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剥奪の儀式 ―魔封じの鎖と壊れた英雄―

貴賓室。

そこは闘技場の熱狂と喧騒が、防音の魔導ガラスによって心地よい微熱程度にまで濾過ろかされる、選ばれた者のための特等席だ。

ルーグは極上の葡萄酒を湛えたグラスを揺らし、眼下の闘技場に穿たれた巨大なクレーターを見つめていた。

ルーグ「なかなかやるね……ジャッカルの彼……。まだ底を見せていない……」

誰に聞かせるでもなく、静かな愉悦を込めて呟く。その言葉に、戦士としての敬意は欠片も含まれていない。彼がジャックを眺める目は、精巧に動く玩具の耐久テストを観察する子供のそれだ。

(どう嬲れば、その底が見えるのか)

(どの部分を切り落とせば、その狂気は悲鳴に変わるのか)

彼にとって、ジャックの強さはただの「想定」の材料に過ぎなかった。


ーーコンコン。


重厚な扉を叩く音が、貴賓室の静寂を割り込んだ。

ルーグ「入るといい」

短く、だが絶対的な支配者の響きを伴った許可。

扉が開き、数名の衛兵に引きずられるようにして、一人の男が部屋に運び込まれた。

男は薄汚れた衣服を纏い、手足は重々しい鎖で繋がれている。かつて何らかの地位にいたのかもしれないが、今のその姿は、帝国の底に沈んだ哀れな「残骸」そのものだった。

衛兵「ルーグ様、御命令通り連れて参りました」

ルーグ「ご苦労様。お前たちは外で待機しておけ。必要になったらまた呼ぼう」

衛兵「はっ! ですが……この者と二人きりにして問題ございませんか?」

衛兵の危惧は当然だった。鎖に繋がれているとはいえ、相手は「何か」の目的で連行された男だ。

しかし、その言葉を聞いたルーグは、冷たく鼻で笑った。

椅子からゆっくりと立ち上がり、衛兵たちの方へと静かに振り向く。

ルーグ「私を……誰と心得ている?」

その双眸に宿った冷ややかな瞳。そこには、反論を許さぬ圧倒的な強者の傲慢と、わずかな不敬すら即座に処刑しかねない苛烈な意志が溢れていた。

射すくめられた衛兵は、顔を蒼白にし、直立不動のまま声を震わせる。

衛兵「し、失礼しました! 直ちに退室いたします!」

慌てふためくようにして衛兵たちは部屋を辞した。

重厚な扉が閉まり、再び訪れる静寂。

贅を尽くした貴賓室に残されたのは、優雅な支配者であるルーグと、その足元でうなだれる鎖の男、二人きりとなった。

ルーグは再びグラスを口に運び、怯える男の首筋をなぞるような視線で、次の「戯れ」の準備を始めた。


ルーグ「さて、なぜここに呼ばれたと思う?」


冷ややかな声が、贅を尽くした部屋の空気を薄く切り裂く。

声をかけられた男は、重い鎖の音を微かに響かせただけで、ルーグの方を向くことさえしなかった。ただ、乾いた唇から短く言葉を零す。

男「……存ぜぬ。」

消え入りそうな、それでいて拒絶の色を孕んだギリギリの声量。

ルーグはその反応を慈しむように、唇の端を吊り上げた。

ルーグ「そうか。確かに、君が地下監獄へ収容されてから数日とはいえ時が経過している。記憶が混濁していても無理はないね。では、ここはどこだかわかるかな?」

男「……闘技場……貴賓室であろう。」

男は忌々しげに、だが正確に答えた。

閉ざされた空間であっても、外から微かに響く熱狂の残滓と、この部屋が持つ特権的な静寂が答えを教えていた。

ルーグ「そうだ。今この場には、帝国の執行者である私と、罪人である君の二人しかいない。……とても贅沢な時間だと思わないか?」

男「……それが如何したという……?」

なかなか本題を切り出さないルーグの粘着質な物言いに、男の声に半ば苛立ちの混じった鋭さが宿る。


ルーグ「私はね……考えたのだよ。この闘技大会、忌々しい『ジャッカル』を根こそぎ釣り上げる絶好の機会だと。だが……」


ルーグは男から視線を外し、再び魔導ガラスの向こう、陽光に照らされた闘技場を見下ろした。

眼下ではちょうど、二回戦・第二試合。女戦士ミル・エンガイと、一之瀬斗真による試合が始まっていた。

しかし、その攻防はあまりにも一方的だった。

ミル・エンガイの猛攻を、斗真は歩くような動作ですべて無力化し、触れることさえ許さない。試合と呼ぶにはあまりに残酷な実力差。

その光景はルーグの関心を繋ぎ止めるには至らなかった。


ルーグ「期待外れもいいところだ。私の網にかかったのは、リヒトでもなければルシウスでもない。名もなき数人の端役スペアだけ……。あとの有象無象はただの『ゴミ』だ。」

ルーグの視線が、再び足元の男へと戻る。その瞳には、計画が思い通りに進まなかったことへの、底冷えするような不快感が滲んでいた。

ルーグ「わざわざこんな大きな舞台を用意してやったというのに、主役が来ないのでは劇にならない。だから……プランを変えることにした。せっかく用意したこの舞台を、無駄にするわけにはいかないからね。」

ルーグは再びグラスを口に運んだ。ジャッカルを誘い出すことに「失敗」した。その事実を飲み込み、次なる「利用価値」を男の中に見出そうとするその眼差しは、蛇のように執拗で冷酷だった。

男は沈黙を貫いていた。


かつては帝国最強の牙、「帝国剣聖」の一角としてその名を轟かせた男、宗一郎・衛善。その威厳は今や、重く冷たい鎖の音に掻き消されようとしている。

この大規模な大会を「失敗」と断じ、勝敗への興味さえ失っている目の前の怪物。

その男が、あえて反逆者として獄に繋いだ「剣聖」を呼び出した意図。それは、歪んだ嗜虐心を昂らせる、最悪の「演出」でしかないことを宗一郎は察していた。

果たして、その予感は正解だった。

ルーグ「喜ぶといい、宗一郎。私に楯突いた罪、そのすべてを不問にしよう」

慈悲を含んだような優しい声。ルーグは、かつての同僚とも呼べる男に、救いの手を差し伸べるかのように告げた。顔には柔らかな笑みを浮かべているが、その瞳の奥には、誇り高き剣聖を泥にまみれさせようとする冷酷な愉悦が宿っている。

ルーグ「代わりに、君にもこの闘技大会に出てもらうとしよう」

宗一郎「……意味がわからぬ。なぜそれがしの罪を許すことが、闘技大会に出ることと帰結する?」

宗一郎の声には、武人としての枯れ果てぬ鋭さが混じる。帝国の「最強」を担ってきた自負があるからこそ、パンとサーカスの見世物にされることの屈辱が、鎖以上に彼を締め付けていた。

ルーグ「答えを焦るな、宗一郎」

ルーグは静かに、だが絶対的な支配者の重圧を持って宗一郎を制した。

そして、次に語られた内容は、剣を魂とする「剣聖」を絶望させるには充分すぎるものだった。


ルーグ「宗一郎。残念なことに、私への反逆は不問にするが、帝国の規律に則った『罰』は受けてもらわねばならない。だからね……。君を縛っているその魔封じの鎖。それを解くことはできないが、そのまま大会に出て対戦相手に勝ってみせろ。……それができれば、罰さえも帳消しにしてあげよう」

宗一郎「……貴様……正気か……?」

宗一郎の眼光が、驚愕と激しい怒りに揺れた。

帝国剣聖を、鎖に繋がれたまま、魔力を封じられたまま戦わせる。それは単なるハンデではない。

魔封じの鎖は、剣聖の超常的な身体能力を支える魔力循環を根こそぎ遮断し、彼をただの「老いた人間」へと引き摺り下ろす。四肢の自由を奪われ、魔力という鎧も剥がされた状態で、殺意に満ちた猛者たちの前に立てというのだ。

「剣聖」という称号を、魔力も使えぬまま鎖に繋がれて蹂躙される「哀れな標的」へと貶める。

ルーグの「プランB」。それは、ジャッカルを逃した退屈を、最強の一角であった宗一郎の尊厳を徹底的に破壊することで埋めようとする、悪魔のような見世物であった。

ルーグ「ああ……。忘れていたけれど、君にはシード枠を用意している。順当にいけば、ドルネかロックと当たることになるだろうね」


宗一郎の戦慄に満ちた問いに答えることなく、ルーグは淡々と、そして残酷な事実を積み上げていく。その内容は、すでに地獄にいた宗一郎をさらなる深淵へと叩き落とすものだった。

かつての同胞、共に帝国最強の「牙」として肩を並べた者たちとの殺し合い。

それも、四肢を縛られ、魔力を奪われ、得物すら持たぬ無抵抗に近い状態で。それはもはや「対戦」などではない。ルーグが仕組んだ、執拗で陰湿な死の儀式に他ならなかった。

ルーグ「さすがに、剣聖が相手で鎖に繋がれているんだ。ドルネやロックにも、魔力の出力を抑えて戦うように指示はしておくさ。……そうでなくては、フェアじゃないだろう?」

わざとらしく、さも公正な審判であるかのように語るルーグ。その瞳の奥には、かつての英雄がかつての仲間に、一方的に蹂躙される光景を夢見る卑劣な期待が透けていた。

宗一郎「なんと……悪趣味な……ッ!」

宗一郎の絞り出すような声が、屈辱に震える。

ルーグ「許せ、宗一郎。これでも最大限の譲歩だよ。これで君が勝てば、重大な軍律違反を犯した君が赦免されるのも、民が納得するというものだろう? 剣聖は、いつだって民の模範でなくちゃいけないんだからね」

宗一郎「貴様が……『剣聖』を語るなあああッ!!!」


あまりにも厚顔無恥なルーグの言葉に、宗一郎の五臓六腑が煮えくり返った。咆哮と共に、男は縛られた身体を弾ませ、目の前の傲慢な支配者へと飛びかかろうとした。

だが、魔力循環を断たれ、冷たい獄中で飢えに苛まれてきた身体は、あまりにも脆かった。


ドサッ……。


ルーグは最小限の動きでそれをかわすと、たやすく宗一郎を地に伏せさせ、その頭部を冷酷に片足で踏みにじった。貴賓室の柔らかな絨毯に、宗一郎の顔が深く沈み込む。

ルーグ「黙れよ、罪人。本来であれば、私が直々にその首を落としてやってもいいんだ。だが……お前如きに、私の剣を使う価値すらない」

宗一郎の耳元で、地の底から響くような、氷よりも冷たい声が囁かれる。

ルーグ「せいぜいその命、民衆の前で無様に、滑稽に散らしてみせろ。帝国軍に刃向かうことが、どれほど愚かで絶望的なことか……。愚民どもに知らしめる『教訓』として、最後の奉公をさせてやるよ」

頭上から降りかかる絶対的な悪意の重圧。

かつては帝国の希望であった剣聖・宗一郎は、冷たい床の上で、自身の尊厳が砕け散る音を聞いていた。


ルーグ「衛兵!」


扉の向こう、待機していた手下どもへ向けて、ルーグの鋭い呼び声が響く。

その声に弾かれたように重厚な扉が勢いよく開き、武装した衛兵たちが雪崩れ込んできた。

衛兵「お呼びでしょうか、ルーグ様!」

ルーグ「話は終わった。この男を闘技場の『罪人待機室』へと連行せよ。……拘束は一切解くな。時が来れば、私が直々に合図を送ろう」

ルーグは足元に伏せさせた宗一郎を、まるで使い古された道具のように見下ろしたまま告げる。

衛兵「はっ! 直ちに!」

衛兵たちは最敬礼の構えで命を拝受し、屈辱と怒りに我を忘れ、ただ微かに震えることしかできぬ宗一郎の脇を乱暴に抱え上げた。

ズルズルと鎖を引きずり、連れ出されていくかつての剣聖。そのすれ違い際、ルーグは獲物の耳元をなぞるような、湿った笑みを含んで囁いた。

ルーグ「……最後の時を、精一杯噛み締めるといい」


ーーばたんッ。

大きな、絶望的な音を立てて扉が閉まり、貴賓室には再び静寂が戻った。

ルーグは優雅な所作で椅子へと戻り、深く背もたれに身を預ける。

眼下の砂舞台では、ちょうど二回戦・第二試合が終了したところだった。一之瀬斗真の、あまりにも静かで、それでいて圧倒的な勝利。観客の歓声は地鳴りのように響いているが、ルーグの意識はすでにその先を捉えていた。

ルーグ「さて、仕込みは十全。あとはドルネに『指示』を出すだけだね……」

愛剣の柄を愛おしそうに撫でながら、ルーグの口元からは自然と、抑えきれない笑みが溢れ出した。

窓から差し込む陽光に照らされたそのかたちは、もはや帝国の象徴たる高潔な騎士などではない。己の欲望と悪意のために世界を弄ぶ、「悪逆の王」そのものの影を帯びていた。

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