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聖薔薇の抱擁 ―死角なき転移と不可視の狂刃―

キィィンッ!


ギークは片腕で受け止めた細剣を、まるで羽虫でも払うかのように容易く上方へと弾き返した。

ドルネの華奢な身体がその巨力に浮かび上がった刹那、ギークの銀槍が生き物のようにしなり、華麗な軌道を描いて反撃の猛嵐へと変わる。

ドルネもさすがに帝国の最高戦力と言うべきか、体制を大きく崩され無防備になった状態から、本能的な剣捌きで迫り来る銀の閃光を数度弾いてみせた。

だがしかし、ヴァルキュリアを携えたギークの振るう速度は、すでに彼女の動体視力の限界を超えていた。

刃による斬撃を辛うじてかわしたドルネの脇腹へ、目にも留まらぬ速さで旋回した槍の石突が、容赦のない殴打となって叩き込まれた。

ドルネ「……くっ……!」

骨の軋む鈍い音が響く。ドルネは咄嗟に身をよじって受け身を取り、衝撃を殺しながらではあるが、闘技場の硬い石床を無様に転がされていった。

しかし、彼女もまた敗北を拒む怪物。

泥にまみれながらもすぐさま鋭い身のこなしで体勢を立て直すと、怒りに燃える瞳で地を蹴り、反撃のため狂おしく踏み込んで細剣を激しく振るった。


ギンガンギンガンッ!!!!


無人の闘技場に、先ほどまでとは明らかに密度の違う金属音が激しく連鎖する。

幾度となく細剣と槍が火花を散らし、空間を切り裂いてぶつかり合うが、その形勢は完全にギークへと傾いていた。ドルネの神速の刺突はことごとく銀の槍身に予測されていたかのように弾かれ、逆にギークの鋭い突きが彼女の死角を正確に脅かしていく。

ドルネ「本当に……槍の見た目を変えただけだというの!? 認めない、そんな理不尽なこと――っ!」

あまりの力関係の逆転に、焦りと屈辱から、ドルネの口から余裕のない悲鳴のような言葉が飛び出る。

ギーク「さあな!? 随分と焦ってんじゃねえか、剣聖サマよぉ! 焦りで剣筋がガタガタに乱れてんぞっ!!」

その激しい攻防の最中、ドルネの一瞬の引き際を見逃さず、ギークの天性の戦闘センスが牙を剥いた。

槍の突きをあえて見せ球にし、ドルネの防御の意識が上方へ向いた完璧な隙を突いて、その鋼のような足が強烈な前蹴りとなって彼女の腹部を捉えた。


ドガッ!!!


またしてもドルネの華奢な身体は木の葉のように吹き飛ばされ、今度は闘技場の分厚い外壁へと激しく激突した。激しい衝撃に壁がひび割れ、パラパラと乾いた砂屑が彼女の頭上に降り注ぐ。


――ギークの能力は、極めて単純明快である。


それは【錬成により召喚した槍の持つ固有の特性を、自身の身体能力として直接フィードバックし、使役することができる】というもの。

例えば、先ほどまで使用していた【ドラグーン】であれば、文字通り「龍の力」を肉体に下ろすことで、圧倒的な質量を誇るパワー、底知れぬ魔力、そして龍のブレスを模した放出技といった大火力を、人間のサイズに凝縮して使用できる。

そして今、彼が命を吹き込んだ槍は【ヴァルキュリア】。

すなわち、戦場を司る「戦神の槍」である。

ドラグーンが持っていたような破壊の暴風雨のごとき圧倒的パワーこそないものの、この槍の特性は、使用者の基礎身体能力そのものを肉体の限界を超えて数段階引き上げるという、純粋かつ凶悪な自己強化バフ

これだけならば単純な強化魔法と変わらないが、ここに「ギーク自身の天性の頑強な肉体」と「神がかった戦闘センス」が完全に噛み合うことで、その相乗効果はドラグーン以上の爆発的な性能を引き出すこととなる。

粗削りだった獣の武が、戦神の洗練された技巧と速度を手に入れたのだ。

それが今、剣聖ドルネを完全に圧倒するという、凄まじい猛威となって牙を剥く。


ドルネ(……ほんっと……嫌になるわね……。適当にあしらってさっさと城に向かうつもりだったけど……ムカつく……!)

崩落した瓦礫の隙間から這い上がりながら、ドルネは自身の内奥から底知れぬ魔力を引き出し、激しく練り上げていく。

目の前の男の身体能力は、先ほどとは比べ物にならないほど飛躍的に向上している。

ならば、先ほどまでの「見えない速度」程度では、もう相手を上回ることはおろか、かすり傷一つ負わせることもできない。

戦神の領域に達したギークを捩じ伏せるためには、自分自身が彼と同等、あるいはそれ以上の領域に狂い咲かねばならないことを、彼女の天才的な戦闘本能が冷酷に理解していた。

ドルネ「認めるわ……。あなたは強い。それも、とてつもなくね」

深く、どこまでも冷たい吐息と共に、ドルネは真っ直ぐにギークを見据える。

ギーク「はんっ。いきなり殊勝な態度でどうした、おい? 負けるのが怖くなって、今更命乞いでも始めんのか?」

ドルネ「馬鹿言わないで。強い相手には、相応の敬意(対応)を払わなければならないと言っているの。……私自身、この戦い方はあまりに趣味が悪くて好きじゃないから、普段は絶対にやらなかったんだけどね……!」


ドルネが練り上げる魔力は、いつの間にか彼女の華奢な体表を、悍ましいほどの密度を持った「深紅の光線」として覆い尽くしていた。

その姿は、硝煙と血煙の戦場に突如として咲き誇った、ひとひらの巨大な薔薇。

棘のように鋭く刺々しく、それでいてどこか帝国の高貴さを体現するような、気品溢れる高圧的な魔力が闘技場をメキメキと圧迫していく。

ドルネ「あなたが能力を向上させたなら、私はそれを遥かに上回る力で、ただ上からねじ伏せればいいだけのこと。……わかる?」

ギーク「――へっ。できるもんなら、やってみなッ!!」

不敵に笑い返すギークだったが、その双眸はかつてないほど鋭く細められていた。

天性の直感が告げている。

次の瞬間に始まる打ち合いは、これまでとは次元の違う、一歩でも踏み外せば即座に肉体を細切れにされる「真の命の削り合い」になると。

ギークは銀槍【ヴァルキュリア】を両手で固く構え、戦神の圧を最大まで高めてその瞬間ときを待った。

ドルネ「――【聖薔薇の抱擁アンブラッセ・ロザリア】」

ドルネの唇からその名が紡がれた瞬間、世界の時が止まった。

視界のすべて、闘技場全体の空間そのものが、ドルネが放った深紅の魔力の支配下に置かれる。


――いや、それは視覚的な錯覚ではない。

ギークが動こうとしたまさにその刹那。


ザシュッ……!!!


ギークの左肩から、まるで薔薇の赤い花びらが鮮やかに舞い散るかのように、一本の深い斬線と共に赤い鮮血が勢いよく噴き上がっていた。

ギーク「――がはっ!?」

迫り来るドルネの姿はまだ、彼の遥か正面。細剣も突き出されてはいない。

にもかかわらず、彼の肉体は確かに、見えない「薔薇の棘」に抱擁されるようにして切り裂かれていた。


ギーク(見えなかった……いや……あいつは動いたのか!? それすらもわからねぇ……!)

肩の深い傷から溢れ出る熱い血を、盛り上がった筋肉で強引に止血しながら、ギークの頭脳が急速に回転する。

ヴァルキュリアの能力を引き出し、肉体の限界を超えた知覚の領域にいるというのに、それでもなお反応することすら許されない攻撃。そんな理不尽がこの世にあっていいはずがない。

何が起きた。

どうやって、自分は傷をつけられた。

ギークの脳内で幾重にも仮説が重なっていくが、決定的な答えだけは一向に出口を見出さない。

だが――複雑な迷路に迷い込みかけたその瞬間、ギークの脳は、彼らしい極限の単純さへと至る。

ギーク(――あぁクソ、考えてわかんねぇなら、考えるだけ時間の無駄だろォがッ!!!)

理屈も種明かしも知ったことか。敵が何をしてこようが、それ以上の速度と威力で、その大元を叩き潰せば終わる話だ。


ドゴオオオン!!!!


ギークが足元の地面を文字通り爆発させるようにして抉ったのと、銀槍【ヴァルキュリア】の切っ先がドルネの眼前にまで迫ったのは、完全に「同時」であった。

超神速を超えた戦神の一突き。ドルネの美しい眼球が、迫り来る銀の刃をまるでスローモーションの映像のように捉える。

しかし――。


ズガガアアアン!!!!


完璧なタイミングで放たれたはずの必殺の切っ先は、ドルネの肉体に触れることなく、彼女が「いた」位置の空間を激しく破壊し、新たな瓦礫の山を生み出すだけに終わった。

ギーク(……チッ! この速度の突きを避けた……? ――いや、違うな。避けたんじゃねえ、最初からそこにいなかったかのような……)

その奇妙な違和感に脳が警報を鳴らした瞬間、ギークの天性の野生の直感が、その場からの即座の超後退(回避)を強く促した。

コンマ一秒の躊躇もなく、ギークが真後ろへと地を蹴る。

その直後、今しがたギークが突進の起点にしていた「その位置」に向かって、先ほどと同じあの視認不可能な不可視の斬撃が、容赦なく空間ごと叩き込まれた。


ズパアアアーーーン!!!!


耳を劈くような激しい空間の破裂音。

大気を鋭く引き裂いた見えない棘の嵐によって、ギークが今しがた生み出したばかりの瓦礫の山が木っ端微塵に吹き飛び、闘技場に濃密な砂埃が激しく舞い上がった。

ドルネ「勘がいいのね……。それとも、それすらもその槍がもたらす『強化』なのかしら?」

勝ち気を含んだ艶やかな、しかし底冷えするような声がギークの耳を打つ。

その声の主は、闘技場の中央付近――ギークが先ほど超神速の突進を繰り出す直前に、立っていたまさにその場所から聞こえてきた。

ギーク(……完全な回避じゃねえ。あのクソアマ、転移に近い何かを使ってやがるな)

先ほどの一連の事象、自身の神速の突きを完璧に空振らされた理由を、ギークの直感は正確に「空間の跳躍(転移)」であると見抜いていた。

ドルネが放った膨大な深紅の魔力は、今や闘技場全体の隅々にまで霧散し、この空間そのものを完全に支配している。その霧散した魔力の領域内において、ドルネは自身の身体能力を爆発的に向上させるだけでなく、領域内のあらゆる任意の場所へと一瞬で転移し、そこから間髪入れずに不可視の追撃を放つという、極悪極まる空間支配の権能を得ていたのだ。

これこそが、剣聖ドルネが持ち得る中で最強にして最悪の奥の手。

この「聖薔薇の抱擁」の檻の中に囚われた者は皆、どこから迫るかもわからぬ不可視の回避と、どこから刻まれるかもわからぬ不可視の狂刃に、ただ絶望の中で切り刻まれるしかない。

ギーク「ちっ……めんどくせぇ真似しやがってッ!!」

理不尽な絶対優位を前にしてなお、ギークの闘志は毛ほども衰えてはいなかった。

彼は苛立ちを吐き捨てるように叫ぶと、ヴァルキュリアによって引き上げられた自身の身体能力の許容上限、肉体が悲鳴を上げるほどのトップスピードでドルネへと向かい、再度猛烈な突進を繰り出して銀の連撃を叩き込む。

だが、もちろんその渾身の猛攻すら、ドルネの肉体に届く前に空間の歪みへと消え去り、転移によって無慈悲に回避される。

しかし、ギークもただ黙って空振る男ではない。それを完全に読んだ上で、転移先と思われる空間へと瞬時に軸を転換、間髪入れずに同様の限界速度で二の矢、三の矢の突進を猛然と繰り出した。

ドルネ「ふふふ、無駄ね」

キィン、と空間が鳴るたびに、ドルネは幾度となく残像すら残さず転移を繰り返し、ギークの猛嵐のような強襲を文字通り「余裕」で回避していく。

翻弄されるギークの焦りを煽るかのように、空中から、あるいは死角から嘲笑う声を響かせながら、彼女はその華奢な腕で細剣を冷酷に振り抜いて反撃を放った。


ズパァアアン!!! ドゴォン!!!


その度に変革された大気が爆ぜるような凄まじい衝撃音が轟き、闘技場の頑丈な床にはズタズタに深い亀裂が刻み込まれていく。ギークもヴァルキュリアの知覚で必死に応戦するものの、全方位から不意を突いて飛んでくる不可視の暴威をすべて防ぎきることは叶わず、鋭い一撃をその肉体に何度も深く喰らわされていた。

ギーク「はぁ……はぁ……っ!」

限界近い速度での連続突進による激しい疲労。そして、まともに受けた不可視の斬撃によるダメージが蓄積し、戦神の領域にあったはずのギークの動きが、目に見えて鈍り始める。

無論、傷を負うたびに内なる魔力による強制治癒を肉体に発動させてはいた。しかし、元から規格外の再生能力を持つリヒトとは違い、ギークのそれは肉体の超回復を魔力で強引に引き出す「消耗」を伴う技術だ。

傷が塞がるたびに、彼の残魔力とスタミナは確実に削り取られていく。

ギーク(クソが……攻撃が掠りもしねぇ。このままじゃ、ジリ貧で俺のガタが来るのが先だぞ……!)

時間の経過と共に、いかなる強敵をも力でねじ伏せてきたギークの胸中に、初めて「焦り」という名の冷たい泥が、じわりと支配を広げていった。

ドルネ「私にここまでの力を使わせたのよ。誇っていいことよ? ――そして、その誇りを抱いたまま、そこで無様に死に絶えなさい」

勝ち誇ったドルネの冷酷な宣告と同時に、空間の歪みがギークの直下に狂い咲く。


ギーク「だまりやがれクソアマがぁ!!!」

ギークは肺を焦がすような荒い呼吸のまま咆哮し、地を蹴ってその場から咄嗟に飛び退いた。一瞬の判断が生死を分ける超至近の回避。


ドゴオオオン!!!!


直後、彼がコンマ数秒前まで立っていた空間が、またしても基礎構造ごと粉々に破壊され、巨大なクレーターとなって陥没した。

だが、全身に瓦礫の破片を浴びながらも、ギークはその足を、前進の動きを止めることだけは決してしなかった。

ギーク(――待て。クソが、死にかけの脳みそを回せ……! こっちの攻撃は全部あの不愉快な転移でかわされる。だが、奴の攻撃は……歩くことも走ることもなく、俺との距離に関係なく、この空間そのものに直接影響を及ぼして仕掛けてきてやがる。なら、その攻撃が『発生する瞬間』に的さえ絞らせなきゃ、いくら神速だろうが見えない棘だろうが、俺にクリーンヒットするこたぁねえ。……だが、それは逆も同じことだ)

限界寸前の死線の中で、ギークの天性の戦闘直感は、ドルネの最強の術理ロジックのほとんど正解にまで辿り着いていた。

ドルネは最初から、その場を歩く一歩の動作すら見せていない。それはすなわち、彼女自身がわざわざ刀が届く間合いまで物理的な距離を詰める必要が、そもそも一切ないということの証明だ。

自身の深紅の魔力が霧散し、完全に支配下においたこの闘技場内であれば、彼女にとっては「ギークの現在地」さえ認識できていれば、どこにでも神の如き速度で必殺の棘を顕現させることができる。

逆に言えば――彼女はギークの「位置」を視覚か、あるいは魔力感知の網で完全に捉えてから、攻撃の座標を決定しているのだ。


ドルネ「あはははは!!! いいわ、いいわよ! そうやって、うさぎのように惨めに駆けずり回りなさいな! ――まぁ、その無駄な体力が尽き果てる方が、圧倒的に先でしょうけどねえ!?」


闘技場の崩落音に混じって、狂気を帯びたドルネの高笑いが響き渡る。

完全に悦に入った剣聖は、もはや絶対的な安全圏から獲物を追い詰める冷酷な狩人の如き歪んだ笑顔を浮かべ、細剣【ヴェル・ロザリア】の切っ先を指揮棒のように軽く振るうだけで、一方的に破滅の狙いを定めて攻撃を放ち続けていた。

その度に見えない棘が空間を爆砕し、強固な闘技場が、観客席が、基礎の柱が、飴細工のように次々と崩れ、抉れ、ただの白い砂塵へと帰していく。

もはやこの広大な闘技場の内部には、ギークが身を隠せる遮蔽物も、息を整えるための安全な場所も、物理的にただの一箇所すら残されてはいなかったのである。

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