金剛の鉄拳 ―上空より撃ち落とされし雷光の残痕―
そして――拳聖がじっと耐え難く待ち望んでいた、その「瞬間」がやってきた。
ロック「――もう……充分であろう!!」
突如として、拳聖の喉から大気を震わせる地鳴りのような咆哮が上がった。
ロックはその場でどっしりと低く腰を落とし、大地にその根を張る。その濁っていたはずの双眸からは、先ほどまでの愉悦や情けといった感情が完全に抜け落ち――ただ眼前の敵を確実に屠るためだけの、冷徹な『戦士の目』へと変貌を遂げていた。
その凄絶な一瞥だけで、末端の兵士であれば一瞬で精神をへし折られ、気絶しかねないほどに鋭く昏い眼光。
気のせいか、ロックの体表を、さらなる魔力の奔流が覆い始めていく。
――いや、気のせいなどではなかった。
ロックの五体を包み込んだのは、確かに今までと同じ魔力の強化。だが、そこに込められた『密度』が根本から違っていた。
ただそこに存在するだけで周囲の空間を陽炎のように歪ませる、文字通り桁違いの高密度の魔力。
その圧倒的なまでに膨れ上がった魔圧の暴風により、ロックの周囲一帯に散らばっていた数多の瓦礫が、まるで重力を失ったかのようにフワリと宙へ浮き上がる。
ロック「こおおおおおおお……!!!!」
肺から全ての空気を限界まで絞り出し、体内の全魔力を一息に練り上げる独特の呼吸音が、夕闇の広場を支配していく。
ジャックもまた、超加速による次なる必殺の連撃を放つための極僅かな『溜め』の段階で、その異様な光景を肉眼で捉えていた。
ジャック「へへっ……まだ……な……にかっ……!! やる……つもりっ……なのかなぁっ……っ!?」
過負荷によって口の端からドロリと鮮血を流しながら、ジャックは狂った笑みを張り付けたままロックに向けて挑発の言葉を投げかける。
しかし、拳聖からの返答は一切返ってこなかった。
完全に戦闘の呼吸に入ったロックの静寂を前に、ジャックはそのまま黒い雷の超加速を解くことなく、先ほどと同様にその顔面へと拳を叩き込むため、一瞬にして正面の死角へと回り込み、限界を超えて踏み込んだ。
ガッ!!!
ジャックがロックの正面へと突如として現れ、白銀の雷光を纏った拳を真っ直ぐに突き出す。
――視認。
――いや、脳が認識するよりも早く。
積年の死線で培われた至高の『反射』がロックの肉体を神速で駆動させ、完璧な迎撃へと動かしていた。
正面から突き出されたジャックの拳。
その突進の軌道を真っ向から叩き落とさんと、ロックは莫大な魔力を込めた剛腕を、上空から垂直に向けて一気に振り下ろした。
まともに喰らえば、腕ごと肉体が地面に埋まるほどの絶対的な一撃。
だが――その死神の鎌のような迎撃に対し、狂気の天才たる少年の本能は、理屈を超えた領域で瞬時に反応して見せた。
突き出された己の拳が叩き落とされる
――そのコンマ数秒の刹那、ジャックは強引に逆らうのではなく、全身の筋肉を「瞬時に脱力」させてみせた。
ロックの剛腕から伝わる絶大の質量。
それを己の肉体という支点を通じて、滑らかな「遠心力」へと完璧に変換する。
ジャックはその凄まじい推進力を利用して、常人なら背骨がへし折れるほどの驚異的なバネで身体を極限まで捻り上げ――捻出された全エネルギーをそのまま乗せた、必殺の巻き込み蹴りをロックの無防備な脇腹へと見舞った。
肉を切らせて、骨を断つ拳聖の裏をかく、まさしく完璧なカウンター。
流麗かつ獰猛なジャックの蹴撃は、漆黒の雷光を伴って、寸分の狂いもなくロックの肉体を真横から完璧に捉えた。
ビシィッ!!!
琥珀色の夕闇が広がる広場に、およそ生身の人間を蹴りつけたとは思えない、硬質な結晶同士が激突したかのような金属質の音が甲高く駆け抜ける。
そして――ほんの束の間の、奇妙な沈黙ののち。
ジャック「――っ、あ……っ、!?!?」
小さく苦悶の声を漏らし、その顔を激痛に歪めたのは、あろうことか完璧な一撃を決めたはずのジャックの方であった。
ジャック(意味がわからない……っ! なんだ、このデタラメな硬さは……!?)
手応えは確かにあった。
だが、まるで世界の中心にある絶対の岩盤を蹴りつけたかのような反動。
自身の限界突破した魔力強化の蹴りをもってしてもビクともしない絶望的な防御力を前に、ジャックは自身の足の骨が砕け散るかのような強烈な自損ダメージを負い、その場で動きが硬直してしまう。
ロック「――しまいか……? ならば次は、不肖ワシの番だのぅ」
ジャック「――くっ……!?」
正面に佇む老武人の身体から、それこそ大気を圧殺するほどの圧倒的な戦意の波が噴き出す。
ジャックの視覚には、目の前の拳聖の巨躯が、数倍、数十倍にも膨れ上がってそびえ立つ絶望の壁のように大きく見えていた。
本能が全開の警鐘を鳴らす。ジャックは咄嗟にその場から離脱しようと、残された片足で後方への跳躍を試みた。
――しかし、ロックの腹にめり込んだはずの足が、どうあがいても離れない。
何事かと驚愕に目を見開き、自身の脚へと視線を落とすと――そこには、いつの間にかジャックの蹴り足を万力のような腕力で「しっかりと掴み、完全に固定している」ロックの分厚い手のひらがあった。
ジャック「この……っ……! 離せっ……!! 離せよおぉぉっっ!!」
宙吊りのような不格好な体勢のまま、ジャックは焦燥のままに黒い雷を爆ぜさせ、もう片方の足でロックの手首を何度も蹴りつける。
だが、拳聖の手は微動だにしない。
ロック「がははは!! お主ばかりがワシを一方的に殴るのでは、いささか公平ではなかろうて。なぁに、心配するな。ワシもお主に恨みがあるわけではない。この『一撃』だけで綺麗さっぱり許してやるゆえ――心して受けるといい」
ガチリ、とロックの五体がさらに深く沈み込む。
と同時に、先ほどまで周囲の空間を歪ませ、瓦礫を浮き上がらせていた広域の魔力のすべてが、ロックの右の拳、ただ「一点」のみへと、ブラックホールのように急速に吸い込まれ、極限まで集約されていく。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!!!!
大気を、そして帝都の強固な地盤そのものを底からガタガタと震わせる、恐ろしいまでの熱量と魔力濃度。
それは、先ほど飛鳥に向けて振り下ろそうとしたあの拳など比較にならない、文字通り『拳聖ロック』という一人の怪物の全存在を込めた必殺の拳。
これを直撃させられれば、いかに強化状態のジャックといえど、肉体が形を保っていられるはずがない。
死が、すぐ目の前まで迫っている。
それを天才的な戦闘直感で完全に予感したからこそ、あの狂気に狂っていたジャックの全身が、初めて本物の「戦慄」に拒絶反応を起こすようにカタカタと震えていた。
夕陽が沈みきる寸前の広場。
絶対的な死の鉄拳が、少年の眼前でゆっくりと引き絞られていく。
――突然として、ジャックの小さな身体は、夕闇の迫る帝都の宙を派手に舞っていた。
ジャック「なにが――っ!?!?」
本当に一瞬の出来事だった。
つい先ほどまで地面に足のついたゼロ距離にいたはずが、気づけば高度十数メートルという高さを、上下の感覚さえ喪失した状態で投げ出されている。
天才たるジャックの脳を以てしても、一瞬、目の前の現実への理解が完全に追いつかない。
そして、空中という、身動きの取れない絶対的な遮蔽物のない空間に――逃げ場を失った少年を追うようにして、絶望の老戦士がその身を躍らせ、眼前に立ちはだかる。
そう。ロックは最初から、その場に繋ぎ止めたジャックを殴るつもりなどなかったのだ。
必殺の魔力を拳に集約させながら、万力のようなその剛腕の膂力だけで、少年の身体を一瞬にしてはるか上空へと放り投げたのである。
ロック「――拳聖ロックが一撃、受けてみよッッ!!!!」
引き絞られていた拳が、空中で無防備に晒されたジャックの胸塊へと、容赦なく突き下ろされた。
ぱあぁぁん!!!!!!
大気が完全に破裂し、真空の球体が生まれたかのような、乾いた爆音。
直後、この世の終わりのような落下の駆動が、少年の身体を大地へと垂直に撃ち落とした。
ズドォーーーン!!!!
帝都の広場中央に、超高音の衝撃音と共にジャックの五体が激突する。
その威力たるや、もはや人間の放つ打撃という言葉にすることさえ困難なほどの、天災地変の如き暴威。
ジャックが落ちた、その余波だけでも凄まじかった。
激突の瞬間、地面がクレーターのように大きく陥没し、そのすぐ近くで今なお小競り合いを演じていたはずの帝国軍、ジャッカルの兵士たちが、敵味方の区別なく一瞬にして衝撃波に巻き込まれ、悲鳴を上げる間もなく共々に肉体を消し飛ばされて絶命していく。
さらに、ジャックが落ちた中心点から半径数メートルに向けて、目に見えるほどの白い衝撃波のリングが荒れ狂うように全方位へ巻き起こる。
それまでに繰り返された戦闘の巻き込みによって発生し、広場に散らばっていた数多の瓦礫が、その風圧だけで弾丸のように遠方へと吹き飛んでいき、周囲に辛うじて形を残していた民家の壁や柱を次々と打撃し、さらなる二次崩壊を引き起こしていった。
ズドン。
ジャックが文字通り「埋まった」白煙の渦巻く中心地へと、滞空していたロックの巨体が静かに着地を果たす。
拳聖は、己の全霊の一撃を以て撃ち落とした、若き強敵の様子を煙の奥へと確認する。
ロック「ほぉう……死ななかったか。これは、大したもんよなぁ。感心感心」
雷光が完全に掻き消え、過負荷で全身から煙を上げながら、辛うじて、本当に辛うじて皮一枚で命を繋ぎ止めているジャックの姿を見て、ロックは心底から感心したのだろう。無骨な手のひらで自身の白髭の顎を撫でながら、素直な賞賛の感想をぽつりと言葉としてこぼす。
だが、その場にただ悠然と佇むロックの背中は、周囲で生き残っていたわずかなジャッカルの兵士たちからすれば、もはや人間の域を超えた『絶対的な絶望』そのものであった。
これほどの怪物を前にして、一体どうやって生き残れというのか。彼らの心からは、もはや抗うための微々たる気力さえも、完全に削ぎ落とされていたのであった。
ロック「ふぅ。これでこのわっぱもしばらくは再起不能。今度こそ、残りの羽虫どもを潰してまわれば終わりかの」
飛鳥、そして狂気の少年ジャックまでもをその圧倒的な武力で沈めたロックは、大仕事を終えたかの様に深く一息つき、静かに周囲を見渡す。
二度にわたる異次元の激戦により、かつて美しかった帝都中央広場は見る影もない凄惨な有様へと変貌していた。
綺麗に整然と並んでいたはずの民家はあらかた倒壊して瓦礫の山と化し、広場の頑強な石畳は全域にわたって大きくひび割れ、その中央には先ほどジャックを撃ち落とした際に作られた、巨大なクレーターが不気味に陣取っている。
その周囲の硝煙の中では、ジャッカルの残存兵と帝国兵がいまだに小規模な小競り合いを続けてはいた。
だが、先刻ほどの勢いはジャッカル側には微塵もなく、もはや反帝国勢力の兵が全滅するのは、この場にいる拳聖がわざわざ介入せずとも時間の問題であることは誰の目にも明らかであった。
ロック「うむ。ここらの処理は末端に任せて問題なかろう。ならばワシは王城へ向かうか。あちら側でも、なにやら騒がしいことが起きているようであるからな」
この戦場での自身の役目は終わった。そう判断してその場から離れる意思を固め、地に伏したジャックに背を向けて一歩を踏み出した、まさにその時。
ロック「――っ!?!?」
背筋を凍らせるような、あまりにも純然たる『殺意』。
空間の温度が急激に下がったかのような錯覚を覚えるほどの、濃密で、一切の迷いのない凶悪な気配。そのただ事ではない異変に、ロックは積年の本能のままにすぐさま回頭し、即座に迎撃の構えを取る。
だが、しかし――。
激しく土煙が舞うロックの視界に入る限り、自身に対してその狂気的な殺意を向けて立っているような者は、影も形も存在しなかった。いるのは怯えきったジャッカルの雑兵と、倒れ伏す若者だけだ。
ロック(――気のせいでは、断じてなかろう。これほどの密度の気配……明確に『個』としての強い意思がなくば、このワシにまで届くようなものを向けられるはずがない……!)
一体、何者が。どのような意思を持って。そして、どこからどうやってこれほどの殺気を放っているのか。
老練な脳内でいくら思考を重ねてみても、その辻褄が合う答えは一向に浮かび上がってこない。
緊迫した数秒の静寂ののち。
拳聖ロックがたどり着くべきその驚愕の「答え」は、彼のあらゆる予測の範疇を完全に超えた、あまりにも予想外のところから姿を現す。
夕陽の残光が完全に消え失せ、帝都が本当の「夜」に包まれるその刹那、何かが広場に出現する。




