一之瀬流の黄昏 ―静寂を裂く絶望の咆哮―
追撃を許せば、次は骨が砕ける。
斗真は叩きつけられた衝撃を魔力で強引に逃がすと、即座に身体を捻り起こし、バネが弾けるような挙動でその場から退避した。
直後、彼が先ほどまで伏していた場所へ、ジャックの小さな足が容赦なく振り下ろされる。
ドォォォォンッ!!!
爆音と共に、すでにボロボロだった石畳の亀裂がさらに深く、広範囲に広がった。跳ね上がった瓦礫が斗真の頬を掠めていく。
斗真(仕方ない……。これ以上、この少年の「楽しみ」に付き合っていては、一之瀬の看板ごと叩き割られるな)
腹を括った斗真の瞳から、迷いが消えた。
ジャックの放つ純然たる暴力に対抗すべく、彼は体内の魔力循環を限界まで活性化させていく。
経絡を駆け巡る魔力が熱を帯び、当主代行としての真の気が陽炎のように立ち昇る。
その間も、ジャックの猛攻は止まない。
一撃一撃が文字通り「必殺」。空振る拳が空気を圧縮し、衝撃波が可視化されるほどだ。
斗真は抜刀した刀でそれらをいなすが、鋼と拳がぶつかるたびに、最高級の業物であるはずの刀身が折れるのではないかと錯覚するほどの重圧が腕を痺れさせた。
ジャック「……もう、いいかな?」
ふと、ジャックの動きが止まった。嵐の前の静けさのような問い。
対峙する斗真もまた、刀を中段に構え直し、静かに息を吐く。
斗真「そうだな……。様子見は終わりだ!」
その宣言と共に、斗真は一之瀬流の「本気」を解放した。
斗真(一之瀬流……露払い!!! 六連!!)
キィィィィィィンッ!!!!
先ほどの居合とは比にならない、空間そのものを圧し潰すような圧力を伴う居合が放たれた。
それも一撃ではない。
神速の抜刀と残像が重なり合い、ほぼ同タイミングで六つの斬撃が円状に展開される。
闘技場の床には六条の深く鋭い刀傷が爆発的に刻み込まれ、逃げ場を塞ぐように「死の檻」がジャックを襲った。衝撃波が幾重にも重なり、回避不能の絶対領域となって、小さな獣を飲み込みにかかる。
ジャック「だからぁ!!!」
怒りにも似た咆哮。ジャックは回避など選ばない。全方位から迫る「六連」の衝撃波に対し、さらに密度の高い魔力を拳に纏わせ、真っ向から打ち砕くことで強引に無効化した。
ジャック「その程度の技で、止めれると思うなっての!!!」
衝撃で舞い上がった土煙の中から、ジャックが次の一歩を踏み出そうとしたその時。
斗真「当たり前だ……!」
声は、遥か頭上から降り注いだ。
ジャックが顔を上げた瞬間、その視界から陽の光が完全に消失し、世界が急速に闇に塗り潰されていく。
ジャック「……!?(暗い……?)」
斗真「一之瀬流……肆式……黒雨」
それは、文字通り「刃の雨」であった。
空中へ跳躍した斗真が、重力さえも魔力で制御し、滞空時間を極限まで引き延ばして放つ絶技。
一之瀬の門下生が放てば、せいぜい三から五の刺突で着地を余儀なくされる技だ。
だが、当主代行である斗真のそれは、理を書き換える。
超人的な魔力強化によって「落ちる」ことを拒絶し、さらに強化された腕が地に対して放つ刺突は、通常の五倍を優に超える手数。
ドドドドドドドドドドッ!!!!!
一撃一撃が地を穿つ重圧を伴い、それが数百、数千の雨となってジャックの頭上へ殺到する。
あまりにも過密な刺突の群れが光を遮断し、影を落とす。技を受けた者が「視界が暗くなった」と錯覚するほどの絶望的な飽和攻撃。
ジャックの周囲の地面は、一瞬にして無数の深き穴を刻まれ、逃げ場という逃げ場が「黒い雨」によって埋め尽くされていく。
ジャック「へへ……あははははっ!! いいねっ……!!」
降り注ぐ死の雨を浴びながら、ジャックは狂ったように笑い声を上げた。
防護魔力が削り取られ、肉体に無数の刃の後が刻まれていく。だが、その激痛こそが、彼がギークに、そして自分自身に証明したかった「最強の輝き」であった。
斗真(硬い……! これで穿ち切れないのか……!?)
「黒雨」の苛烈な刺突の雨を浴びせながらも、斗真は得も言われぬ戦慄に突き動かされていた。手応えはある。確かに肉を裂き、骨に届いているはずだ。しかし、ジャックの筋肉はそのすべてを食い止め、致命傷を許さない。
技の終わり際、着地へ移行するために最後の一撃を溜めようとした、その刹那だった。
猛然と降り注ぐ刃の隙間から、血塗れの細い腕が伸び――斗真の手首を鷲掴みにした。
斗真(馬鹿な!? この絶技の最中に、私の動きを捉えたというのか!)
「逃がさないよ」と言わんばかりの怪力。ジャックは空中の斗真を地面へと無理やり引き寄せ、その引力を利用して、反対の拳を全力で振り抜いた。
地面へと引きずり込まれる加速度と、ジャックの異次元の膂力から生み出される衝撃。
それらが一点に収束し、この試合で最大最強の「一撃」が完成する。
ドゴォォォォォォンッ!!!!!
正面からその剛拳を浴びた斗真は、弾丸のような勢いで吹き飛ばされた。
東の国の誇り高き当主代行が、無様に、そして激しく闘技場の床を転がり、土煙を巻き上げる。
それでも、吹き飛ばされながら受身を取り、意識を寸断させず、出血を最小限に留めている時点で、斗真もまた理外の化け物であった。
だが、今の二人にとってそんな驚きは、もはや些事でしかなかった。
斗真(……『黒雨』の全弾を受けて、なおこれだけの反撃に転じる執念。こいつは、本当に人間なのか……?)
ボロボロになった着衣を翻し、斗真は内心で舌を巻いた。
だが、驚愕に浸る暇さえ、目の前の獣は与えてくれない。
ジャック「まだ……まだ……まだまだまだまだぁぁ!!!!! 遊べるよね!?!? ねえっ!!!」
立ち上がるジャックの周囲で、大気が目に見えて歪み始めた。
先ほどまででも異常だった魔力の圧力が、さらに一段階、二段階と跳ね上がっていく。その小柄な身体から放たれているとは信じがたいほどの、暴力的で、かつ「死」を厭わぬ純粋な熱量が闘技場を支配する。
斗真(……まだ上がるというのか!? この少年の器、底が見えん!)
ジャックの瞳は、もはや理性の光など届かぬ場所にある。
己の命を薪にして燃え上がるようなその輝きを前に、斗真は自身の内にある「一之瀬の武」のすべてを懸けて応じねばならないと、魂の底から理解させられていた。
斗真「一之瀬流……! 伍式……! 淵沈!!」
空気が凍りついた。
斗真の踏み込みと同時に放たれたのは、一之瀬流の真髄。最上段から真っ直ぐに振り下ろされたその一太刀は、もはや単なる斬撃ではなかった。
圧倒的な密度で練り上げられた魔力が周囲の大気を強引に圧縮し、ジャックの五感に「絶望的な重圧」として伸しかかる。
ジャック(おもたっ……息が……っ!)
ジャックの視界が歪む。あたかも水底数百メートルへと一気に沈められたかのように、周囲の重力が数倍、数十倍へと膨れ上がったかのような錯覚。
肺が潰され、心臓の鼓動さえもがその重圧に阻害される、文字通りの「淵」に沈められる感覚。
必死に抗い、防御の体勢を整えるジャック。だが、その一太刀は回避も、完全な防御も許さなかった。
ジャック「ぐっ……っ……!!!」
鮮血が舞う。
側から見れば、上段からの太刀がジャックの小さな身体を真っ向から両断したかに見えた。
しかし、死の際にあってもジャックの生存本能は冷徹だった。太刀を完全に防げないと悟った刹那、右腕に全魔力を凝縮して衝撃を最低限殺し、同時に半歩、わずか数センチだけ後ろへ退いたのだ。
物理的な刃は虚空を噛んだ。
だが、刀身に纏わっていた「淵沈」の苛烈な魔力が、ジャックの右胸から腹にかけてを無残に切り裂く。浅くはない。裂傷から溢れ出した赤黒い血飛沫が、闘技場の砂舞台に鮮やかな紋様を描いた。
その瞬間、闘技場を埋め尽くす数万の観衆が爆発した。
観客『いいぞお!!!! やっちまえ!!!』
観客『おい、今の見たか!? あれは……死んだだろぉ!!!』
観客『いや……まだだ! たて!! ジャック!!! もっと見せてくれよ!!!』
悲鳴に近い歓喜。
死の匂いを感じ取った大衆の熱狂が、闘技場を異様な興奮の渦へと叩き落とす。
これこそが彼らが求めていた「真の戦い」。
誇り高き一之瀬の武が勝つのか、それとも泥沼の深淵から這い上がる獣が食らいつくのか。
ジャックは肩で息をしながらも、傷口から流れる血を気にする様子もなく、ただじっと斗真を見据えていた。その瞳の奥にある「何か」が、今、最後の一線を越えようとしている。
ジャック(傷っ……! 問題ないねぇ……!! まだ……まだいける!!)
ジャックの体内で、膨大な魔力がうねりを上げる。
傷口から噴き出していた血は、意志の力によって強引に凝縮された魔力に抑え込まれ、かろうじて止まった。だが、肉が塞がることはない。
否――ジャックはあえて塞がなかった。
「再生」に魔力を割けば、その瞬間に攻撃の出力は目に見えて落ちる。
今のジャックに、そんな無意味な守りに回る余裕など1ミリも残されていない。
最低限の止血。命を繋ぐためのギリギリの妥協。
それが、狂乱の深淵に沈みながらもジャックが導き出した、死地における唯一無二の最適解。
そして、その凄絶な生存本能を目の当たりにした斗真は、この日何度目かになる戦慄に身を震わせていた。
斗真(『淵沈』でも下せないだと……!? どんな修羅場を、どんな場数を踏めば、あんな土壇場での無茶ができる!?)
当主代行としての眼は、確かにジャックの機微を捉えていた。太刀が届く寸前の魔力操作、そして物理法則をあざ笑うかのような刹那の後退。
斗真(理論でできる芸当ではない。身体が、細胞のひとつひとつが、生きるために勝手に動いたとでもいうのか? あり得ないだろ……そんなことは!)
もはや目の前の少年は、自身の知る武道の範疇を何度も、それこそ遥か高みへと飛び越えていた。
東の国で戦ってきたどんな剣客や異能者の中にも、この「飢えた獣」に当てはまる者は存在しない。
斗真「これ以上は……本当に命を落とすぞ……?」
斗真の声には、隠しきれない疲労と、それ以上の畏怖が混じっていた。
彼自身、最高位の剣技を立て続けに繰り出したことで、体力の消耗は無視できない。だが、目の前の満身創痍の少年を、確実に仕留められるだけの余力はまだある。
しかし、斗真は確信していた。
この少年を「負かす」ということは、すなわち「殺す」ことと同義であることを。
ジャック「へへ……『らしい』ね、斗真さん。でも、心配はいらないよ……。」
ジャックが顔を上げる。
その瞳に宿る光は、すでにこの世界の理から逸脱していた。
ジャック「言ったでしょ? 僕はここで、負けるんだって……。でも、それまでは……!!」
一歩。血に濡れた足が、闘技場の土を踏み締める。
その一歩が踏み出された瞬間、闘技場全体の空気が爆ぜた。
ーー否。
爆ぜたのは、大気だけではなかった。
ジャックの肉体という名の器が、許容量という限界点を完全に突破し、内側に渦巻く魔力が制御不能の暴威となって体外へと溢れ出したのだ。
その魔力は、もはや「魔力」と呼ぶことさえ躊躇われるほどに禍々しい。
黒き雷が這い回るかのように、ジャックの小さな体表にはドス黒い魔力がバチバチと滞留し、空間そのものを腐食させていく。
そして。
本当の意味で、斗真はジャックを見失った。
当主代行として極限まで研ぎ澄まされたはずの五感が、目の前の「点」を捉えきれない。
斗真(どこに行った……!? 上か? 背後か!?)
闘技場を、心臓の鼓動さえ聞こえるほどの静寂が支配する。
数万の観衆も、実況さえもが、何が起きたのか理解できず口を突き出したまま固まっていた。
目の前にいたはずの少年が、瞬きひとつの間に世界から消え去る。あの異質な、漆黒の雷を纏った魔力の爆発が、因果を捻じ曲げて斗真の認識を欺いたのだと、彼は直感的に悟った。
ーーその瞬間、黒い雷が落ちた。
視認、不可能。
防御、無意味。
回避、絶望。
それは、全魔力を「相手を屠る」というただ一点にのみ捧げ、自身の肉体が崩壊することさえ厭わないジャックの執念が結晶化した、純然たる暴力。
ドォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
ジャックの拳が、斗真の防護魔力を、鍛え抜かれた肉体を、そして一之瀬の当主代行としての矜持を、真っ向から粉砕しにかかった。




