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蜘蛛の巣の看破 ―完璧なる盤面と背筋の戦慄―

リュド(――メーガス。もはやこの戦い、勝機は薄い。これ以上ここで戦っても無駄と見るべきだろう。リヒトへ、早急に撤退を進言した方がいい)

影から密かに戦況を見つめていたリュドもまた、あの闘技場から放たれたギークの致命的な魔力の減退を正確に感知したのだろう。どこからともなくメーガスの背後の闇に姿を現した彼は、張り詰めた声音で直接脳裏へと念話を送ってきた。

メーガス(そうね……。ルシウス、聞こえるかしら。応答して)

各方面の戦況を瞬時に繋ぎ、撤退の合意を形成するための一策。

メーガスは即座に思考を切り替え、全戦線の情報集約役であるルシウスとのコンタクトを図る。脳裏に飛ばした念話の波紋が帝都の夜空を渡り、数秒の静寂ののちに、低く落ち着いたルシウスの声が返ってきた。

ルシウス(メーガス……。広場の状況はどう? こっちは、地下の『零遺衆レイス』がこの作戦全体の鍵を握りそうだけど……)

メーガス(こっちは、あの拳聖をここに留めておくのでやっとね。意識を失ったジャックの、暴走じみた本能のおかげでなんとか前線を維持できている感じよ)

今なお、正気ではないながらも、黒い雷光を撒き散らしながら拳聖ロックと熾烈な肉弾戦を繰り広げているジャックの戦闘人形バーサーカーのような姿を視界の端で見やりながら、メーガスは冷徹に会話を進める。

メーガス(ルシウス。これまでの戦況から判断した、私の率直な意見を言うわよ)

ルシウス(……あぁ、聞こうか)

メーガス(たとえ広場で私たちがこのまま拳聖を抑えきったとしても、これ以上王城に増援を送り込めるだけの戦力的な余裕は、今の私たちにはないわ。さっきの闘技場の方角から上がった凄まじい魔力反応を見ても分かると思うけれど、ギークは致命的な深手を負って沈んだ。それに――さっきから肌で感じているけれど、リヒトもどこかで信じられないほどの化け物を相手に、かなり本気で命を削って戦っている。はっきり言うわ。これ以上は、もう勝ち目がない)

各地の絶望的な戦況を冷静にパズルのように組み立てた上で、メーガスはこれ以上ないほどはっきりと「勝ち目がない」と断言した。

だが、数秒の重苦しい沈黙ののちに、ルシウスから返ってきた答えは、メーガスにとって極めて予想外のものだった。

ルシウス(――そうだね。完全に同感だよ、メーガス)

メーガス(……。珍しいわね、あなた。いつもなら、こんな最悪の状況からでも、盤面をひっくり返すための小賢しい何かを裏で用意しているものだと思っていたのだけれど?)

ルシウス(流石に、根本的な戦力差が大きすぎる。それに……この戦い、どう考えても最初から、帝国側の『盤面』が完璧に整いすぎていたようにしか思えないんだ。メーガス、僕たちは最初から――)

メーガス(……嘘、でしょ。私たちは――『誘われていた』……とでも……?)

ルシウスが最後まで言い切るよりも先に、メーガスの脳裏にも全く同じ恐怖の答えが電閃の如く行き着いた。

おそらく、ジャッカルが帝都の「大結界」を強引に破壊することまでは、帝国側も完全には想定していなかったのかもしれない。しかし、そこからのリヒトへの初手での対応。ギークへの正確無比な対応。そして広場、王城、地下への守備のあまりの異常な速さ――。

確かに、ジャッカル側としてはこれ以上ない超速度での電撃侵攻だった。ゆえに帝国は、大結界が破られた直後は準備が出来ておらず、混乱の極みにあるとばかり思っていた。だが、もしその前提が、根底から『逆』だったとすれば。

「リヒトが必ず帝都へ来る」と事前に想定していれば、一席ルーグは最初から闘技場付近に待機している。闘技場からであれば、帝都の全範囲内なら空間転移ですぐにどこへでも対応が可能だ。

「ギークが武闘会に出る」と分かっていれば、彼を確実に封殺できる最高戦力の剣聖ドルネを最初からぶつければいい。

「王城が最終的な狙い」と分かっていれば、内裏に兵を深く伏せ、ジャッカルの侵攻ルートになるであろう地下(零遺衆の道)と中央広場に、最初からピンポイントで防御のための最高戦力(宗一郎やロック)を配置すればいい。

――すべての不自然な辻褄が、一瞬にして完璧に合ってしまったのである。

背筋を駆け抜ける冷たい戦慄。

自分たちが必勝を期して仕掛けた完璧な奇襲は、帝国という巨大な化け物が、ジャッカルという獲物を確実に噛み潰すために、あらかじめ口を開けて待っていた「蜘蛛の巣」のなかに過ぎなかったのだ。

暗転していく帝都の広場で、メーガスの額から、冷たい汗がひとすじ流れ落ちた。


ルシウス(あくまで……推測だけどね。だけど、これ以上戦いが長引けば、帝都近隣の領地からの大規模な増援も確実にここに到着し始める。そうなれば、ここから脱出することすら困難になってくるだろう。――早めの判断を下すべきだ)

メーガス(なら……。リヒト、聞こえる!? ――広場、そして王城前の戦局は、はっきり言って私たちの劣勢よ。こっちはジャックと私がなんとか拳聖を抑え込んでたけど、王城前はルシウスだけ。帝国軍の守備の層が厚すぎるわ)

ルシウスの冷静な警告を背に受け、メーガスは即座にリヒトへと直接コンタクトを取る。

しかし、思考の糸を飛ばしてから数秒の間、リヒトからの返答はなかった。メーガスとルシウスの脳裏を繋ぐ念話は重苦しい沈黙を貫き、それぞれに冷たい緊張が走る。

彼らの長であるリヒトであれば、万に一つも敵に遅れをとることなどないと信じてはいる。

だが、各地の絶望的な戦況を把握し、そして自分たちが最初から「誘い込まれていた」という最悪の仮説を想定すればこそ、まだ二人が感知できていない『帝国の罠』がリヒトの身に降りかかっていてもおかしくはないのだ。


リヒト(――なるほどな……。ギークの様子は、そっちからわかるか?)

沈黙を破り、ノイズ混じりのリヒトの言葉が返ってくる。かすかに息が荒い。

返事が遅くなったものの、彼はメーガスから送られた最悪の報告を瞬時に反芻し、手短な状況確認へと入っていた。

その意図を察知したメーガスもまた、先ほど感知したギークの絶望的な魔力の減退を短く端的に伝え、一刻も早く撤退を視野に入れるよう誘導したのである。


ルシウス(――リヒト。僕も、ちょうど同じ判断をしていたところだよ)

メーガスの報告がひと段落したところで普段は慎重なルシウスまでもが完全に同意の意思を示す。

リヒト(……ルシウス。お前も、その判断なのか)

リヒトの声音に、微かな苦渋の色が混じる。

ルシウス(あぁ。……酷な現実だけどね。今の僕らの残存戦力で、ここから王城に全力の攻勢をかけたところで、おそらく落とし切ることはできない。それどころか、すり潰されて全滅する)

リヒト(……っ)

ルシウス(それに――これは一番、君自身がよく分かっているはずだ。帝国にはまだ、あの『アーサー』が控えている。……違うかい?)

リヒト(……あぁ。そうだな)

ルシウスの痛烈な一指摘に、リヒトは短く認めるしかなかった。

そこからさらに現状を矢継ぎ早に伝え、この戦い自体が帝国があらかじめ用意していた完璧な盤面であること、ここからの勝利への道筋が限りなく綱渡りに近い絶望的なものであることを論理的に伝え、二人はリヒトの最終判断を仰いだ。

――数秒の、世界のすべてが止まったかのような沈黙。

のちにリヒトの口から脳裏へと返ってきた言葉は、やはり『撤退』。

すなわち、ジャッカルが命を懸けて挑んだ帝都急襲作戦の、完全なる終了を告げる言葉であった。

リヒト(……わかった。作戦を変える。全員、直ちに撤退戦に切り替えろ。ルシウスは、今すぐ地下の零遺衆に出している作戦の完全破棄を伝えろ。その後に、急ぎ広場のメーガスと合流しろ)

ルシウス(了解だ)

リヒト(メーガス。お前は広場にいる全員を連れて即座に後退。動けないジャックと飛鳥を、リュドとルシウスの手を借りて死守しろ。そのまま闘技場へ回り、ギークを確実に回収して、お前の最高位転移で帝都外へ離脱だ)

ルシウス(……残念だけど仕方ないね。了解。死なないようにね、リヒト)

メーガス(わかったわ……。――リヒト、あなたも絶対に、生きて戻りなさいよ)

夕陽が完全に地平線へと没し、漆黒の夜へと塗り潰された帝都。

必勝の電撃戦はここに崩壊し、ジャッカルの命を繋ぐための、最も過酷な『大撤退劇』がここに幕を開けたのである。

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