理不尽の連鎖 ―怪物たちの三回戦―
ーーーその数秒前。
ジャック(ああ……なんて……楽しいんだ……。)
脳内を跋扈する快楽の麻薬。それは痛覚という生存に必要な警告灯を完全に焼き切り、ジャックを狂乱の極致へと誘っていた。
思考の全ては、次の一撃をいかに深々と叩き込むか、次の死線をどう潜り抜ければこの快楽を継続できるか。
この夢のような、世界と自分が溶け合うような時間を、どうすれば一秒でも長く引き延ばせるのか。
その純粋で、かつ歪んだ渇望だけが彼の意識を支配していた。
だが。
魂の昂揚とは裏腹に、残酷な違和感がその身を走る。
先に悲鳴を上げたのは、精神ではなく肉体の方だった。
ジャックの戦闘能力は、その天賦の才とも言える野性的本能に依存している。
しかし、それを支えるのは肉体の限界を魔力で強制的に引き剥がし、人外の挙動を可能とする「過負荷」の強化だ。
この強化には段階があり、闘争本能が加熱し、時間が長引けば長引くほど、身体には指数関数的な負荷が蓄積されていく。
すなわち、ジャックは「時間が経つほど強く、速くなる」が、それは同時に「死」あるいは「再起不能」という崖っぷちへ向かって加速していることと同義だった。
限界を無視し、壊れることを前提に強化し続ければ、待っているのは二度と戦場に立てぬ廃人としての末路のみ。
ジャック(へへっ……先に限界が来たのは……僕ってわけだ……)
内側から血管が焼き切れるような感覚。骨が自重と魔力の圧力に耐えかねて軋む音。
ジャックは自嘲気味に、だがどこか満足げにそれを察知した。
ジャック(なら……戦えなくなるギリギリで調整すればいいってわけでしょう!?)
死線を踏み越えることに躊躇いはない。
自壊の淵に立たされてなお、ジャックの闘争本能は加速を止めなかった。
肉体が崩壊し、二度と拳を握れなくなる直前のライン。
天性の直感と、数多の修羅場で培った危ういまでの精密さで、彼は「死」の手前にある極限の出力を引き出した。
その体表からは、大気を灼き切るような漆黒の雷が溢れ出し、闘技場を異様な魔力の波動が支配する。
ジャック(この一撃で、多分決着……。向こうが倒れなきゃ、僕の負けだ……)
覚悟を決め、短く息を吸い込む。
刹那、ジャックの姿が爆発的な踏み込みと共に消滅した。
帝都を覆う巨大な結界の最高到達点――地上500メートル。
重力をあざ笑うかのような跳躍。
観衆の動体視力はもちろん、当主代行である斗真の鋭敏な感覚でさえもが、そのあまりの「高度」と「速度」の前に置き去りにされた。
遥か上空、雲を割るほどの高さに達したジャックが、陽が傾きかけた空を背に拳を握りしめる。
ジャック「ブライト……インパクト!!!」
最高点での静止は一瞬。
ジャックは空中でその小さな身体を独楽のように高速回転させ、魔力という名の燃料を拳に一点集中させた。
自由落下の加速度。
高速回転による遠心力。
そして、命を削って絞り出した漆黒の魔力。
それらすべてが混じり合い、一筋の黒い雷となって帝都の空を切り裂く。
地上で待ち構える斗真の眼前に、天空から「終焉」が音速を越えて降り注いだ。
ドォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
闘技場が、そして帝都の地そのものが悲鳴を上げた。
地上500メートルからの自由落下と、命を削り出した魔力の奔流。
ジャックの拳という名の「漆黒の落雷」が、斗真の脳天を真正面から叩き潰した。
その威力……もはや人同士の試合ではない、天災の顕現。
先ほどまでの亀裂など児戯に等しい。
闘技場の中心には巨大なクレーターが穿たれ、そこから走った亀裂は強固な障壁さえも揺らし、観客席の石造りの床を一部崩落させるほどの影響を与えていた。
もうもうと立ち込める砂塵の中、ジャックは斗真から数歩の距離に、力なく、だが器地に着地した。
そして、糸が切れた人形のように、そのまま仰向けに倒れ込んだ。
ジャック「……はぁっ!……はぁっ……!?」
肺を焼くような荒い呼吸。視界は白く霞み、四肢の先から感覚が消失していく。
魔力を、細胞の一つひとつを絞り尽くした「魔力欠乏」の臨界点。指一本動かすことすら、今の彼には不可能だった。
ジャック(流石に……効いたでしょ……! もう……一歩も、無理だ……)
戦闘という名の快楽に溺れていたジャックでさえ、これ以上は肉体が崩壊すると理解させるほどの、凄絶な激闘の果て。
静まり返っていたスタンドからは、やがて地鳴りのような歓声が湧き上がった。あの一撃を見て、逆転を信じる者はいない。観客たちは口々にジャックの名を叫び、新たな勝者の誕生を讃え始めていた。
なのだが……。
ジャック(……実況の、勝報が……ないね……)
数秒。あるいは十数秒。
試合終了を告げるはずの実況の声が、いつまで経ってもスピーカーから流れてこない。
熱狂する観衆とは裏腹に、闘技場の中央に居座る砂塵の奥から、異様な「静寂」と、冷徹なまでに研ぎ澄まされた「気」が漏れ出していた。
ジャックの背筋を、今日一番の冷たい汗が伝う。
砂塵が風に流され、クレーターの底に沈む「それ」が姿を現そうとしていた。
砂塵がゆっくりと晴れていく中、クレーターの底で「それ」は動いた。
一之瀬斗真が、ゆっくりと、だが確実に大地を踏み締めて立ち上がっていたのだ。
頭部を割るような衝撃を受けたのか、額からはどくどくと鮮血が溢れ出し、白かったはずの着物は砂埃と自身の返り血で無惨に染まり、裂けている。
しかし、刀を杖代わりにして立ち上がるその姿は、満身創痍でありながらも、戦場を統べる鬼神を彷彿とさせる凄絶な威圧感を放っていた。
ジャック(ははっ……はははっ……やばいね……まだ立つのかよ……)
ジャックは仰向けのまま、乾いた笑いを漏らした。
紛れもない化け物だ。
あの一撃は、小手先の技術でいなせるようなものではなかった。視認も防御も許さなかった完璧な直撃。
それはすなわち、斗真が「ブライト・インパクト」の全破壊エネルギーを、その身ひとつで、真っ向から受け切ったことを意味していた。
東の国の名門、その当主代行としての異常なまでの練度。肉体を鋼鉄以上にまで鍛え上げ、魔力で補強し、致命傷を「深手」にまで抑え込んだ執念。
ジャックの最大にして最強の「最後の一撃」を受けてなお、折れずに立ち上がったその魂。
もはや、認めざるを得なかった。
斗真「俺……はっ……! 立って……いる……!!」
荒い呼吸を無理やり整え、天に向かって、あるいは自分自身に向けて、斗真は力強く宣言した。
朦朧とする意識の中でも、その眼光だけは鋭く、そして確実に、地に伏したジャックを射抜いていた。
ジャック「ははっ……負け……だよ……。」
斗真の宣言を聞き、ジャックは軽く笑いながら自らの敗北を口にした。
せめて最後くらいは余裕を見せようとしたが、限界を超えた身体と打たれた内臓が悲鳴を上げ、その声は苦痛と安堵が混じり合った、掠れたものとなっていた。
実況『し、しょ、勝者……一之瀬斗真!!!! 試合、終了だああああああっっっ!!!』
絶叫に近い実況の声が、凍りついていた闘技場を再び爆発させた。
数万の観衆が立ち上がり、命を削り合った二人の戦士に、割れんばかりの喝采と興奮の罵声を浴びせかける。
三回戦・第一試合。
ジャックが自ら予言した通りの結末。だが、そこには敗者の惨めさなど微塵もなく、ただ最強の壁として君臨した斗真と、それをあと一歩まで追い詰めた獣の、凄絶な爪痕だけが残されていた。
ギークは入場ゲートの影で、己の内に沸き立つ熱い衝動を静かに、だが力強く押し殺していた。
ギーク(ジャック……あそこまでやるたぁな。)
視界に焼き付いたのは、天を割る黒き雷。そして、すべてを出し切り泥のように倒れ伏した弟分の姿。
あの一撃を、もし自分が真っ向から受けていたら――。想像を巡らせると同時に、それを受け切ってなお鬼神の如く立ち上がった一之瀬斗真という男に対し、本能的な畏怖と、それを凌駕するほどの武者震いがギークを襲った。
ギーク(ジャックが、あそこまで「命」を削らされるのは、そうあることじゃねえ。一之瀬斗真……ジャックが騒ぐわけだ。)
控室であれほど興奮し、獲物を前にした獣のように目を輝かせていたジャック。
その姿が、ここにきてようやく腑に落ちた。もし自分が次の一戦を勝ち抜けば、あの「怪物」と刃を交えることになる。
この戦いを特等席で見届けられたことは、戦士としてこれ以上ない幸運だった。
そんな考えを遮るように、タンカーの軋む音が近づいてくる。
ジャック「負け……ちゃいました……」
血と泥に塗れ、魔力を使い果たして青白い顔をしたジャックが、申し訳なさそうに、だがどこか満足げに笑った。
ギーク「見てたぜ。あんなでけぇ声で、みっともねぇ宣言しやがって……」
ギークはあえて突き放すような口調を選んだ。それが彼なりの、命を懸けて戦った弟分への照れ隠しであり、最大の敬意だった。
ジャック「はははっ……ああでもしないと……もっと……早く……終わってたから……」
ギーク「そうかよ……。よくやった。あとはゆっくり休め。」
短く、だが万感の思いを込めて告げると、ギークは一度も振り返ることなく、光の射す闘技場へと足を踏み出した。
その背中は、どんな絶望をも撥ね退ける、揺るぎない「兄貴分」の背中そのものだった。
だが、それを見送るジャックの脳裏に、ふとした違和感が過ぎった。
戦士として、相棒として、長年共に歩んできたからこそ気づく、致命的な「欠落」。
ジャック(ギークさん……槍は……?)
武器を持たず、手ぶらで戦地へと向かう背中。
それはギークが慢心しているからではない。むしろ、かつてないほどの覚悟、あるいは「別の何か」を胸に秘めていることを予感させた。
実況『さてさて! 熱い死闘の興奮は冷めねぇが、時間は有限!! 次の試合に移っていこうかぁあ!!!』
興奮の余韻を切り裂く実況の声。
それと同時に、闘技場の入場口から対照的な二つの影が歩み出た。
一人はギーク。
180cm後半という筋骨隆々の巨躯。ただそこに立ち、眼光を向けるだけで、並の戦士なら心臓を掴まれたような錯覚を覚え、逃げ出したくなるほどの圧倒的な威圧感を放っている。
そして対峙するのは、ローグ・ケンセー。
160cm前後の小柄な背丈。しかし、古びた道着の上からでもわかる鋼のように引き締まった肉体。達人にしか読み取れぬ「静かなる怒濤」を纏っているが、素人の目には、ただ元気な老人にしか見えないだろう。
ギーク「じじぃ……てめぇ、相当なもんだなぁ。」
地を這うようなギークの声。その瞳は、目の前の老人が放つ「異質さ」を正確に射抜いている。
ローグ「かかかっ! 若いの、言葉の使い方がなってないではないか! この老耄が、礼儀のいろはを指導してやろうか!」
ローグは腰を屈めることもなく、愉快そうに、それでいて底知れない瞳を細めて応じる。
ギーク「ああん? 誰がてめぇなんかに教わるかってんだ! 黙って引退して、どっかの土にでも還ってろ!」
ローグ「はんっ! 先達に敬意を払えないガキめ。これだから最近の若造は骨が柔らかいのだ。」
ギーク「てめぇ……言わせておきゃあ……ッ!」
こめかみに青筋を浮かべ、拳を強く握りしめるギーク。その手に愛用の槍はない。剥き出しの拳が、怒りに震えている。
ローグ「やる気か?」
ローグの構えが、スッと深くなる。
その瞬間に放たれた気配は、もはや老人などではなく、巨大な山を思わせる「剛」の塊。
ギーク「こっちのセリフだじじぃ! その減らず口ごと、粉々に砕いてやるよ!!」
互いの視線が交差する。
一方は若き血気と誇りを、一方は長年の修羅場を越えた老練なる牙を。
火花どころか、視線だけで周囲の空気が爆ぜんばかりの緊張感。
二人は共に、試合開始を告げる審判の声を待ち望んでいた。
一刻も早く、目の前の傲慢な相手をその拳で叩き伏せるために――。
実況『今! 試合開始だあっ!!!』
その合図が響き渡るのと、二人の拳が互いの顔面にめり込むのは同時だった。
ゴッ!!!
鈍い、肉と骨が激突する音が闘技場に響く。
ギーク「ぐっ……!?」
ローグ「なっ……!?」
体格差を無視したかのような、両者ほぼ互角の衝撃。二人の首が同時にのけ反るが、そこからの修正速度はローグがわずかに上回った。
ローグは衝撃を首のしなりで逃がすと、着地するより早く軸足を滑らせ、ギークの脇腹を狙った鋭い回し蹴りを放つ。
しかし、ギークも野性の勘でこれに反応。蹴りの軌道を強引に腕で叩き落とし、相殺。
すぐさま返しの裏拳を叩き込み、攻守が瞬時に入れ替わる。
開始からわずか数秒。
音速に近い速度で交わされる打撃と捌きの応酬に、観衆の目は追いつかない。彼らの目には、二つの影が火花を散らしながら激しく火花を散らす、一進一退の競り合いにしか映っていなかった。
ローグ「ふんっ……つまらん駆け引きだ!」
激しい打ち合いの最中、ローグが冷酷に吐き捨てる。
ギーク「あんだと……? じじぃ、てめぇ……ぶっ……!?」
罵声を返そうとしたギークの視界が跳ねた。
言葉の隙間、まさに呼吸の合間を縫うように、ローグの掌底がギークの顎先を鋭く打ち抜いたのだ。
ローグ「おまえさん、体術は得意じゃなかろう。」
脳を揺らす衝撃。
ギークは意識が飛びかけるのを根性で繋ぎ止め、視界が二重にぶれる中で反撃の右を振り回す。
だが、ローグはその剛腕を柳に風と受け流し、まるで最初からそこに道があったかのように、吸い込まれるような動きでギークの懐へと潜り込んだ。
ギーク「はっ! 何言ってやがる!」
ローグ「動きに無駄が多い……そうだな。それこそ……」
語る口調は穏やかだが、放たれる打撃は苛烈そのもの。
ローグの拳が、ギークの厚い腹筋を貫き、鳩尾へと正確に数発めり込んだ。
ドッ、ドッ、ドッ!!
ギーク(……っ!? 重てぇ、なんて重さだ……!)
肺から空気が無理やり押し出される。
ただの老人の筋力では説明のつかない、重戦車に撥ねられたかのような衝撃。ギークはたまらず苦悶の表情を浮かべ、大きく後退を余儀なくされた。
ローグ「おまえさん……槍が得意……と言ったところか」
その言葉が投げかけられた瞬間、ギークの背筋に冷たいものが走った。
ギーク「なっ……! てめぇ……やっぱただのじじぃじゃねえな……」
試合開始からわずか数分。
拳を交え、数回体勢を入れ替えただけの短い時間で、自身の体術の癖から本来の得物までを正確に言い当てられた。
その驚異的な観察眼、そして激しい攻防の最中に相手の本質を剥き出しにする技量。目の前の老人が積み上げてきた経験値が、自分とは比較にならないほど膨大であることを、ギークは嫌というほど理解させられた。
ローグ「だから言っている。先達には……敬意を払えと言ったのだ!」
語気を強めると同時に、ローグが地を蹴った。
その踏み込みから放たれた正拳は、先ほどまでの「指導」とは次元の違う、殺意に近い威力を孕んでいた。
ズドンッ!!
ギークは紙一重で首を捻り、その一撃を回避した。
直後、彼の背後にある闘技場の分厚い外壁が、直接殴られたわけでもないのに爆ぜ、巨大な穴が空いた。
ギーク(まじかよ……拳圧だけで壁をぶち抜いたか? どんな速度と威力してやがる……)
頬を掠めた風圧だけで皮膚が裂ける。冷や汗を拭いながら、ギークは本能的な恐怖を無理やり闘争心で塗り潰した。
ローグ「この老いぼれを相手に、武器なしで勝てると思われるとは……。舐められたものよ。今からでも遅くはあるまい。死にたくなければ得物を出せ。」
ローグの構えには一点の隙もない。その佇まいは、武器を持たぬからこそ完成された「究極の武」そのものだった。
ギーク「はっ! 何言ってんだじじぃ。ここには武器なんてねぇんだ! 今更どうやって調達しろってんだ?」
ギークの言葉は正論だった。
闘技場の砂舞台に、武器など一本も落ちてはいない。試合前に持ち込むことが許されているこの場において、丸腰で入場した以上、魔法による錬成でも使わない限り、武器を手にすることなど不可能なのだ。
ローグ「……ふん、知らぬぞ?」
ローグの瞳の奥で、鋭い光が明滅する。
武器を持たぬギークに対し、まるで「それでもお前は武器を使うはずだ」と確信しているかのような、不気味なまでの静寂がローグを包み込んだ。
ギーク「ほざけ! じじぃ!!!」
苛立ちを爆発させたギークが、怒涛の連撃を繰り出す。
一撃、二撃、三撃――。鋼のような拳が唸りを上げてローグの急所を執拗に狙うが、そのすべてが紙一重でかわされ、虚空を切り裂く。
ギーク(ちっ……まじであたんねぇな。霞でも殴ってる気分だぜ……!)
空振るたびに、自身の体力が削り取られていくような感覚。対するローグは、まるで見切っていると言わんばかりの最小限の動きで、心底呆れたという風に深くため息をついた。
ローグ「やれやれ……。力任せでは、蚊の一匹も殺せんぞ?」
ギーク「てめぇ……! なめてんじゃねぇぞ!?」
その余裕の態度が、ギークの逆鱗に触れた。
ギークは拳を振りかぶりながら、体内の魔力回路を全開にする。
ギーク(極限まで身体強化をかけりゃ、少しぐらいは通用するだろうが!)
かつてガルナ戦で見せた、身体強化。
筋肉が膨張し、血管が浮き出る。反応速度、瞬発力、破壊力――すべてのパラメーターを強引に数段上の領域へと押し上げる。
ドォンッ!!
爆発的な速度で踏み込んだギークが、先ほどまでとは別次元の打撃術を叩き込み始めた。
ローグ「ほう……少しはマシになったかな?」
強化された拳が、ついにローグの防御を突き抜け、その肉体に鈍い衝撃音を刻み始める。ローグの腕や肩に拳が掠り、ようやく「有効打」と呼べる攻撃が入りだした。
しかし、それでもローグの余裕が崩れ去ることはなかった。
ローグ「お前さんが強化するなら、ワシも強化すればいいだけのことよ。」
ローグが、この日初めてその「深淵」を垣間見せた。
これまで一切使っていなかった魔力を、静かに、だが圧倒的な密度で解放する。
ローグを中心に、闘技場の空気が歪むほどのプレッシャーが吹き荒れた。老人の細身な身体から放たれているとは信じがたい、山が鳴動するような魔圧。
ギークが極限まで高めた強化でさえも、その圧倒的な存在感の前では、小さな火が嵐に晒されているかのように頼りなく映った。
ギーク(……クソっ、こっちは命がけで魔力循環を最適化してんだ。冗談じゃねぇ……これ以上ないほど緻密に練り上げた、俺の最高出力だぞ……!)
ギークの頭脳は冷静だった。肉体にかかる過負荷をミリ単位で制御し、攻撃に転化している。
しかし、その「完成された強化」を上回る密度で、ローグの拳が理不尽に空間を支配していた。
ローグ「ほう、これほどの負荷に耐え、なお魔力を制御しきるとは。若いの、その精密さは大したもんじゃ」
称賛。だが、その言葉とは裏腹に、ローグの拳は情け容赦なくギークの急所を穿つ。
バキィィッ!!!
ギーク「ぐっ……はっ……!!」
ローグの拳がギークの胸を正確に捉えていた。
いかにギークが精密に魔力で防御膜を編み込もうとも、ローグはその隙間を縫うように、あるいはその膜ごと「浸透」させるように打撃を叩き込んでくる。
ローグ「だが、これ以上は何を言うても無駄やもしれんな。技の理が違いすぎるわ!」
その言葉を合図に、ローグの動きは「指導」から「制圧」へと変貌した。
顔面に、腹部に、背中に、腕に、脚に、腰に。
ギークが必死に構築した強化の層が、ローグの神速の重撃によって次々と粉砕されていく。
精密な魔力による防御を行っているからこそ、ギークには理解できてしまった。目の前の老人が振るっているのは、ただの暴力ではなく、数多の戦場を潜り抜けて完成された「理」の体現であることを。
ギーク「が……はっ……あああああッ!!」
ありとあらゆる部位に、逃げ場のない衝撃が叩き込まれる。
一撃ごとにギークの意識は遠のきかけ、そのたびに極限の身体強化がもたらす高い生存能力が、彼を無理やり戦場へと繋ぎ止めていた。
ギーク(ちっ…ここで負けたら意味がねぇ…リヒトにゃわりぃが…やるしかねぇな)
幾度となく飛びかける意識を、奥歯を噛みしめる痛みで無理やり現世に繋ぎ止める。
ギークの中で、迷いは消え去り、一つの冷徹な決意が固まった。
これまではリヒトの命に従い、決勝まで自身の槍は温存する。その方針を鉄の掟として守り抜いてきた。
だが、目の前の老人は、その制約を課したまま勝てる相手ではない。
自身の武器を手に取らずして、この化け物を下すことは不可能だ。
このまま無様に敗北を喫すれば、衆目の目を惹きつけることも、剣聖や帝国の目を欺くという真の目的を果たすことも叶わなくなる。
ならば、主君の指示を反故にしてでも、己の「全て」を出すしかない。
ギーク「だあぁぁぁっ!!!鬱陶しいなぁ!!!くそじじい!!!」
喉が裂けんばかりの咆哮。
それに対し、ローグは悠然とした構えを崩さず、嘲笑うかのように問いかけた。
ローグ「ほう?まだそんな口をきく余裕があるのか?」
ギーク「やってやらぁ!てめぇがみたがってたもん!見してやる!だが…見てから後悔すんじゃねえぞ??」
ギークの宣言に、ローグは細めた眼の奥で愉悦を光らせる。
ローグ「かかかっ!!そういうのは…やってから言うもんだぜ?」
言いながら、ローグの視界は異様な光景を捉えていた。
ギークの足元から巻き上がる空気の渦。それはこれまでの身体強化とは明らかに次元の違う、暴虐なまでの魔力の奔流だった。
先ほどまでの体術の応酬。それさえもが、まるで児戯にも等しい戯れであったかのような錯覚を覚えるほどの、圧倒的な密度の魔力が闘技場を満たしていくのだった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
連載ペースが落ちてて申し訳ない。
投稿ストックがだいぶ減ってきてますが執筆は進めてますので安心してください!
これからさらに物語を動かしていきますのでお付き合いお願いしますね!
今後ともよろしくお願いします!




