王子の毒杯 ―剣聖処刑のシナリオ―
実況『――出揃ったッ! 帝国、そして辺境より集いし、選ばれし二十名の英傑たち! 今、魔法スクリーンにその輝かしき名が刻まれるッ!!』
実況の絶叫が、すり鉢状の巨大闘技場を物理的な衝撃波となって駆け抜ける。
数万の観客が踏み鳴らす地鳴りのような歓声が、貴賓室の分厚い防音ガラスを微かに震わせていた。
空中投影された魔力モニターには、黄金の文字で本戦出場者のリストが並ぶ。
そこには、帝国の領土拡大を阻む最大の障壁「ジャッカル」の主力、ギークとジャックの名も刻まれていた。
彼らを引き摺り出した。
その事実だけで、この武闘会を開いた興行的な意味も、軍事的な収穫も上々と言えるだろう。
しかし、闘技場のほぼ中央。特等席に鎮座するルーグは、組んだ指を離すことなく、冷徹な双眸でモニターを睨みつけるように見ていた。
ルーグ(おかしい……。)
胸中に生じている感情は、本来自身が感じるはずだった「計画の完遂への高揚」とは程遠い。もとより、全戦士のリストを事前に見た時から感じていた違和感。
だが、実際に大会の幕が上がり、大衆の前にその名が晒されてもなお、ルーグの胸中を占めるのは一つの巨大な疑念であった。
ルーグ(なぜ……いない……。)
彼が訝しんでいるのは、ジャッカルのメンバーが欠けていることではない。
むしろ、ギークとジャックという二人の主力を釣り出すことには成功している。だが、ルーグがこの盤面で最も「消したかった」本尊が、どこにも見当たらないのだ。
ルーグ(リヒト・スカーレット……。君は今、どこにいるんだい? なぜ、この二十名の中に君がいない……?)
帝国にとって最も障害となり得る組織、ジャッカル。
その実態はリヒトという絶対的な個に収束するため、彼さえ潰せてしまえば、帝国の覇道は成り、あとはどうとでもなるのだ。
そのために、彼が喉から手が出るほど欲しがるはずの「帝都への侵入切符」としてこの大会を用意してやったというのに。
ルーグ(……ああ、そうか。君からすれば、この大会も、私が用意した至高の舞台すら……表立って現れるほどの価値はない、ということか……?)
帝国が差し出した極上の「餌」を、一瞥もせず踏み躙られたような屈辱感。
あるいは、自分の読みが届かない場所に彼が潜んでいるという不気味な予感。
ルーグ(このまま彼が現れなければ、父上に申し開きができないね。……となれば、無理にでも誘き出すか? にしても、どうやって……。しかし、主力二人は誘い出せている。今はそれをよしとするか……? ……いや、足りないね。それでは私の溜飲が下がらない。)
モニターに並ぶ二十名の名前。
世間が強者と称える彼らも、ルーグにとってはリヒトという「真の害獣」を引きずり出すための、無価値な消耗品に過ぎない。
歓喜に沸く数万の観客を余所に、ルーグは一人、深い思考の渦に沈んでいく。
実況のコールと共に次のトーナメントが始まろうとする中、彼はリストの奥に潜む「不在の王」の影を追い、次なる冷酷な一手を探り始めていた。
ルーグ(リヒトさえ出ていれば多少見ものではあったが……出ないとなれば、この場にあまり価値はないね。なら、この舞台……あいつを断罪する場として使ってしまうか?)
ルーグの瞳に、獲物を追い詰める捕食者のような怪しい光が宿る。
脳裏に浮かぶのは、つい先日、愚かにも自身に楯突いてきた男の顔だ。
帝国の最高戦力、剣聖二席。
その処遇は慎重に行わなければならなかった。だが、格上の剣聖に反骨の刃を向けるという暴挙は、軍部においては絶対的な規律違反。庇う余地もない重罪であり、その存在はすでに帝国という歯車を狂わせる「不備」でしかない。
帝都の民にとって、剣聖は神にも等しい守護神。その象徴を処断するには、本来なら民を納得させる相応の道理が必要となる。しかし、ルーグの薄い唇が不気味に歪んだ。
ルーグ(だが……どうせこの先消えゆく命。ならば多少、道理が通ってなくともなんとかなるだろう。)
彼の中に、守るべき民への慈悲などひとかけらも存在しない。
大衆は結局のところ、より強き者に焦がれ、力なき者は強きものに従うより他にない。
その真理を熟知しているルーグは、さらに残酷な処遇を思いつく。
ルーグ(……ドルネかロックに処分させてしまおう。ロックがいいね。ドルネは勝ち進んで、最後は私が直接処罰せねばなるまいし……。)
あろうことか、剣聖二席という至高の存在を、同じ地位にある者の手で「処理」させる。
それは騎士の誇りを踏みにじり、英雄同士を共食いさせるという、吐き気を催すほどに邪悪な思考であった。
そして、三席のドルネもまた、ルーグの視界の中では先日の失態を処断されるべき標的に過ぎない。
リヒトという王を欠いた盤面を、彼は自身の溜飲を下げるための、巨大な断頭台へと強引に書き換えようとしていた。
ルーグは満足げに背もたれに体を預けると、深い思考の渦へと沈んでいった。
ルーグ(――さて、あとはこの盤面をどのタイミングで投下するか……という話か。)
指先で肘掛けを規則正しく叩きながら、ルーグの思考はすでに数手先、十数手先の未来を冷徹にシミュレートしていた。
眼下の魔力モニターに並ぶ二十名の名。これから始まるのは、一敗も許されない過酷なトーナメントだ。
ルーグ(……となると、ロック、ドルネ、この二人が順調に勝ち進んだ場合、準々決勝までで十三試合ほど……。なら、この辺りで彼を投入して処断させるとしようか。)
口元に浮かぶのは、慈悲など微塵も感じられない、計算の完了を告げる無機質な笑みだ。
その瞳には、かつて部下として信頼を置いていたはずの剣聖たちや、今まさに帝国の盾として立ち塞がろうとしている現剣聖たちに対する情など、欠片も宿っていない。
彼らにとっての誉れある死や誇りなど、ルーグの天秤の上では一グラムの価値も持たなかった。
ルーグ(リヒトを誘い出せなかったことは想定外だったが、ジャッカルの幹部を二名消し、我が国の内部に巣食う反乱分子も始末できるとなれば、我が国の益につながるだろう。父上への報告としても、メンツは保たれる……。)
彼の内面で渦巻く策謀。
この武闘会はもはや、最強を決める聖域などではない。
いかにしてジャッカルの牙を抜き、いかにして帝国軍の不純物を排除し、いかにして自身の地位と帝国の版図を盤石なものにするか。
そのための、巨大な「清算の舞台」に過ぎなかった。
父への報告書に記される「上々の戦果」。その裏で流される剣聖たちの鮮血も、民衆の抱く幻想の崩壊も、ルーグにとっては必要経費という名の瑣末な記号に過ぎないのだ。
ルーグは満足げに目を細めると、まるでチェスの駒を片付けるかのような手つきで、思考の海へと再び沈んでいった。
ーーーーーーーーーーーーーー
陽光の降り注ぐ地上で、観衆が生き残りをかけた壮絶なサバイバルの余韻に浸り、本戦出場者の名に熱狂していたその頃。
陽の光さえ届かぬ帝都の地下迷宮、湿った冷気が立ち込める暗がりに、リヒト、リュド、そして零遺衆の面々が集結していた。
揺らめく松明の火が、各々の顔に深い陰影を落とす。
そこにあるのは、私欲のための闘争ではなく、果たすべき大義のための静かな殺気だった。
リヒト「俺は予定通り、警備の厚いとされる北を叩く。リュドの部隊は西を、ノウス率いる部隊は東をそれぞれ揺すってくれ。北さえ落とせれば、帝都に張り巡らされている結界は解ける。そうなれば、外で待機しているジャッカルの本体が一気に雪崩れ込み、王城を落とせるからな。」
リヒトの声は低く、だが迷宮の奥深くまで響くような確かな重みを持っていた。
リュド「了解した。北には兵士一人、指一本触れさせんと誓おう。」
ノウス「お任せください……。過日の失態、この任にて必ずや取り返してみせます。」
各隊の頭領たちが、リヒトの言葉を血肉にするかのように深く頷く。
彼らの背後に控える構成員たちも、声を出さずともその瞳に静かな闘志を宿し、主君への絶対的な忠誠を示していた。
その光景を真っ直ぐに見据えたリヒトは、満足げに、そして一段と力を込めて言葉を継いだ。
リヒト「わかっているとは思うが、今日の作戦において実力を出し惜しむ必要はない。先日、我らが受けた屈辱、中立国の民の無念……。それら全てを晴らすために、俺たちは牙を研いできた。全力で取り掛かれ。だが――」
昂ぶる熱量をあえて断ち切るように、リヒトは一度言葉を切り、そこに集う同胞たち一人一人の顔を、慈しむようにゆっくりと見渡した。
リヒト「命は落とすなよ。危なくなれば引くことを許す。死んでしまえば、この先の景色は見られないからな。」
その瞬間、地下迷宮の空気は一変した。
「捨て石」であることを強いる帝国の軍規とは真逆の、個の命を尊ぶ王の言葉。
リュドをはじめ、零遺衆の全ての者の目に、覚悟を超えた力強い光が宿った。
彼らにとってリヒトは、単なる指揮官ではない。共に地獄を歩み、共に未来を掴むための「心臓」そのものなのだ。
リヒト「……行くぞ。帝国の傲慢を、その根底から叩き潰す。」
短く鋭い号令と共に、影たちは音もなく暗闇へと散っていく。
帝都崩壊へのカウントダウンが、今、人知れず始まった。
リュドやノウスたちと別れたリヒトは、影そのものと化して地下迷宮の深淵を駆け抜けていた。
二度目の潜入。
網の目のように張り巡らされたルートは、すでに彼の脳内に完璧な地図として刻まれている。迷いはない。
今回の作戦には、帝国の戦力を根底から削ぎ落とすという目的も含まれている。
リヒトは道中で会敵する帝国兵に対し、一切の躊躇なくその刃を振るった。魔力の余波すら残さぬ神速の斬撃。兵士たちは何が起きたのかを理解する暇もなく、声も上げられずに闇へと沈んでいった。
リヒト「さて……。思いの外早く着いたな。」
地下迷宮をものの数刻で踏破し、ついに北の魔石塔へと辿り着いたリヒトが、薄暗い回廊の出口からその全貌を仰ぎ見る。
しかし、視界に飛び込んできた塔前の広場は、以前の潜入時とは明らかに様相を変えていた。そこには、重厚な鎧に身を包んだ数十名の精鋭兵が、鉄のカーテンの如く陣を敷いていた。
リヒト(なるほど……。ノウスとの脱出以降、さらに警備を強めたか。)
瞳を細め、冷静に敵の配置を分析していく。
リヒトからすれば、目の前に控える数十の精鋭など、路傍の小石も同然だ。
一息に殲滅することなど造作もない。だが、この作戦の本質は「力」ではなく「刻」にある。
武闘会の喧騒に合わせて結界を落とさなければ、本体との連携が乱れる。そして何より、ここでの異常が地上へ、あるいはルーグの耳へと即座に届くこと。
それこそが、この作戦における唯一にして実質的な「敗北条件」だった。
リヒト(武闘会はギークたちを信じるとして……この塔をあまりに早く制圧しても意味がない。だが、以前のノウスの話ではかなりの高さがあるから、あの上からなら闘技場も見えるか……?)
手元には、漆黒の魔力を凝縮して錬成した「魔成剣」
リヒトはそれを、退屈な遊びでもするかのように指先でクルクルと回しながら、絶好のタイミングを測る。
地上で数万の観客が喝采を上げ、ルーグが冷酷な笑みを浮かべているその真下。
一振りの凶刃が、帝国の命運を断ち切る瞬間を静かに待っていた。
リヒト(決めた。迅速に塔を落とし、闘技場の状況に合わせよう。それが一番効率がいい。)
方針を固めたリヒトは、潜んでいた影からゆっくりと立ち上がった。固まった身体を解きほぐすように大きく背伸びをし、これから始まる「作業」のために深く、静かに呼吸を整える。その双眸には、もはや迷いも慈悲も欠片ほども残っていない。
そして、広場の中心、松明の光が届く境界線にリヒトがその姿を現した。
兵士長「貴様ッ、何者だぁぁッ!!」
静寂を切り裂く兵士長の怒号。数十の槍と魔導銃、剣の切先が一斉にリヒトへと向けられ、殺気立った空気が広場を包み込む。
しかし、向けられた無数の武器を前にしても、リヒトの表情には薄い笑みさえ浮かんでいた。
リヒト「安心しろ。」
その声は驚くほど穏やかだった。リヒトは降参でもするかのように両手を軽く上げ、無防備な姿を晒しながら、悠然とした足取りで歩を進める。一歩、また一歩。死地へと自ら踏み込むその足音は、奇妙なほどに軽く、響かない。
リヒト「ただの侵入者だ。」
その言葉の残響が空気に溶け切るよりも早く、兵士長の命は断たれた。
誰もが「歩いていた」と認識していたはずだった。だが、瞬きをした次の瞬間には、リヒトの姿は数メートルの距離を無視して兵士長の背後へと抜けていた。
すれ違いざまの一閃。
兵士長「なっ……かはっ……!」
声にならない断末魔が漏れ、兵士長の喉元から鮮血が噴き出す。噴水のように舞い上がる赤黒い飛沫を背に、泥人形のように崩れ落ちていく指揮官の姿。それは残された兵士たちにとって、理解を超えた「死」そのものの具現であった。
兵士「ひ、人、侵入者だッ! 構えろ! 撃てぇぇッ!!」
悲鳴に近い命令が飛び交うが、兵士たちの足は震え、指先は凍りついている。
ここで逃げ出せば、帝国の苛烈な軍律によって待っているのは処刑か、あるいはそれ以上の地獄。しかし、目の前に立つ「死神」に挑むのは、今この瞬間に肉塊へと変えられることを意味していた。
まさしく進むも地獄、退くも地獄。
リヒトは返り血の一滴すら浴びぬまま、手にした魔成剣を低く構え、恐怖に呑まれた羊たちの群れを冷徹な瞳で見据えた。
リヒト「……さあ、時間は限られてるんだ。手短に済ませようか。」
リヒトの言葉に、広場を埋める兵士たちは死の恐怖を骨の髄まで味わいながらも、帝国の軍律という呪縛に突き動かされて武器を握り直した。
震える手で銃を、重い剣を、そして長い槍を。彼らは本能が叫ぶ「逃げろ」という声を殺し、死神を包囲するように戦闘態勢へと入る。
口火を切ったのは、後方に控えていた魔導銃の部隊だった。
合図などない。恐怖が指先を弾かせたのか、あるいは捨て身の反撃か。魔力によって加速された無数の弾丸が、兵士たちの隊列を縫うように、中心に立つリヒトへと殺到した。
だが、リヒトはその攻撃を避けようとも、防ごうともしなかった。それどころか、視線を向けることさえしなかった。
彼の周囲に展開された圧倒的な魔力密度が織りなす「自動防御」。それはリヒトの意識とは無関係に、飛来する脅威に対し神速の反応で干渉する。
大気を震わせる衝突音と共に、魔力弾はリヒトの肌に触れることすら許されず、空中で無残に叩き落とされ、あるいは軌道を逸らして跳ね返された。
兵士「……っ!? 効いていないのか!?」
絶望的な叫びが上がる。実弾も、魔導銃の出力も、彼にとっては吹く風にすら劣る無意味なノイズ。弾丸が彼を避けるように霧散していく様は、まさに理外の光景だった。
そして、真の地獄はここから始まった。
兵士「う、おおぉぉぉッ!!」
狂乱に駆られた近接部隊の兵士たちが、槍を突き出し、剣を振りかざして一斉に肉薄する。しかし、どれほど死力を尽くした一撃であっても、リヒトに届くことはない。
リヒトが手にした魔成剣が、夜の闇を裂くように奔った。
とてつもない質量を伴った斬撃は、帝国自慢の堅牢な槍を木の枝のように容易く両断し、その勢いのまま兵士の胴体を一文字に断ち切る。
防具など紙同然。リヒトが前へと一歩踏み出すたび、漆黒の剣閃が空を舞い、帝国の精鋭たちは物言わぬ肉塊へと変えられていった。
一人、また一人と、広場の兵士が確実に数を減らしていく。
リヒトは表情一つ変えず、まるで雑草を刈り取る農夫のような淡々とした足取りで、鮮血に染まる広場を静かに横切っていった。




