そんな強烈な不安と自責の念が、彼女の華奢な肩を震わせる。

リヒト「何を謝る必要がある」

飛鳥「だって……! 私は、稽古でさえ……! あなたたちに、取り返しのつかない迷惑をかけたのでしょう!? そんな……そんな出来損ないの私が……!」


『ここに居ていいはずがない』


喉元まで出かかったその言葉を、飛鳥は奥歯を噛み締めて飲み込んだ。絶望の淵から拾い上げてくれた男の前で、自身の存在を否定するような弱音を吐くことは、恩義に対する裏切りに等しい。理性がそう囁き、彼女はただ拳を握りしめて俯いた。

リヒト「……お前は、本当にバカだな」

飛鳥「えっ……?」

予想だにしない罵倒に、飛鳥が驚いて顔を上げた。そこには、呆れ半分、そしてどこか微かな熱を帯びた瞳で彼女を見下ろすリヒトの姿があった。

リヒトはそこまで言い切ると、ふっと視線を落とした。


リヒト「昨日の稽古で確信した。やはり、あの場所からお前を連れてきたことに間違いはなかったとな」

低く、だが鋼のような強さを持った言葉が、静かな室内に響く。リヒトはいつの間にか飛鳥のすぐ傍らに立ち、逃げ場を塞ぐように、真っ直ぐに彼女の瞳を射抜いていた。

リヒト「弍科にしなの刀術が、なぜあれほどまでに強いか。その理由を知っているか?」

飛鳥「それは……」


脳裏に、先日の死闘が鮮烈に蘇る。

常人の動体視力を置き去りにする神速の剣閃。大気を断ち切り、鋼を紙のように引き裂く圧倒的な破壊力。兄たちが到達していた「人外の領域」を思い出し、飛鳥は再び己の掌を見つめて、暗い自己嫌悪に沈みそうになる。

リヒト「案ずるな。お前の中にも、その強さのもとは既に備わっている」

飛鳥「……っ!?」

予想だにしなかった断言に、飛鳥は弾かれたように顔を上げた。あの兄たちと比肩する、あるいはそれ以上の「何か」を自分が持っているなど、これまでの人生で一度として考えたこともなかったのだ。

リヒト「お前の魔力は、宗光や金光よりも凄まじい。純粋な総量だけで言えば……あのギークすらも上回るかもしれんな」

最後の方は、少しだけ眉をひそめて「かもな」と付け加えたリヒトだったが、その言葉が持つ重圧は十分だった。


リヒト「弍科の刀術の本質は、基本の型だけではない。術者が持つ圧倒的な魔力を、血管の一本一本、細胞の一つひとつにまで浸透させ、肉体を極限まで変質させる。自己強化による身体能力の爆発……それこそが、あの速度と威力の正体だ」

飛鳥「……でも、私には、そんなこと……」

混乱が飛鳥を支配する。無理もない。

兄たちからは「落ちこぼれ」と蔑まれ、形をなぞることだけを強いられてきたのだ。魔力の運用どころか、自分がそれほどの「器」であることさえ教えられてこなかった。

リヒト「安心しろ。お前は磨けば、必ずあの兄たちを越える。――だが、今はそこの刀がお前を守ると同時に、お前の成長を阻害している。まずは、そこを何とかしなければならないのだがな……」

飛鳥「ち、ちょっと待って! いきなり知らないことが多すぎるわ! 順を追って話してくれないと!」


情報過多でパンク寸前の飛鳥が、縋るような声を上げる。無理もない。目覚めて数分で、一族の秘匿された術理や自身の規格外の才能について突きつけられたのだ。


メーガス「そうよねぇ。起きたてにそんな難しいこと並べ立てられても、頭に入らないわよねぇ」

飛鳥「そう。弍科の剣のこととか、玄武がどうとか……私に魔力があって、それがとてつもないなんて……」

メーガス「その魔力なんだけどさぁ――いっそ一回、限界までブチ撒けてみない?」

飛鳥「さっきから言ってるでしょ、私に魔力なんて……って、メーガスさん!?」


恐ろしいほど自然に会話に溶け込んでいたため、気づくのが一拍遅れた。いつの間にか、部屋の隅にメーガスが音もなく「転移」してきていたのだ。

メーガス「おはよ。もう元気そうね? さすが、若いっていいわねぇ~」

老婆のような軽口を叩きながら、メーガスは飛鳥の肩を強引に抱き寄せ、その頬をすり寄せた。飛鳥の回復を、彼女なりに全身で喜んでいるようだ。

飛鳥「ちがっ……いつから、そこにいたの……!?」

メーガスに文字通りもみくちゃにされながら、飛鳥は必死に疑問をぶつける。

メーガス「ん? 話自体は割と最初から聞いてたわよー。あなたがわなわな震えながら『ごめんなさい……』って殊勝に謝りだしたあたりからねぇ~」

飛鳥「っ!?」

一番見られたくない脆い姿を覗き見られていた。飛鳥は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め、弾かれたようにそっぽを向く。

メーガス「あらあら! かぁわいい~!」


リヒト「……そろそろいいか」


姉妹のじゃれ合いのような空気を、一切の躊躇なく切り裂いたのはリヒトだ。メーガスは不満げに頬を膨らませ、リヒトに向けて「べっ」と小さく舌を出したが、すぐに真剣な表情に戻って先を促した。

リヒト「当面の最優先事項は、玄武を身体から離しても、お前の魔力が暴走しないようにすることだ。そのためには、まずお前自身に『魔力の流れ』というものを正しく認識してもらわねばならない」

飛鳥「さっきから何度も言ってるけど……私には、魔力なんて一滴もないわ。落ちこぼれなのよ?」

リヒト「いや。ある。それも、お前自身の想像を絶するほどの量がな。……まあ、その辺りはこれからの特訓で、嫌というほど身体に叩き込まれることになるだろうがな」


リヒトは飛鳥の否定を、一片の迷いもなくキッパリと切り捨てた。

隣で聞いているメーガスも、否定するどころか「当然」といった顔で頷いている。世界屈指の怪物二人にこれほど断言されては、飛鳥も「もしかして、間違っているのは私の方なのか……?」と、これまでの常識が音を立てて崩れていくような錯覚に陥らざるを得なかった。


メーガス「魔力の循環に関しては、この私が直々に見てあげる。ついでに、あなたがまた暴走しちゃった時に、力ずくで抑え込むのも私の役目ね」

大陸でも指折りの超高位魔導師である彼女が、直接手解きをしてくれるこれ以上ない贅沢な教育環境だった。

リヒト「刀術、および身体強化に関しては己で学べ。ここにはジャックもギークもいる。鍛錬の相手に困ることはないだろう」


規格外の怪物二人から投げかけられた言葉。飛鳥はそれを一つひとつ、自身の胸の内で噛み締めるように反芻した。兄たちに否定され続け、暗闇の中にいた彼女にとって、この言葉は新たな人生の指針となった。


飛鳥(……少なくとも、この二人は私を認めてくれている。なら、私はただ、その期待に追いつけるように努力をするだけ。どれだけ……時間がかかろうとも!)

一度は折れかけた心に、熱い火が灯る。その決意を言葉に乗せて伝えようと、飛鳥が勢いよく顔を上げた、その時だった。


――バタンッ!!


静寂を叩き壊すような乱暴な音を立てて、部屋のドアが開け放たれた。

そこに立っていたのは、普段の温和な微笑を完全に消し去り、氷のように冷たく、それでいて深刻な表情を浮かべたルシウスだった。

ルシウス「リヒト、メーガス。……悪いが、二人とも今すぐに『自由の虚像』まで来てくれ」

その声は低く、地を這うような重みを帯びていた。ルシウスは一瞬だけ、ベッドの上の飛鳥に視線を向けたが、すぐに声音を和らげる。

ルシウス「飛鳥、君はまだゆっくり休んでいて構わないよ。……これは、僕たちの仕事だ」

凄惨な事態を予感させながらも、彼女への配慮を忘れない。その優しさが、逆に事の重大さを飛鳥に予感させた。


リヒト「……何があった」

リヒトの短い問いに対し、ルシウスは苦渋に満ちた表情で首を振った。

ルシウス「……言葉で説明するより、見た方が早い」

深くは語ろうとしないルシウス。その沈黙の重さに、リヒトは一瞬で「ただ事ではない」と判断した。彼は飛鳥を振り返ることなく、しかし言い聞かせるように言葉を残す。

リヒト「飛鳥。……とにかく、お前は強くなることに専念しろ。余計なことは考えるな」


その言葉を最後に、リヒトはメーガスと共に、弾かれるように部屋を飛び出していった。

残された飛鳥の耳には、遠ざかっていく三人の急ぎ足の足音と、窓の外から微かに聞こえる、居住区のざわめきだけが届いていた。


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