天上の傀儡師 ―悪魔が引く不可視の糸―
実況『さてさてさて!!!準決勝を行う前に!!!ここでシード枠の試合を挟むぞおおお!!!!!ここの勝者が決勝戦に立つ資格を得ることができる!!』
実況の絶叫に近いアナウンスに、闘技場のボルテージは最高潮へと跳ね上がる。
それもそのはずだ。
シード枠の一方に鎮座するのは、帝国の絶対的象徴であり、揺るぎない信頼を誇る剣聖
――【ドルネ・アシュリー】
その凛烈な美しさと、他の追随を許さぬ圧倒的な剣技。帝国に並ぶものなしと謳われる彼女は、事実ここまでのトーナメントを、汗一つかかず無傷で勝ち上がってきた。観衆の誰一人として彼女の敗北を想像できず、ただその華麗な「処刑」を拝むために目を輝かせている。
だが、その絶対強者たるドルネに対し、シード枠で刃を交える戦士。
一体どのような化け物であれば、彼女と同じ舞台に立つことを許されるのか。
人々の期待は膨らみ、もはや破裂寸前であった。
実況『さて、待たせたな!!!シード枠、ドルネ様に対して、刃を向ける戦士の名前だが……っちょ、これ本当かよ!?!?』
威勢よくまくし立てていた実況の声が、唐突に裏返った。
信じがたいものを見たかのように、困惑と驚愕が混じり合い、そのままマイクの音声がぷつりと途絶える。
会場を支配したのは、異様な静寂。
そして、その沈黙に耐えかねた観衆が、一斉に苛立ちのヤジを飛ばし始めた。
観客『なんだよ、おい!!!』
観客『いいところで止めんじゃねぇよ!!!』
観客『さっさと発表しろ! 誰なんだよ、ドルネ様の相手は!!!』
殺気立った怒号が渦巻く中、実況席ではスタッフが慌ただしく動き回っている。
魔力スクリーンに表示されるはずの対戦相手の名前。そこには、帝国の常識を揺るがすような名前が刻まれようとしている。
そしてそこからさらに数分が経過し、沈黙はもはや、闘技場の空気を物理的に重くさせるほどだった。
観客たちの不満は限界点を超え、椅子を蹴り飛ばす音や、警備兵に詰め寄る怒号が暴動の火種となって弾けようとしていた。
その瞬間――。
実況『待たせたなぁっ! 諸君!!!!!』
鼓膜を突き破るほどの咆哮がスピーカーから爆発した。
冷水を浴びせられたかのように、荒れ狂っていた群衆がピタリと動きを止める。
実況『この私も、この名前を見て取り乱してしまったが……事実に変わりはないようだ!!! ドルネ様と対戦する「大罪者」!! それは……これだぁぁぁっ!!!』
実況の絶叫と同時に、闘技場中央の巨大な魔力スクリーンに、鮮血のような赤で刻まれたその名が浮かび上がった。
【宗一郎・衛善】
その文字が網膜に飛び込んできた瞬間、数万人の観衆は、怒鳴ることも忘れて石像のように凍りついた。
観客『け、剣聖……!?』
観客『え……大罪者って……どういうことだよ……?』
観客『剣聖同士の戦い!? そんなの、あり得ねぇ……!』
会場を支配したのは、熱狂ではなく「理解不能」という名の混乱だった。
無理もない。
帝国において「剣聖」とは、国の平穏を守る守護神であり、民にとっては信仰の対象ですらある。その一角であるはずの宗一郎を、実況はあろうことか「大罪者」と断じたのだ。
それは帝国の歴史そのものを否定するに等しい、あってはならない暴言。
しかし、実況の声は震えながらも、さらに残酷な真実を紡ぎ出していく。
実況『詳しい内容は伏せられているが、宗一郎はあろうことか我ら剣聖が最高峰、ルーグ様に刃を向けるという国家反逆に等しい凶行に及んだようだ!! だがしかし、慈悲深きルーグ様はこの大会を勝ち抜くことさえできれば、その大罪を不問に付すと決められたのだぞ!!!』
その発表に、闘技場は再び激震した。
観客『そんな……あの宗一郎様が? 信じられねぇ……』
観客『……ルーグ様はどこまで寛大なんだ。反逆者にチャンスを与えるなんて』
観客『おい、これは……何かの演出なんだろ!? 剣聖同士を戦わせるための余興だよな!?』
現実を拒絶するように「演出」だと信じ込もうとする声も上がった。
だが、その期待は、直後に現れた光景によって無慈悲に打ち砕かれる。
先に姿を現したのは、ドルネ・アシュリーであった。
入場ゲートから毅然とした足取りで歩を進める彼女は、一点の曇りもない白銀の軽鎧を纏い、いつもの凛然とした美しさを湛えている。その姿はこれまでの試合と何ら変わらぬ「正義の象徴」であり、観衆は待ってましたとばかりに歓喜の叫びを上げた。
しかし、その歓声は、ドルネの数歩先に現れた「転移魔法陣」によって凍りつく。
魔法陣から吐き出されたのは、あまりに無惨な姿をした一人の男だった。
全身を幾重もの重い鎖で縛られ、手首と足首には魔力を抑制するための禍々しい枷が深く食い込んでいる。
衣服はボロボロに裂け、煤と埃にまみれ、かつて「剣聖」と呼ばれた頃の威厳は微塵も感じられない。
武器すら持たされず、ただ頭を垂れたまま、物言わぬ人形のように転送されてきた「囚人」――宗一郎。
観客『……うそだろ……』
観客『あれが……本当に宗一郎様なのか……?』
あまりに非人道的なその様相に、先ほどまで歓声を上げていた民衆さえもが絶句し、闘技場を支配したのは、吐き気がするほどの冷徹な沈黙であった。
ドルネ「……みじめなものね」
白銀の軽鎧を鳴らし、見下ろすような視線を向けるドルネ。その言葉には蔑みと、かつての同胞に対する拭いきれない複雑な感情が混じっていた。
しかし、投げかけられた言葉に対し、宗一郎は何も応えない。
反論はおろか、視線を合わせることすらしない。
ただ、冷たい石造りの床を凝視したまま、深い闇の底に沈んだかのように微動だにしなかった。
実況『……コホン。と、とにかく……! この試合の勝者が、決勝に駒を進めることができるルールだ! 宗一郎は現在、その鎖によって魔力やスキルの類を一切禁じられているが……まぁ、頑張れよ!』
実況の投げやりな鼓舞が、かえって残酷な事実を浮き彫りにする。
観客『魔力を完全に封じられてる……!?』
観客『そんなの、勝ち目なんて万に一つもねぇだろ……』
観客『さすがに鎖ぐらい解いてやらねぇと、勝負にすらならねぇぞ』
ざわめきはやがて、この試合の「本質」に気づき始めた者たちによって、どす黒い熱狂へと変質していく。
これは公平な決闘ではない。
帝国の威信を汚した反逆者に与えられる、公開処刑という名の「見せ物」なのだと。
観客『おい宗一郎! そんな姿で戦えるのかよ! 無理ならさっさと土下座でもしろ!』
観客『大罪者にはお似合いの罰だな! 汚れた体でドルネ様に触れるんじゃねぇぞ!』
観客『罰を耐えて、また剣聖に戻るつもりか!? 恥を知れ!』
闘技場に降り注ぐヤジは、鋭い礫となって宗一郎の心身を削っていく。
しかし、その罵声の嵐の中に身を置きながらも、宗一郎は地を見つめ続けていた。
魔力を封じられ、肉体を縛られ、誇りさえも土足で踏みにじられる。
その沈黙は、絶望ゆえか。あるいは、その奥底で静かに燃え続ける何かを隠すためか――。
実況『シード戦!!! 今、開始だっ!!!』
開始を告げる乾いた音が闘技場に鳴り響いた。
だが、その瞬間に閃光が走ることも、金属音が轟くこともなかった。
両者の距離は、合図の前と寸分違わず保たれたまま。
ただ、重苦しい沈黙の間隙を縫うように、低い声が交わされ始めた。
宗一郎「……斬らぬのか」
枷を嵌められたまま、宗一郎が掠れた声で問う。
ドルネ「ええ」
宗一郎「……慈悲のつもりか。それとも、縛られた者を斬る趣味はないと?」
ドルネ「そんな高潔なものじゃないわ……」
宗一郎「なれば……ルーグの指示か……」
ドルネは答えない。
しかし、そのわずかな沈黙は饒舌に肯定を物語っていた。宗一郎は深く、肺の底にある澱を吐き出すようにため息をつく。
宗一郎「ドルネ殿……お主はこの帝国……今の帝国に……何を見出す?」
ドルネ「何を……言っているのかしら」
宗一郎「……今の帝国は正しいと、本気で感じておるかと聞いているのだ」
顔を伏した状態から、宗一郎がゆっくりと面を上げた。乱れた前髪の隙間から覗くその眼は、光を失い虚ろでありながらも、射抜くような鋭さを宿してドルネを捉える。
ドルネ「……さあね。私は、今の生活が守れれば……なんでもいいの。そして、その生活を守るために今の強さも、地位も手に入れた。失うわけにはいかないのよ」
宗一郎「それも……一つの答えか。某が求めたものは、もはや遠き過去の幻想に過ぎぬか……」
どこか遠くを見るような、あるいは自分自身に言い聞かせるような呟き。しかし、ドルネの返答に迷いはなかった。
ドルネ「何が言いたいかわからないけれど……宗一郎。あなたを殺すわ」
その通告に、憎しみも、怒りも、そして悲しみさえもこもっていなかった。
ただ、下された命令を冷徹に完遂する。その言葉は、研ぎ澄まされた刃のように無機質で、だからこそ宗一郎の命を奪うという決定事項を揺るぎないものにしていた。
ドルネが腰から引き抜いたのは、細身でありながら凍てつくような冷気を纏う愛剣【ヴェル・ロザリア】。
その切っ先が、無防備な宗一郎の喉元へと向けられる。
しかし、宗一郎は立ち上がる素振りすら見せなかった。地べたに這いつくばり、枷を嵌められたまま、ただ静かに死を受け入れようとしている。
ドルネ「……あなた、本当にここで死にたいの……?」
その問いに、宗一郎はゆっくりと、だが確実にドルネを見据えた。
その瞳には、諦念を通り越した澄み渡るほどの覚悟が宿っていた。
宗一郎「無論、この命……口惜しくはある。だが、某が追い求めた理想は既に死に絶えた。なればこの命、これ以上永らえても無駄というもの。尽くしたこの国に、この命が散るとあらば……それもまた、一つの運命であろうよ」
ドルネ「理解……できないわ……」
ドルネの口から漏れたのは、偽らざる本心だった。
守るべき平穏のために魂を削ってきた彼女にとって、守るべきものを失ったからと命を投げ出す宗一郎の美学は、ただの狂気にしか映らない。
これ以上の対話は無意味――彼女は感情を切り捨て、一閃。細剣を宗一郎の胸元へ向けて迷いなく振り抜いた。
だが。
フォーンン!!!
鋭い風切り音が響いたが、そこにあるはずの「肉を断つ感触」が、剣を伝って返ってくることはなかった。
宗一郎は回避していない。
地を這ったままだ。
そして、剣聖たるドルネが、止まっている標的を数センチ単位で外すなどという道理は、この世のどこにも存在しない。
ドルネ(……!?)
ドルネは驚愕に目を見開いた。確かに手応えはあったはず。しかし、ヴェル・ロザリアの刃は、何かに弾かれたわけでもなく、まるですり抜けるようにして宗一郎の体から逸れていた。
宗一郎「……どうした。なぜ、外す」
訪れるはずの死の痛みを待っていた宗一郎が、不審そうに薄目を開けて問いかける。
宗一郎「……某を斬るのが、それほどまでに忍びないか? ドルネ殿」
宗一郎自身、何が起きたのか理解できていない。ただ、目前で困惑に震えるドルネの剣先が、物理法則を無視したかのように空を彷徨っていた。
銀色の細剣が、幾度となく空を切る。
一度、二度……十度。目にも留まらぬ速さで繰り出されるドルネの刺突は、しかし吸い寄せられるように宗一郎の肉体を避け、冷たい大気だけを貫いた。
宗一郎「……情けは無用! 何度も外すは、某への侮辱と同義ぞ……。今更迷うことなどなかろう! 斬れ!! 斬れと言っているのだ!!」
死を覚悟した武人の、魂を削るような怒号が響き渡る。
だが、斬れない。
ドルネの胸中には、今までに味わったことのない動揺が渦巻いていた。
ドルネ(……頭でどれだけ理解していようと、身体が拒んでいる。身体が……こいつを、斬るべきではないと判断している……!)
長年、帝国の剣聖として頂点に君臨し続けてきたドルネには、本人すら自覚していない「天賦の才」があった。
それは、極限まで磨き上げられた生存本能と共鳴する、超感覚的な身体制御。
敵意ある者に対しては、思考を介さず心臓を貫く「最適解」を叩き出す。
だが、その裏返しとして、心の奥底で「仲間」と認めた者、あるいは一切の害意を持たぬ無垢な者に対しては、身体が勝手に刃の軌道を逸らし、傷つけることを拒絶してしまうのだ。
ドルネ自身、自分のことを「平穏のために汚れ役も厭わない冷徹な女」だと信じ込んでいた。しかし、その肉体は彼女が切り捨てたはずの「慈悲」を、反射という形で体現していた。
自認していないがゆえに、この不可解な事象の正体が分からず、彼女は焦燥に駆られる。
ドルネ「ちっ……厄介な……。お前が、刀さえ持っていれば……!」
それは、自分自身に対する苛立ちをぶつけるような、恨み節に近い叫びだった。
相手が武器を手にし、自分を殺そうと向かってくる「敵」であってくれれば、この呪いのような制約から解放されるのに。無抵抗のまま理想に殉じようとする男を前に、彼女の剣聖としての本能が、主である彼女の意志を裏切り続けていた。
その膠着した状況を切り裂いたのは、残酷なまでの「天上の声」だった。
ルーグ(ドルネ……遊ぶ必要はないんだよ?)
鼓膜ではなく、脳の髄に直接響くような、ゾッとするほど穏やかで慈愛に満ちた声。
その一言で、ドルネの背筋に氷柱を突き立てられたような戦慄が走る。
ドルネ(……あ、遊んでなんて……ないわ! 身体が、勝手に……!)
必死の弁明を、しかしルーグは冷笑とともに遮った。
ルーグ(なるほど……なら、これは君の実力ということなのかな……。仕方ないね。君が「道具」として機能しないのであれば、僕が少し手伝ってあげよう)
無慈悲な切り捨て。
対話はそこで強制的に断絶された。
ドルネが何かを叫ぼうとした次の瞬間。
ドルネ(ちょ……まだ……! ……なっ……!?)




