循環の理(ことわり) ―真円を描く薄橙の閃光―
飛鳥(まずは時間を稼ぐため、科戸風で私自身を強化する。そこから届かなくても構わない……全力で流桜を叩き込む!)
民家の戸を爆風のごとき勢いで蹴り飛ばし、少女は再び地獄の戦場へとその身を投じた。
幸いにも、拳聖ロックは手応えのあった一撃のあと、すでに他の獲物へと意識を移し背を向けていた。
反応が数瞬遅れたその隙――戦場において生死を分かつ「刹那」を、今の飛鳥は見逃さない。
飛鳥「陸式……科戸風!!」
体内の淀みを一切合切吹き散らすような、苛烈な突風が吹き抜ける。身体強化の術理により、飛鳥の脚力は物理的な限界を遥かに超えた。一陣の風と化した彼女は、瞬く間に十数メートルの距離をゼロにし、ロックの無防備な背後へと肉薄する。
ロック「むっ……!? いつの間に……!?」
拳聖が驚愕と共に振り返るよりも早く、飛鳥は全身のバネを使い、天に届かんばかりの勢いで刀を振りかぶっていた。橙の光を纏った玄武が、大気を切り裂き唸りを上げる。
飛鳥「漆式……! 空閃!!!」
キィィィン!!!!!
放たれたのは、音速の壁を突破する神速の一閃。
それはロックの強靭な肉体に、初めて確かな「傷」を刻み込むと同時に、その斬撃の余波は止まることなく前方の広場を直撃した。
ズドーーーン!!!!
広場の中央に鎮座していた巨大な噴水が、まるで巨大な刃で断たれたかのように水平に分断され、轟音と共に崩落した。噴き上がっていた水が、爆散した石礫と共に豪雨となって戦場に降り注ぐ。
あまりに理不尽な破壊の奔流。
その衝撃に、戦っていたジャッカルと帝国の両兵士たちは、何が起きたのかさえ理解できぬまま巻き込まれ、広場は一瞬にして深い混乱と水飛沫に包み込まれた。
ロック「ぐっ……今のは……効くのぅ……」
背中を横一文字に斬られ、ロックの口から苦悶の声が漏れる。だが、その表情にはどこか悦びさえ混じっていた。
飛鳥は、握る玄武から伝わる確かな手応えに戦慄する。確実に、渾身の一撃を叩き込んだはずだった。
しかし、それでもなお、この怪物の余裕を完全に奪い去るには至っていない。向き直った拳聖の巨体は、いまだ山のように重く、広場に君臨していた。
だが、飛鳥の心はもう折れない。それすらも、彼女は覚悟の内に組み込んでいた。
飛鳥「伍式……」
次なる技へ。
思考を止めることなく、彼女はさらに深く意識を研ぎ澄ます。その静謐な気迫を前に、ロックは目を細め、驚嘆の声を上げた。
ロック「この短い間に……また成長したのか!? 驚いた。ワシの目に狂いはなかったということか……!」
ロックは心の底から驚いていた。
先ほど瓦礫の奥へと吹き飛ばした少女。あの刹那、彼女の瞳からは確かに闘志の灯が消え、折れた心が見て取れた。だからこそ、もう相手にする価値はないと判断し、背を向けたのだ。
だというのに、彼女は再び立ち上がった。それも、単なる虚勢ではない。今の彼女の瞳には、先ほどまでにはなかった、昏くも熱い、一点の曇りもない闘気が宿っている。
ロック「やれやれ……若者の成長とは、見ていて楽しくなるもの。だが、お主はワシから見れば、帝国に害を成す明白な敵。ゆえに、老骨の楽しみよりも職務を優先せねばなるまい……ここで、確実に潰させてもらうぞ」
――ドォォォォンッ!!
ロックが両の拳を体の前で打ち鳴らす。
その衝撃波だけで、周囲に降り注いでいた噴水の水飛沫が霧散した。この場に現れてから初めて、ロックがその内にある膨大な魔力を「練り」始めたのだ。
それは、目の前の少女を一介の小娘ではなく、帝国を揺るがし得る脅威――一人の「戦士」として正しく認めた証左であった。
飛鳥「――流桜!」
短く、鋭い呟きと共に飛鳥が弾ける。
上段からの振り下ろし、下段からの掬い上げ、変幻自在の横薙ぎ。
流れる水の如く、それでいて激しい雷鳴を伴うような流麗な刀技が、暴風となってロックを襲う。一太刀一太刀が命を断つべく、全霊を込めて放たれる。
しかし。
ロック「ぬぅ! おぉぉぉぉっ!!」
ロックはそのすべてを、あえて真っ向から受け止めた。
硬化させた腕、脚、胸。肉体の強度と技、そして練り上げられた魔力のぶつかり合い。
飛鳥の剣がロックの肌を捉えるたび、火花が散り、衝撃が広場を震わせる。
互いの意地と力が真っ向から衝突する第二幕。
水飛沫と魔力の光が交差する中で、飛鳥の「流桜」は、さらにその激しさを増していく。
飛鳥(止めるな……何度防がれても、止めちゃダメ!)
正確に、そして冷徹に自身の斬撃を弾き返されても、飛鳥の心は微塵も揺らがない。
【流桜】――それは、放たれる一太刀が次の太刀の助走となり、連撃を重ねるごとに加速度的に速度と威力が増していく「循環」の刀技。
あの日、義洞の屋敷でリヒトを迎え撃った際、宗光が披露したあの流麗にして苛烈な剣閃。
飛鳥(兄上は……もっと速かった。もっと強く、もっと世界を切り裂くほどに大きかった!)
脳裏に焼き付いた兄の背中を、憧憬の残像を、狂おしいほどの集中力でトレースしていく。
呼吸は肺の隅々まで行き渡るほど深く、鋭くなり、瞳孔は極限まで開かれ世界をスローモーションへと変えていく。
脳が、肉体が、神経が。
そのすべてが「剣」という一点にのみ収束していく。口元からは、自我さえも剣技に捧げた証か、一筋のよだれが伝い落ちるが、彼女はそれすら気付かない。
次第に、飛鳥の刀筋は「線」から「面」へ、そして「光」へと昇華し、常人の目では視認不可能な領域へと達していった。
ロック(この技……さっきより、明らかに威力が上がっておる……!?)
受け続けるロックの表情に、余裕の笑みが消える。
当初、彼はその剛腕で難なく飛鳥の刃をいなし、軌道を逸らすことに成功していた。
だが、幾度となくその「流れ」を受け流しているうちに、彼は冷たい戦慄と共に一つの事実に直面した。
いなしたはずの攻撃が死んでいない。
逸らされた刃が、そのエネルギーを殺すことなく弧を描き、さらに増幅された威力となって次の一撃へと転じられているのだ。
ロック(ワシが受け流せば受け流すほど、この娘は威力を増していくのか……。なるほど、無駄のない身体の脱力、そして刀が描く真円の遠心力……。この二つが永劫に続くかのように連鎖しておるというわけか!)
長年、修羅の巷に身を置いてきた拳聖は、流桜の正体を正確に看過してみせた。
だが、正体が分かったからといって止められるものではない。
今の飛鳥は、止めることのできない「巨大な渦」そのもの。
一度その奔流に身を投じてしまったロックは、この美しき死の舞踊が終わるタイミングを見失い、ただなすがまま、増大し続ける飛鳥の「理」に付き合うほかになかった。
広場に響き渡るのは、もはや打撃音ではない。
金属と魔力が極限まで擦れ合い、空気を焼き尽くすような断続的な咆哮。
少女の放つ「流れ」が、帝国の巨壁をじわじわと削り取っていく。
ロック(……分かっておっても、止められなんだかッ!)
理屈は、その眼で捉えている。
次に刃がどの角度から、いかなる軌道で迫り来るかも、拳聖としての経験則から完璧に予読できている。
だというのに、それを物理的に阻止するための「予備動作」を取ることすら、この【流桜】の奔流は許さない。斬撃と斬撃の間に存在するはずのわずかな「継間」が、あまりに美しく、残酷に埋め尽くされているのだ。
それはかつて、リヒトが義洞の屋敷で宗光の刃を前にして味わった、逃げ場のない「完結した理」そのもの。
さらに、【玄武】の魔力と飛鳥自身の魂が混ざり合い、刀の持つ【身体強化】を引き出した現在の彼女は、自身の素質を飛び越えた「神域」の機動力へと到達していた。
しかし、それは紛れもなく、少女の命を削り、魂を燃焼させる諸刃の剣。
飛鳥の細い身体には、血管が破裂し骨が軋むほどの負荷がかかっている。
そもそも、先ほどロックに吹き飛ばされた際のダメージは、本来ならば立ち上がることすら不可能な致命傷に近い。
だが、戦地を包む熱気、仲間への渇望、そして「強くなる」という不変の決意。積み重なった執念が脳内の痛覚を麻痺させ、彼女をただの一本の「刃」として突き動かしていた。
極限の集中にある彼女は、自身の四肢がいつ千切れてもおかしくない悲鳴を上げていることにすら、もう気づいていない。
視認不可能な速度で繰り出される連撃。
鋼の肉体を誇るロックの肌には、一太刀、また一太刀と、鮮烈な朱が刻み込まれていく。
ーーそして、その時は唐突にやってくる。
飛鳥はこれまでの連撃で積み上げた遠心力のすべてを乗せ、一際深く、地面を砕くほどの踏み込みを見せた。
天を仰ぐような上段からの斬り下ろし。
ロックは、もはや思考を介さぬ反射で、頭上に自身の太い腕をクロスさせ、「金剛」の構えを取った。この一撃を凌ぎ、即座に反撃に転じる――拳聖の脳裏にはその青写真が描かれていた。
だが。
いつまで経っても、飛鳥の刀が振り下ろされる衝撃はやってこなかった。
静寂が、広場を支配する。
ロックが目を開くと、そこには極限の加速の果てに、まるで時間が凍りついたかのように立ち尽くす少女の姿があった。




