奥伝・紅桜 ―依代の少女と花の散るらむ―
飛鳥「……かっ……ぐっ……!」
最後の一太刀――積み上げてきた「流れ」のすべてを叩きつけるはずのその一振りが、振り下ろせない。
極限まで酷使された筋肉が悲鳴を上げ、神経が焼き切れたかのように硬直する。
限界を超えて引き出し続けた力が、皮肉にも彼女自身の身体を「檻」に変えていた。
ロック「見事な動きであった……が!」
その刹那の「停止」を、拳聖が見逃すはずもなかった。
ロックは褒め称えると同時に、身体を半歩引き、巨木のように深く腰を落とす。
右拳がゆっくりと、だが地鳴りを伴うような重圧と共に後ろへ引かれた。
ロック「戦場において、己が力量以上の力を使うとは言語道断ッ! 制御できぬ力は、ただの自滅へと至る道よ!」
それは慈悲か、あるいは冷徹な教育か。
喝を入れんばかりの叫びと共に、溜められた右拳が放たれる。防御姿勢はおろか、回避の機動力さえ失った飛鳥の無防備な胴体へ、その「金剛」の拳が真っ直ぐに叩き込まれた。
ドォォォォォンッ!!!
飛鳥「あ……っ……!!」
肺の中の空気がすべて強制的に押し出され、背骨が砕けるような衝撃が全身を突き抜ける。飛鳥の身体は二度目となる砲弾のような軌道を描き、広場の石畳を激しく削りながら吹き飛んだ。
飛鳥(……私は……まだっ……まだ……終われない……!)
もし、これが義洞の家にいた頃の自分であったなら。もし、ジャッカルの仲間たちと出会う前の自分であったなら、間違いなく今の一撃で意識は永遠の闇に沈んでいただろう。
だが、死の淵で彼女を繋ぎ止めたのは、皮肉にもロックが放った凄まじい衝撃そのものだった。激痛が「動かない身体」を無理やり覚醒させたのだ。
空中で舞う意識の糸を必死に手繰り寄せ、飛鳥は玄武の鞘を支えにして器用に受け身を取る。
ズザザザザッ!!!
石畳に火花を散らしながら、飛鳥は膝をつき、血を吐き出しながらも【玄武】を杖にして立ち上がった。
震える両足を踏ん張り、再び、折れぬ意志を宿した瞳で刀を構える。
ロック「今のでのびておれば、楽であったろうに……」
そのしぶとさを、ロックは追撃の構えを解かぬまま称賛の眼差しで見つめる。
もはやそこに「小娘」への憐憫はない。目の前にいるのは、何度踏み潰されても立ち上がる、ジャッカルの立派な一戦士であった。
飛鳥(次に放てる技が……最後ね。玄武……お願い……力を……貸して……!)
視界が赤く染まる中、飛鳥は自身の魂を削り出すようにして、残された在らん限りの闘志を絞り出す。未熟で、だが純粋な魔力が【玄武】の刀身へと流れ込み、深い同調を求めて叫ぶ。
玄武もまた、主の最期の覚悟に応えるべく、その刀身に纏わせた薄い橙の輝きを、徐々に、夕焼けよりも深く、濃い「命の色」へと変えていく。
飛鳥(型は……なぞった。何度も……何度も……何度も……!)
その瞳は、もはや目前の拳聖を捉えてはいなかった。
彼女の視界に映るのは、ありし日の屋敷の静謐な空気、そしてあの日、伝説の域にある兄・宗光がリヒトを相手に披露した、この世のものとは思えぬ神速の絶技。
一挙手一投足、呼吸の深さ、筋肉の弛緩。
そのすべてを、彼女は魂の深淵に刻み込んでいた。
飛鳥(思い出して……真似る。すべてを……再現する……!)
先ほどの流桜すら「余興」に思えるほどの、異様な集中状態。
飛鳥はゆっくりと、震える手で【玄武】を鞘へと納めた。身体の至る所から、そして口端から絶えず溢れ出す鮮血が、溢れ出た濃密な魔力と混ざり合う。それは不気味なほど美しい、薄紅色の霧となって飛鳥の周囲を包み込んだ。
そして――飛鳥の目から、人としての色が消えた。
今の彼女は、ただの「刃」であり、兄の残像をこの世に繋ぎ止めるための「依代」であった。
宗光の影を纏った飛鳥「……弐科……奥伝……紅桜・蕾・咲初……!」
ロック「これは……!?」
拳聖の直感が、かつてない死の予兆を告げた。
目の前の娘が何をしたのか
――それを脳が処理し終えるより早く、ロックの視界は鮮烈な「紅」へと塗り潰された。
刹那、一陣の風も吹かぬ静寂の中で、ロックの屈強な胸元に一条の深い刀傷が刻み込まれる。だが、それは地獄の幕開けに過ぎなかった。
宗光の影を纏った飛鳥「……五分……七分咲き……!」
その呟きを合図に、広場の空間そのものが「無数の刃」へと変貌を遂げた。
飛鳥の姿は消失し、ただ紅い閃光が、ロックを包囲する絶望の檻となって荒れ狂う。
全方位、全角度、死角という死角から放たれる超高速の抜刀斬撃。
一撃が放たれた瞬間に、次の一撃が別の角度から肉を裂く。
ロック「ぐぬぅ……うぉぉぉっ!!!」
ロックは回避という選択肢を捨て、肺が破れんばかりの雄叫びを上げた。
全身の魔力を一点に集中し、皮膚をダイヤモンドをも凌ぐ硬度へと変質させる。
だが、飛鳥の執念が、兄の技の再現が、その「金剛」を紙一枚ずつ削り取るように確実に喰らい尽くしていく。
広場は、舞い散る血と、咲き誇る紅色の斬撃の花弁によって、この世で最も美しく残酷な「庭園」へと変えていく。
キィィィィィィンッ!
広場を埋め尽くす高音は、もはや悲鳴を通り越し、空間そのものが削り取られる断末魔のようであった。
ロック(……硬度を上げてもなお、刻まれるか。なんという、理外の刀技……!)
防御を固め、嵐の中に耐える巨木のごとく立ち尽くすロックは、戦慄を通り越して、眼前の少女が到達した境地に畏怖すら抱いていた。
どれほど筋肉を「金剛」へと変質させようとも、その微かな隙間を縫い、あるいはその硬度を真っ向から力でねじ伏せるように、全方位から容赦なき斬撃が叩き込まれる。
そして、ロックの周囲に浮かぶ「血の蕾」が、不気味なほどに紅く、濃く、膨れ上がっていく。
それらが渦巻き、開花の瞬間を待つ。
ロックはその光景を前に、自身の本能が最大級の警鐘を鳴らすのを聞いた。
――来る。すべてを散らす「満開」が。
宗光の影を纏った飛鳥「……満開……桜花、爛漫(おうか、らんまん)!!!」
飛鳥の喉から放たれたのは、少女の面影を一切排した、魂の咆哮。
その瞬間、ロックを包囲していた無数の血の蕾が一斉に爆ぜ、狂い咲いた。
――刹那、世界は「紅」に塗り潰された。
視界を埋め尽くすのは、空を覆い尽くすほどの、あまりに美しく、あまりに凄惨な「桜の花びら」。
だが、それは春の訪れを告げる風花ではない。一枚一枚が、触れれば肉を削ぎ、骨を断つ、絶対的な密度を持った魔力の「極薄刃」。
全方位。全角度。上下左右、死角という概念すら存在しない、全次元からの飽和攻撃。
吹雪のように舞い踊る紅き刃の花弁が、ロックの強靭な肉体を、鋼の意志を、慈悲なく切り裂き、蹂躙していく。
ロック「おぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
ロックの絶叫が、桜吹雪の轟音にかき消される。
帝国の巨壁として君臨し続けた男の身体から、夥しい血飛沫が「花」と同化するように舞い上がり、広場は真紅の幻想に包まれた。
――チィン。
その音は、あまりに小さく、あまりに静かだった。
だが、騒乱の極致にあった広場の空気を、冷徹な一太刀が断ち切ったかのように凍りつかせた。
飛鳥(……この技は、残心までが……技。納めるまでが……私の戦い……!)
視界はもはや、自身の血で赤く染まり、焦点すら合っていない。
腕は千切れそうなほど震え、膝は今にも崩れ落ちようとしている。だが、飛鳥は自身の魂に最後の一喝を入れた。消え入りそうな気力の糸を、ただ「鞘に納める」という一点のみに結びつける。
震える指先が、鞘の口を探り当てる。
一寸の狂いもなく、玄武の刃が鞘へと滑り込んだ。
飛鳥「……残心……解放……【花の散るらむ】」
刹那。
ロックを包囲していた「紅き幻想」が、物理的な衝撃波を伴って一気に弾けた。
ロック「が、は……っあぁぁぁ!!!」
次の瞬間、ロックの強靭な肉体に刻まれていた数千、数万の斬創から、蓄積されていた破壊のエネルギーが文字通り爆発した。
ドッ、と噴き出した夥しい鮮血が、ロックを中心として見事な円を描き、重力を無視して空へと舞い上がる。
それは、満開の頂点を極めた桜が、非情な一陣の風によって一斉に命を散らしていく――残酷なまでに美しい、終焉の光景であった。
ドサッ……!
全ての音が、その一瞬に消え去った。
広場に響いたのは、重い肉体が石畳に沈む、ただ一度きりの音。
帝国の兵士も、ジャッカルの兵士も。
剣を交えることさえ忘れ、血の海の中で繰り広げられた、人と神の領域の境界線にあるような決着を、ただ呆然と、固唾を呑んで見守っていた。
舞い上がる血の霧が、ゆっくりと雨のように降り注ぐ。
静まり返った広場の中心。
勝負は、決した。
だが、非情にも石畳にその身を沈めていたのは、全霊を捧げた飛鳥の方であった。
ジャッカル兵「飛鳥様!!!」
悲痛な叫びと共に、数名の兵士が武器を投げ打つようにして彼女の元へ駆け寄る。
目も当てられぬ惨状だった。全身の毛細血管が破裂したかのように夥しい血に染まり、限界を超えて振るわれた四肢の筋は伸びきり、もはや指先一つ動かす力も残っていない。浅く、途切れ途切れの呼吸。心臓が動いていることさえ、奇跡と呼ぶほかない重傷であった。
その時、血の霧の向こう側で、地を這うような呻き声が響いた。
ロック「……ぐっ……がはっ……!!」
そこには、数千の斬撃を浴び、深紅に染まったロックがいた。
だが、彼は倒れてはいなかった。片膝をつき、肩を激しく上下させながらも、その鋭い眼光は失われることなく、確かに自我を保っていたのである。
ロック(なんという技よ……。魔力による防御を最大に張っておらねば、間違いなく死んでおったわ……)
拳聖に「死」を明確に予感させた、一介の少女の絶技。
それは、本来ならば誇って然るべき勝利の条件を満たしていた。相手がロックでなければ、その首はとうに広場の石畳を転がっていただろう。だが、この男――帝国最強の一角であるロックという怪物の底は、飛鳥の命の燃焼を持ってしてもなお、届ききらなかった。
ロック(……魔力による自己修復、まだ補える範疇よ。失われた血液は戻らんが、四肢は……まだ、戦えるのう……ッ!)
ミシミシと音を立てて、ロックの肉体が不気味に震える。
恐るべきは、長年の鍛錬によって磨き上げられたその肉体そのものだ。元来の頑強さもさることながら、流し込まれた魔力が傷口を焼き塞ぎ、千切れた組織を強引に繋ぎ合わせていく。
飛鳥の全霊を込めた奥義「紅桜」を真正面から受けてなお、絶命することなく、あろうことか戦線に復帰しようとするその執念。
立ち上がろうとする拳聖の巨躯は、介抱される飛鳥を守ろうとするジャッカルの兵士たちに、底知れぬ絶望と恐怖を植え付けるには十分すぎる光景であった。
ロック「さて……意識を失っているとはいえ、敵将なことに変わりはない。ここまで死闘を演じたよしみ、ワシも本意ではないが……これは戦。すまないがその命、消させてもらうとするぞ」
一歩、また一歩。
重厚な足音が、静まり返った広場に死の宣告のように響く。ゆっくりと立ち上がり、血に染まった飛鳥の方へと歩き出すロック。
その言葉には、己をここまで追い込んだ少女への、純粋な敬意と、それゆえに戦士として引導を渡さねばならないという、残酷なまでの「職務への誠実さ」が宿っていた。
ジャッカル兵「飛鳥様はやらせないっ!」
ジャッカル兵「退け! 俺たちが相手だ!!」
飛鳥の前に、ボロボロになった数名の兵士たちが立ちはだかる。
彼らが握る剣は激しく震え、その瞳には隠しようのない恐怖が張り付いていた。まともに戦って勝てる相手ではないことなど、誰の目にも明らかだった。
ロック「覚悟は見事。だが、未熟!!」
ベキッ!!
バキバキッッ!!
――蹂躙。
それは戦闘ですらなかった。振り下ろされる拳聖の剛腕は、立ちはだかる兵士たちの防具ごと骨を砕き、命の火を無造作に吹き消していく。
その後も、飛鳥の元へ向かう歩みを止めようと数名が死に物狂いで立ち向かうが、同じように無慈悲に殴殺され、石畳の上に累々と死体の山が築かれていく。
誰一人として、ロックの歩みを止めることはできない。
ついに、ロックは物言わぬ飛鳥の目の前へと辿り着いた。
彼はゆっくりと、自身の右拳に魔力を込める。
その拳から漏れ出る黄金の光は、もはや飛鳥を「試す」ためのものではない。今度こそ、確実にこの世から彼女という存在を消し去るための、絶対的な殺意。
ロック「……さらばだ、若き武人よ」
死の拳が振り上げられる。
もはや、彼女を守る壁はどこにも存在しなかった。




