戦略的撤退(リトリート) ―境界線の外へ魔女を走らせろ―
メーガス「これである程度は片がつくでしょう。これで城への攻撃もしやすくなると思うんだけど……」
誇らしげに、あるいは退屈そうに言いかけたメーガスの言葉が、不自然に途切れた。
――パチン。
戦場の喧騒を切り裂くような、乾いた指鳴らしの音。
その音が響いた瞬間、王城を焼き尽くさんとしていた蒼い火柱が、まるで最初から存在しなかったかのように一瞬で霧散し、消え失せたのである。
メーガス「……!」
杖を持たぬ両手を広げたまま、メーガスが目を見開く。超位魔法をこれほど鮮やかに、かつ無造作に打ち消すなど、常理では考えられない。
この場に、メーガスが放った術の構造を一瞬で解き明かし、その術式を「外部」から瓦解させた者がいるということだ。
メーガス「……厄介なのが来たみたいね」
彼女が警戒を強め、低く呟く。
大陸広しといえど、これほどの芸当ができる者はそうはいない。だが、ここは帝国の心臓部たる王城。想定外の「何か」が潜んでいてもおかしくはない場所。
そして、魔法が消え去った後の不気味な静寂を切り裂くように、勝ち誇ったかのような声が響き渡った。
グァイス「ジャッカルの諸君。ここまで侵攻してくるとは、まったくもって驚きだよ」
悠然とした足取りで、立ち込める煙の向こうから姿を現したのは、帝国の頭脳――グァイス・オーレンであった。
彼は慌てる様子もなく、眼鏡の奥で知性を光らせながら、まるで自席で書類を眺めている時のような平然とした面持ちでルシウスとメーガスを見据えている。
グァイス「まずはここまでの侵攻、見事と言うほかあるまい。帝国の歴史は長いと言えど、この大結界を破られたのは、後にも先にも君たちが初めてだろう」
グァイスは両手を大げさに広げ、まるでおどけた舞台役者のように語りかける。
その余裕に満ちた仕草は、ここが戦場であることを忘れさせるほどに不気味だった。
ルシウス「それはどうも。……ついでに言わせてもらえば、そのままこの城も落として、君たちの傲慢な歴史を終わらせるつもりなんだけれど。構わないかな?」
ルシウスも負けじと声を張り上げ、鋭い視線で舌戦に応じる。軍師同士、言葉の刃を突き立て合う静かな激突が始まった。
グァイス「ふふふ……ふははは! 愉快だ。君たちは、ここがどこだか分かっていて言っているのかな? なぜ、結界を一枚剥がし、王城の庭園に足を踏み入れた程度で、勝てると踏んでいる?」
ルシウス「守りが手薄でね。どこからでも侵攻してくれと言われているようなものだ。僕たちはその親切な招待に乗ってあげているに過ぎない。その気になれば、この城など一撃で吹き飛ばせるんだよ?」
強気のブラフ。
だが、グァイスの反応はルシウスの予想とは異なるものだった。
グァイス「愚か者め……。できるものなら、やってみるといい」
グァイスは心の底から呆れたように、大仰に肩をすくめてみせた。
「何も分かっていないのだな」と言外に突きつけるその表情。王城が物理的に落とされることなど、微塵も懸念していないという確信に満ちた態度。
その様子を冷徹に観察していたルシウスは、背筋に走る確かな悪寒と共に核心を得た。
ルシウス(……こいつで間違いない。僕たちをあえて誘い込み、最も脆弱な場所で包囲する策……。底が知れないほど厄介な男だ)
グァイス「まあ、できないだろう。城を一撃で飛ばすとなれば相応の魔力消費が必要だ。そんな無駄な真似をすれば、残った兵は一人残らずゴミのように掃討されるだけだからな。……だが、そんなことはどうでもいい」
グァイスの口角が、吊り上がった。
グァイス「君たちは今、この状況がどういう状況か、まだ正しく理解できていないようだから教えてやろう。この盤面……君たちは、すでに『詰んで』いるのだよ」
にやりと、獲物を追い詰めた蜘蛛のような笑みを浮かべて告げる。
その言葉を聞いた瞬間、ルシウスとメーガスの顔に隠しきれない不快な色が浮かんだ。
支離滅裂な戯言か、あるいは自分たちには見えていない「何か」があるのか。目の前の男が何を根拠に勝利を確信しているのか、二人の知性をもってしても、その正体は依然として霧の中である。
ルシウス「追い込まれて気でも狂ったのか? この状況、どう見ても優勢は僕たちに思えるけど?」
ルシウスの声には確かなトゲがあった。
事実、メーガスが放った理外の超位魔法は帝国軍の陣容を根こそぎ焼き払い、そこにジャッカルの増援が加わったことで、この場における数的優位は完全にひっくり返っている。盤面を支配しているのは自分たちだ――その自負がルシウスにはあった。
しかし、その言葉を受けても、グァイスの態度は微塵も揺るがなかった。
グァイス「何度も同じことを言わせてくれるな。ここは帝国、それも帝都なのだぞ? ……いや、言葉で説いても理解は及ばぬか。ならば、直接その目に焼き付けてやった方が早そうだな」
グァイスは低く笑いながら、右手を静かに天へと掲げた。
その瞬間。
ルシウス「な……っ!?」
ルシウスの絶句と共に、王城の風景が一変した。王城を囲む堅牢な城壁、城の正門、さらには庭園の至る所にある石造りの彫像や通気口。
ありとあらゆる「隙間」から、まるで大地そのものが兵士を産み落としているかのように、帝国の軍勢が次々と湧き出してきたのである。
その数は、ジャッカルの兵士たちを数倍、数十倍の規模で飲み込むほどの圧倒的な物量。
庭園を埋め尽くす銀色の鎧の波は、まさに帝国の底力を象徴していた。
ルシウス「なっ……!? どこにこれだけの数が潜んでいたというんだ……!?」
メーガス「……チッ。いくら数を集めたところで、私が魔法を使えば同じことでしょ? 分かっていないのは、あんたたちの方じゃないのかしら?」
驚愕に目を見開くルシウスとは対照的に、メーガスは忌々しげに吐き捨て、その体内の膨大な魔力を再び練り始める。数で押してくるなら、その数ごと塵に帰すまで。彼女の論理は極めて単純だった。
しかし、それでもグァイスは余裕を崩さない。それどころか、眼鏡の奥の瞳に狂気じみた愉悦を宿し、あざ笑うように告げた。
グァイス「ふはははは! 魔法、か。……良いだろう、やってみろ!」
あえて隙を見せるような、剥き出しの挑発。
メーガス「――舐めるなッ!!」
メーガスは激情のままに腕を振り抜き、敵軍を薙ぎ払うべく中級魔法の構築を開始した。彼女にとって、この程度の魔法など瞬きをする間に完成するはずの「呼吸」にも等しい行為。
だが。
いつまで経っても、彼女の指先に魔法陣が結実することはなかった。
メーガス「……馬鹿な!?」
信じられないといった様子で、メーガスは何度も何度も手を前にかざす。だが、そのたびに練り上げたはずの魔力は虚空に霧散し、幾何学模様の陣は描かれるそばから崩れ落ちていく。
王城の庭園に、魔法の輝きは二度と灯らなかった。
グァイス「ふははははは!!!」
魔法を封じられ、狼狽するメーガスの姿を眺め、グァイスは腹の底から突き上げるような哄笑を上げた。
その笑い声は、王城の石壁に反響し、絶望の旋律となってジャッカルの兵士たちの心臓を震わせる。
グァイス「愚かな魔導士め! 貴様がなぜ、その自慢の指先から火の粉一つ出せぬのか……その理由、冥土の土産に教えてやろう」
グァイスは芝居がかった動作で、自身の背後にそびえ立つ壮麗な王城を指差した。
グァイス「この城の地下深くには、帝国の叡智と技術の結晶たる研究施設がある。そこでは日夜、あらゆる事象を支配するための『真理』が探求されているのだよ」
その言葉を聞いた瞬間、ルシウスの眉間が深く険しく歪んだ。かつて耳にしたことのある、帝国の暗部。
ルシウス「……まだ、あんな非道な実験を続けているのか!? 人道に悖る禁忌を犯してまで……!」
グァイス「さあな? 君たちに教える義理などどこにもない。……だが、成果は現にここにある」
メーガス「それがどうしたっていうのよ! 私が魔法を使えないのと、その気味の悪い施設に何の関係があるの!?」
焦燥を隠しきれないメーガスの怒声。
グァイスはそれを嗜めるように、低く笑いながら言葉を継いだ。
グァイス「馬鹿め。そう急くな。……魔導士に対抗するには魔法が有効、それは古より変わらぬ理だ。だが、魔力を持たぬ者、魔法を扱えぬ弱者はどう抵抗する? ただ震えて、無慈悲な法撃に命を散らすしかないのか?」
グァイスの口調は、まるで無知な教え子に問いかける教師のような、残酷な優しさに満ちていた。ルシウスとメーガスは唇を噛み締め、沈黙を貫く。
一言も聞き漏らすまいと、敵の言葉からわずかな情報の断片を拾い集めることに徹していた。
グァイス「答えは否。魔力がなく、魔法が使えぬのであれば、魔導士を――『自分たちと同じ土俵』に引きずり下ろせば良いのだよ」
メーガス「まさか……そんなことが……っ!?」
グァイス「ははは! 気付いたか! そうだ、この城を中心とした半径八百メートル。……ちょうど、君たちが景気良く吹き飛ばしてくれた、あの破壊された門のあたりまでが境界だ。この領域内において、大気中の魔力は完全に沈黙する。ゆえに、貴様はただの女だ。無力なのだよ、魔導士!!」
グァイスの宣告と共に、周囲の帝国兵たちが一斉に武器を鳴らした。
魔法という絶対的な「牙」を抜かれた魔女。そして、圧倒的な物量に包囲された軍師。
グァイスの計算通り、王城の庭園は、魔法が支配する戦場から「力と数」がすべてを決する原始的な屠殺場へと変貌を遂げていた。
ルシウス「まずいね……。やつの話が真実なら、僕も君も大した抵抗はできない」
ルシウスは自身の愛弓を握りしめた。
弦に指をかけても、そこにあるはずの魔力の胎動が一切感じられない。ただの弦を張った木に成り下がった武器。それは、この戦場において死を意味するのに近い。
メーガス「思念による連絡も無理ってことね……」
メーガスは忌々しげに、だが冷静に状況を分析する。
仲間との連携すら絶たれた「孤立」。
二人にとって魔力を封じられるのは、戦力の八割、あるいはそれ以上を喪失することに等しい。帝国の喉元まで迫ったはずの刃は、いまやその切っ先を自分たちの喉に向けられていた。
グァイス「ようやく理解してくれたかな? この場における君たちの立場というものを」
二人が完全に沈黙し、抗う術を失ったことを受け、グァイスは悦に浸るように、さらに声を弾ませる。
ルシウス「……だが、僕たちの仲間はまだ外にいる。彼らが増援として駆けつければ、ここからは純然たる質量同士の戦いだ! まだ僕たちに勝機は――」
グァイス「その仲間は、来ないぞ?」
ルシウスが希望を繋ぎ止めるように言い切るより先に、グァイスの冷徹な一言がその言葉を遮った。
ルシウス「……何を言っている?」
グァイス「君が期待している増援とは、あの広場にいる軍団のことだろう? それは来ない、と断言しているのだ」
ルシウス「……どういう意味だ」
ルシウスの心臓が、警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされる。今すぐこの場を駆け出し、飛鳥の安否を確認したいという衝動が全身を駆け巡った。
だが、包囲されたこの状況で動けば即座に蜂の巣にされる。彼はその衝動を理性の鎖で縛り付け、敵の言葉を促した。
グァイス「ふむ、どうせここで死ぬのだ。死にゆく者の慈悲として、他の仲間の状況を教えてやろう」
グァイスは愉快そうに細めた眼で、ジャッカルの各戦域の惨状を、まるで物語を読み上げるかのような淡々とした口調で語り始めた。
広場では四千の精鋭を半分以下にまで削り取られ、帝国の最高暴力、拳聖ロックの前に立たされている飛鳥。
次に闘技場、逃げ場のない円形舞台で、剣聖ドルネの猛攻に晒されているギーク。
最後に北塔跡地では終わりの見えない混戦の中、ルーグとリヒトが互いの実力を図るように戦い続けている現状。
グァイス「理解できたかな? どの戦線も、この場に増援を割く余裕など微塵もない。それどころか、今この瞬間にも、君たちの仲間が次々と命を散らしていてもおかしくはないのだよ」
語られる言葉は、ルシウスの精神を正確に削り取っていく。
増援が来るという前提で組み立てていた再起の策が、音を立てて崩れ去る。
戦域のすべてが「詰み」の方向へと加速している。ルシウスの脳裏に、かつてないほどの絶望の色が濃く漂い始めた。
ルシウス(仲間を散らせすぎたか……? いや、まだ希望を捨てるべきじゃない。リヒトが敗北を認めない限り、僕たちが先に膝をつくことなんて許されない。まずは飛鳥の元へ合流する。そうすれば、戦線は必ず繋ぎ直せるはずだ……!)
敵軍師グァイスから突きつけられた、全戦域における絶望的な戦況。もはやこれ以上事態が悪化することは想定しにくい。ならば、どん底まで落ちた現状をあとは這い上がるだけだ。ルシウスの瞳に、軍師としての冷徹な輝きが戻る。
思考を切り替え、この包囲網から一人でも多くの兵士を逃がすための最適解を導き出す。
ルシウス(やつはさっき、魔法無効のエリアは『メーガス様が破壊した門まで』だと言った。なら、最優先事項はメーガス様をその境界線の外へ逃がすこと。彼女さえ自由になれば、この質量差をひっくり返す魔法が再び使えるようになる!)
メーガスの「牙」さえ取り戻せれば、戦況は五分にまで持ち直せる。ルシウスは迷いを断ち切り、全軍へ向けて腹の底から声を張り上げた。
ルシウス「ジャッカルの全兵士に告ぐ! 直ちにこの場を放棄せよ! 破壊された第一城門まで後退開始! これは再起を図るための戦略的撤退だ! 決して、敗北ではない!!」
その号令は、包囲され動揺していた兵士たちの心に一本の芯を通した。
ジャッカル兵「うおおおお!!!!」
ジャッカル兵「了解!! 引くな、押し返せ!!」
ジャッカル兵「どけ! 帝国兵!! 道を空けろ!!!」
士気を取り戻したジャッカルの兵士たちは、互いの背を守り合いながら、ゆっくり、だが確実な足取りで城門を目指して動き始めた。盾を並べ、数に勝る帝国兵の刺突を凌ぎながら、一歩ずつ「魔法の通じる領域」へと距離を詰めていく。
グァイス「ふっ……。見苦しい最後の足掻きだな。どうせすぐに終わる結末に変わりはないというのに」
グァイスもまた、ルシウスの狙いが単なる逃走ではなく、再起のための布石であることに気づいていた。
だが、彼はその芽すらも完膚なきまでに摘み取るべく、冷酷な殲滅命令を下す。
グァイス「逃がすな。この帝国に楯突いた不敬の徒に、身の程というものを教えてやれ。全軍、突撃! 門に辿り着く前に、その首をすべて狩り取れ!」
グァイスの号令と共に、帝国兵たちが地響きを立てて突進を開始した。
背後の城門へ向けて血路を切り拓くジャッカルと、それを逃がさず喰らい尽くさんとする帝国の物量。
魔法という絶対的な力が失われた沈黙の庭園で、いま、剥き出しの鉄と意志が激突する肉弾戦が幕を開けた。




