盤上の袋小路 ―拳聖ロック、天空からの強襲―
帝都の中央大通りは、いまや飛鳥にとって底なしの泥濘と化していた。
前後左右、そして頭上。
逃げ場のない四面楚歌の状況下で、彼女は腰に携えた愛刀【玄武】の柄に、白くなるほど強く指をかけた。
飛鳥(……お願い、玄武。力を貸して……!)
この二ヶ月、メーガスに嫌というほど叩き込まれた魔力制御の神髄。玄武が秘める膨大な力と、飛鳥自身が持つ「義洞の血」がもたらす魔力。
この二つが完全に融和すれば、この絶望的な包囲網すら一閃で断ち切るポテンシャルが彼女にはある。
だが、現実は残酷だった。
飛鳥「くっ……ああっ!」
次々と肉薄してくる帝国兵を斬り伏せながら、自身の内側へと意識を沈めるのは至難を極めた。
これまではジャッカルの修練場という「守られた環境」だったからこそ、瞑想に近い集中が可能だったのだ。
今は、四方八方から飛来する矢、魔法、そして死に物狂いで突き出される槍の穂先。それらを回避し、迎撃し、味方に指示を飛ばしながら、体内の魔力回路を精緻に組み替える余裕など、どこにも残されていなかった。
飛鳥(集中できない……。魔力の流れが、戦場のノイズに掻き乱される……!)
本来の力を発揮できぬまま、飛鳥はただの「腕のいい剣士」として、圧倒的な物量の前に押し留められていた。
そして、グァイスの盤面はさらに容赦なく飛鳥を追い詰める。
左右からの広域魔法によって陣形がズタズタになり、ジャッカルの兵たちが防御に回ったその隙を見逃すほど、帝国軍は甘くなかった。
崩れた建物の影から、そして路地裏から、整然とした足取りで新たな影が這い出してきた
後方: 奇襲を仕掛けた精鋭六百。
左右: 新たに到着した増援、各一千。
前方: 退路を断つように立ちふさがる四百。
周囲の屋上: 絶え間なく詠唱を続ける魔法師団。
飛鳥「嘘、でしょ……?」
数分前まで保持していたはずの「数的有利」は、今や完全に消失していた。
四千のジャッカル兵は、帝都の迷路に巧みに分断され、包囲され、逆に「個」として狩られる側へと転落したのだ。
文字通り、飛鳥が率いる部隊は、巨大な「殺戮の檻」の中に閉じ込められていた。
ジャッカル兵「飛鳥様! 左翼が持ちません! このままでは……!」
ジャッカル兵「後方崩壊! 押されています!!」
悲鳴のような報告が飛び交う中、飛鳥は玄武を握りしめ、歯が折れんばかりに食いしばった。
自分がここで折れれば、この四千の命は露と消える。
飛鳥(ルシウス……これが、貴方の言っていた「一番しんどい役割」なのね……!)
絶望の淵で、飛鳥の瞳に宿る光が、これまでとは違う色――生存への執着を超えた、戦士の狂気を孕み始めていた。
絶体絶命の窮地に、戦場を切り裂く爽快な風が吹き抜けた。
???「苦戦していそうだね、お嬢さん! 手を貸すよ!」
快活な、それでいて絶対的な自信に満ちた声。
その言葉が届くのと同時に、飛鳥が最も懸念していた左翼の一角が激しく爆ぜた。帝国の増援数十人が、まるで巨人に薙ぎ払われたかのように宙を舞い、絶命する。
???「兄上……。この場から速やかに離脱するのではなかったのですか?」
???「まあ、いいじゃないか。この程度の数なら私もお前も、命を落とすなんてことはない! それに、弱きを助けずして何が一之瀬の刀だ!」
軽口を叩きながら、血路をこじ開けてジャッカルの隊列内部まで悠々と潜り込んできたのは、一之瀬斗真と深月の二人であった。
飛鳥「……だれ?」
飛鳥が驚愕に目を丸くする。数千の軍勢がひしめく乱戦の渦中を、まるで散歩でもするかのような足取りで踏破してきた二人の異質さに、言葉を失う。
斗真「名乗り遅れてすまないね。私は一之瀬斗真。一之瀬流剣術の当主代行だ。こっちは妹の深月」
紹介された深月は、剣を振るいながらも礼儀正しく、飛鳥に向けて小さく頭を下げた。
斗真「さて、自己紹介は早々に……。この状況、お嬢さん方のほう、かなり追い込まれていると見たけど!」
話しつつも、斗真の刀は止まらない。流れるような体捌きで帝国兵の槍を受け流し、その首を正確に刈り取っていく。あまりに華麗な刀運びと無駄のない体捌きに、飛鳥は一瞬、戦いの中であることを忘れそうになるほど見惚れてしまった。
飛鳥「え、ええ……。力を貸してくれると言うのなら、左右の増援を抑えてくれるとありがたいわ……!」
斗真「なるほど、挟撃にあっているということか。なら、お嬢さん。この状況、長引かせることに利はない。軍を一度、広場まで戻すことをおすすめするよ!」
飛鳥「広場まで……?」
斗真「このような大通り、それも市街地では軍が縦に長く伸びすぎる。挟む側は有利に展開できるけど、守る側は背後も薄くなり、陣形が乱れやすい。脆くなった箇所への増援も回しにくいしね。それに、あの魔導士軍団……自国の市街地を吹き飛ばすことも厭わないんだろう? いよいよここで戦う利点はないね」
飛鳥「な、なるほど……!」
圧倒的なまでの状況把握。
そして、実戦経験に裏打ちされた冷静な戦術提案。
飛鳥は内心で深々とお辞儀をしたい衝動に駆られたが、今は一刻を争う戦場だ。
彼女は即座に表情を引き締め、指揮官としての声を張り上げた。
飛鳥「全軍、後退を開始! 陣形を円陣に組み替え、中央広場まで下がるわ! 後方の敵を真っ先に排除して、退路を確保して!!」
斗真の助言を得た飛鳥の指示が、混乱していたジャッカル兵たちに一本の芯を通す。
彼女自身もまた、後退の障害となっている後方の精鋭部隊を殲滅すべく、玄武を握り直して最前線へと躍り出た。
斗真「左右の敵の牽制は私たちに任せるといい!広場までの後退を優先して君たちは動きな!」
深月「…兄上、私は右側に参ります。くれぐれも深手を負うなどということはないように。」
斗真「はははっ!あるわけ!ないだろう!!」
軽口を叩きながら二人は帝国兵を吹き飛ばし、消えていった。
飛鳥(死中に活…助かりそうね…)
などと安堵をこぼしながら自身も成すべきを成すために広場への道を突き進み始める。
どれほど、切り結んだだろうか。
ようやく目的の広場が見えてきた。
飛鳥を筆頭に広場にジャッカルの兵士が続々と集まる。
そして、飛鳥を中心として隊列を組み直し、東西南北、すべての方角から敵に対応できるよう陣形を組んだ。
更に、広域魔法に対抗し得るよう、防御結界を展開できるものも要所に組み込み、遠距離からの法撃に対応できるようにした。
だが…数が減り過ぎている。
戦場の指揮に不慣れとはいえ、当初四千も預かっていた兵士は度重なるグァイスの策により半数の二千にまで減らされていた。
この夥しいような減り方は飛鳥の精神を削るには充分すぎる数であり、斗真の助力を得たとはいえ、絶望するには充分だったのである。
飛鳥が自身の不甲斐なさに唇を噛み締め、その身を震わせていたのは、ほんの一瞬のことだった。
だが、戦場においてその一瞬は、死神が鎌を振るうには十分すぎる空白だった。
???「かかかっ! グァイス殿の読みは完璧であるな! 鼠どもめ、一箇所に集まれば、あとは潰すだけよ!!」
戦場の喧騒さえも塗り潰す、野太く豪快な笑い声が天から降り注ぐ。
ジャッカルの兵士たちが一斉に空を仰ぎ、迎撃の構えを取った。しかし、それはもはや「構え」にすらなっていなかった。
その影は、天空から一条の彗星の如き速度で、ジャッカルが誇る円陣の中央へと全力の拳を振り下ろしながら――文字通り『降ってきた』。
ドゴォォォォォォォォンッ!!!!!
爆弾が着弾したかのような凄まじい衝撃波が広場を襲った。
盾による強固な防御も、魔力による集団補強も、その「一撃」の前では紙細工に等しかった。陣形の中央にいた数十人の兵士たちが、叫ぶ暇もなく肉塊となって四散し、広場の石畳には巨大なクレーターが穿たれる。
飛鳥「ばかな……!? 陣の守りを貫通して、こんな……ッ!?」
円陣の中央、最も安全なはずの場所に位置していた飛鳥は、かろうじて刀【玄武】を盾にして直撃の余波を受け流した。だが、防ぎきれなかった衝撃波によって身体は木の葉のように吹き飛ばされ、陣から弾き出される形で地面を転がる。
飛鳥「……っ!」
立ち上がりざま、頬に走る熱い痛みを感じた。
指先で拭えば、そこには鮮血がついている。直撃を免れてなお、放たれた気圧だけで飛鳥の肌に浅くない傷を刻んでいたのだ。
そして、激しく立ち込める砂塵の中から、ゆっくりとその威容が姿を現した。
鍛え抜かれた、岩肌を思わせる見事なまでの肉体。
だが、その肉体の持ち主は決して若くはない。刻まれた皺と、場数を踏んだ者だけが纏う重圧。
帝国剣聖四席――拳聖、ロック・ハクライその人であった。
飛鳥「……だれ……?」
震える声を、玄武を構えることでどうにか押し殺し、飛鳥は問いかけた。
義洞の深奥で育った彼女にとって、外の世界はあまりに遠い場所だった。剣聖という単語こそ知識としてはあったが、目の前に降り立ったこの「暴力の化身」が、その一人であることを瞬時に結びつけるのは難しかった。
それほどまでに、ロックから放たれる気配は異様であり、生命としての格が違いすぎていた。
ロック「かかっ! ワシのことを知らぬ者もおるのだな! 愉快よ! ワシはロック・ハクライ! 剣聖の一人、四席――拳聖、ロックであるぞ!!」
剛毅な口上が広場に響き渡る。
その名が宣言された瞬間、飛鳥の表情が劇的に変わった。
飛鳥(この状況で……剣聖!? あり得ない……。なぜ、ここに……!)
飛鳥の頬を、冷たい汗が流れ落ちる。
勝てるはずがない。今の自分では、玄武の力を引き出し切れていない自分では、この男の一撃すら防ぎきることは叶わない。
ここが、自身の、そして預かった二千の命の運命の分岐点。
本能的な恐怖が叫んでいた。飛鳥は震える思考を必死に回し、わずかでも勝機――あるいは「生機」を繋ぐため、対話による時間稼ぎを選択した。
飛鳥「……剣聖が、なんでこんなところにいるの?」
それは、もっともな疑問であった。
攻守どちらの要ともなり得る帝国の武の頂点。結界が破られ、王城が直接狙われているこの緊急事態において、剣聖は城壁を守る「盾」として機能するのが道理だ。
だが、目の前の男は王城を守備するどころか、獲物を求めて自ら戦場へ躍り出て、無慈悲な攻撃を仕掛けてみせた。
ロック「かかかっ! 理屈を問うか、小娘。戦に『当然』などという言葉は通用せぬ。ワシはここにおる。それが今の貴様らの『現実』よ!」
ロックは不敵に笑い、その巨大な拳をゆっくりと握り込んだ。ただそれだけの動作で、周囲の空気が重く、鋭く、ひび割れる。
飛鳥(お願い……玄武……早く……!)
対話の裏で、飛鳥は必死に魔力の回路を繋ごうとあがく。目の前の「絶望」を打ち破るための光を、その手に手繰り寄せるために。
飛鳥「なるほど……確かにそうね。聞き方を間違えたかもしれない。なら、何しにここに来た?」
精一杯、震える声を抑えて問いかける。
わずかでもいい、玄武と意識を通わせるための「時間」が欲しかった。
ロック「かかかっ……! グァイス殿がのう、『敵は必ずこの広場で再起を図るタイミングがある』と言っておってな。冗談だろうと思っておったが、まさにその通りであったわ。こうして貴様らと見えることができたのだからな!」
飛鳥「……私たちがここに来ると、読んでいたとでも?」
ロック「おうよ。現にそうであろうが。一箇所に集まってくれたおかげで、手間が省けたというものよ!」
飛鳥は内心の驚愕を隠せなかった。
確かに、王城までの進軍が順調すぎるとは思っていた。だが、そのすべてが帝国軍師・グァイスの盤上での出来事に過ぎなかった。さらに、斗真が提示した起死回生の策――「広場への集結」までもが敵に読まれており、あろうことかその終着点に帝国最大戦力である剣聖を配置していたのだ。
自身の考えつく平凡な兵法など、死線を潜り抜けてきた怪物たちの前では、児戯に等しい。
読み合いで勝つことは不可能。
知略で上回ることもできない。
ならば――。
飛鳥は玄武の柄を握る力を強めた。
飛鳥(……間に合った。お願い、玄武。私に力を!)
短い時間ではあったが、対話の裏で玄武との同調は、辛うじて「戦える」段階まで達していた。
飛鳥「なら、あなたを止めてみせる!!」
宣言と同時に、飛鳥の姿が掻き消えた。
玄武の魔力補助を受けたその踏み込みは、もはや人の領域を超え、一筋の光と化してロックの懐へと滑り込む。神速の一閃。
だが、しかし。
ロック「まだまだよのう!」
ロックは回避すらしない。いとも容易く、光の速さに達した刃を剥き出しの拳で弾き飛ばし、空いたもう片方の拳を飛鳥の鳩尾へ無慈悲に叩き込んだ。
飛鳥「……くっ……!?」
衝撃が全身を突き抜ける。だが飛鳥も、ただ打たれるだけの少女ではなかった。
拳が触れる刹那、彼女は反射的に全身の力を抜き、衝撃を受け流すための受け身の挙動に入った。
ドォンッ! と、鈍い衝撃音が広場に響く。
まともに食らえば即死もあり得た拳聖の一撃だったが、飛鳥の土壇場の判断が功を奏した。
拳は鳩尾に食い込みこそしたものの、致命的な破壊を生む前に彼女の身体を後方へと弾き飛ばすに留まったのだ。
飛鳥は石畳の上を激しく滑りながらも、刀を支えにして即座に立ち上がる。
ロック「ほう。今のを殺しきれなんだか。……なるほど、ただの小娘ではないようじゃな」
ロックが面白そうに目を細める。
絶望的な実力差。
だが、飛鳥の瞳からは、まだ光は消えていなかった。




