第2話:琥珀色のティータイム
季節が秋の深まりを告げるにつれ、聖ルミナス・ジパング女学院を取り囲む木々は鮮やかな赤と黄金に染まり、朝夕の冷え込みが肌を刺すようになっていた。
けれど、私にとっての放課後は、あの肌寒い季節の訪れとは正反対に、かつてないほどの濃密な熱を帯び始めていた。
週に二日、火曜日と木曜日の午後。最終のホームルームが終わりの礼を告げると同時に、私は教科書を鞄に詰め、誰よりも早く教室を後にする。
「栞さん、今日は随分とお急ぎですのね?」
「ええ、少し調べたい本がありまして」
クラスメイトの朗らかな問いかけにも完璧な笑みを保ったまま返し、小走りで旧校舎の小道へと滑り込む。
落ち葉を踏みならして辿り着いた廃温室の扉は、いつも私が開けるより先に、ほんの数センチだけ開け放たれていた。
隙間から漏れ出してくるのは、古びた土の匂いではなく、鼻腔をくすぐる芳醇なベルガモットの香り。
ギギ、と錆びた真鍮のノブを押し開けると、木漏れ日のカーテンの向こうで、待ち人はすでに湯気の立つ小さな銀のポットを手にしていた。
「ごきげんよう、栞さん。今日もいい時間に来てくれたわね」
「ごきげんよう、綾乃先輩。お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ、ちょうどお湯が沸いて、茶葉が開ききったところよ。さあ、寒かったでしょう。早くお入りなさい」
ベンチの上には、いつの間にか持ち込まれた淡いアイボリーのテーブルクロスが敷かれ、上品なティーカップが二脚並べられていた。
学院の寄宿舎からこっそり持ち出してきたという小さなアルコールランプと魔法瓶。すべてが、この温室という秘密基地のためだけに用意された調度品だった。
「白石さん、お砂糖はひとつでよかった?」
「あ……はい、ありがとうございます」
「もう。ここでは『綾乃さん』でいいって、何度も言っているのに」
角砂糖を銀のトングで摘みながら、先輩は少しだけ唇を尖らせて私を見上げた。
本館の生徒会室で見せる、一切の妥協を許さない副会長の顔ではない。スカーフを少し緩め、耳の後ろの後れ毛を指先で弄ぶその仕草は、年相応の、けれどどこか胸を締め付けるような艶やかさを帯びていた。
「すみません、癖になってしまっていて……綾乃さん」
「ええ、よろしい」
満足そうに目を細めた綾乃先輩から、琥珀色の液体で満たされたカップを受け取る。
陶器越しに伝わってくるじんわりとした温もりと、手渡される瞬間にわずかに触れ合った先輩の指先の冷たさ。その温度差に、私の心臓はトクンと小さく音を立てた。
二人で並んで座る古びたベンチ。
カップに口をつけ、アールグレイの渋みと甘みを味わう間、温室にはただ、風がガラスの割れ目を吹き抜ける微かな口笛のような音だけが満ちていた。言葉を交わさずとも居心地が良いという感覚を、私はこの学園に入って初めて知った。
「……ねえ、栞さん」
カップをソーサーに戻しながら、綾乃先輩が静かに口を開いた。琥珀色の瞳が、温室の隅に生い茂る枯れかけた鉢植えを見つめている。
「今週末の、学園祭の準備……順調かしら?」
「はい。私のクラスは、バザーで出す手作りの栞とブックカバーの検品が終わりました。でも……生徒会の方は、連日遅くまで残られていると聞きました。綾乃さん、少しお痩せになったんじゃないですか?」
心配になって先輩の横顔を覗き込むと、彼女は薄く笑って、自分の細い手首を撫でた。
「わかるかしら。やっぱり、栞さんには隠し事ができないわね」
「無理をなさっていませんか? 講堂の音響チェックも、招待客の席順の確認も、すべて綾乃さんが一人で引き受けていらっしゃると……」
「引き受けているんじゃないわ。私がやらなきゃいけないの」
その声は静かだったが、底知れない諦念と重圧が滲んでいた。
「『さすが橘家のお嬢様ね』『橘さんが仕切ってくだされば安心だわ』……みんな、そう言って私に微笑みかけてくれる。先生方も、後輩たちも、同級生さえも。誰も私を疑わないし、誰も私の失敗を想定していない。だから、私は期待通りの『完璧な橘綾乃』でい続けなきゃいけないのよ」
先輩は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込むほど強く握られたその手を、私は思わず見つめてしまう。
「私ね、みんなが期待してくれる自分を演じるのに、少し疲れちゃうことがあるの。息の仕方を忘れてしまいそうになるのよ。……でもね、栞さん」
先輩がふっと顔を上げ、私を見た。
その瞳に宿る光は、ガラス天井から落ちる木漏れ日よりも柔らかく、切なかった。
「ここに来て、あなたと紅茶を飲んでいる時間だけは……私、ちゃんと息ができる気がするの」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
憧れの先輩。触れることすら許されないと思っていた高嶺の花。
その人が今、私の前で弱音を吐き、私という存在に寄りかかって呼吸をしている。
湧き上がってきたのは、単なる同情や憧憬ではなかった。もっと深く、熱く、輪郭の定まらない――この人を守りたいという、切実な衝動だった。
「綾乃さん」
私は気後れを振り払い、先輩の固く握られた手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「……栞さん?」
「私、特別な家柄でも、優秀な生徒会役員でもありません。綾乃さんの重荷を代わりに背負ってあげることはできないかもしれません」
先輩の冷たい指先を包み込むように、少しだけ力を込める。
「でも……ここに来る時だけは、何者でもない綾乃さんでいてください。泣きたくなったら泣いていいですし、愚痴を言いたくなったら何時間でも聞きます。私でよければ、ずっとあなたの息抜きのお手伝いをしますから」
言葉にするたびに、自分の頬が熱くなっていくのが分かった。
大胆すぎる発言だったかもしれない。身の程知らずだと笑われるかもしれない。
けれど、先輩は笑わなかった。
琥珀色の瞳を大きく見開いた後、綾乃先輩の目元がフルフルと震え、やがて零れ落ちそうなほどの大粒の涙が瞳を潤ませた。
「……ずるいわ、栞さん」
「え……?」
「そんな風に言われたら……私、あなたの前でしか生きていけなくなってしまうじゃない」
掠れた声でそう呟くと、先輩は重ねられた私の手を引き寄せ、自らの額を私の肩へと静かに預けてきた。
――トクン、トクン、と。
二人の重なる鼓動が、静かな温室に響き渡る。
肩口にかかる柔らかな髪の感触。耳元で微かに聞こえる、先輩の小さく乱れた呼吸。柑橘とハーブの香りが、逃げ場のないほど濃密に私を包み込む。
私は動くことすらできず、ただ先輩の背中にそっと手を回し、壊れやすい硝子細工を扱うように、優しくその背を撫でた。
「……あたたかいわね、栞さんは」
「綾乃さんが……冷たすぎるんです」
「そうね。ずっと凍えていたのかもしれないわ」
先輩は肩に顔を埋めたまま、私の指の隙間に、自分の細い指を滑り込ませてきた。
指と指が絡み合い、手のひらがぴったりと合わさる。
恋人繋ぎの形になったその手の温もりが、痛いほど胸の奥へと染み渡っていく。
「学園祭が終わったら……また、ここで二人でお茶を淹れましょうね」
「はい。約束です」
「ええ、約束よ」
外では冷たい秋風が吹き抜け、枯れ葉が温室のガラスをカサカサと撫でていた。
けれど、密閉されたこの小さな硝子の部屋の中だけは、冷めない紅茶の湯気と、互いの体温で満たされていた。
明確な言葉などなくても、私たちは確かに知っていた。
この秘密の共有が、すでに単なる先輩と後輩の友情などという枠組みを、遥かに踏み越えてしまっていることを。
(第3話につづく)




