第1話:放課後のサンクチュアリ
聖ルミナス・ジパング女学院の放課後を告げる鐘の音は、いつだって教会のパイプオルガンのように低く、重々しく、校舎の隅々にまで厳かに染み渡っていく。
午後四時十五分。それは私、白石栞にとって、息苦しい舞台劇の幕がようやく下りる合図でもあり、同時に別の窮屈な時間が始まる合図でもあった。
教室中を満たすのは、仕立ての良い濃紺のセーラー服の衣擦れの音と、磨き抜かれた寄木細工の床を鳴らすローファーの規則正しい響き。そして、まるで誰かに採点されているかのように美しく整えられた、高潔で控えめな令嬢たちの笑い声だ。
「ごきげんよう、栞さん。今日はこれから図書委員会ですの?」
「ええ、ごきげんよう、有栖川さん。少しだけ、新刊の整理に顔を出そうと思って」
口角を三ミリだけ引き上げ、相手の瞳の少し下あたりに視線を落とす。声のトーンは普段より半音高く、決して語尾を濁さずに。
中学から内部進学してきた生徒たちが無意識に身につけている「ルミナスの作法」を、高校から編入してきた私は、まるで異国の礼儀作法をなぞるように頭の中で反芻しながら再現する。
「まあ、熱心ですこと。それでは、明日の朝のお祈りで」
「ええ、また明日」
完璧な会釈を交わし、教室の重厚なマホガニーの扉を背中で閉めた瞬間、喉の奥に溜まっていた熱い空気が、小さな吐息となって零れ落ちた。
誰も私を苛めたりはしない。むしろ「外部から試験を突破して入ってきた優秀な白石さん」として、誰もが丁重に、けれど決して壊れない硝子越しのように接してくる。その丁寧すぎる距離感が、時に冷たい真綿のように私の呼吸を奪っていくのだ。
賑わう中央階段とは反対方向、西棟の渡り廊下へと足を向ける。
生徒会室や部活動の部室が集まる華やかな本館を離れ、敷地の北西、鬱蒼とした杉木立と手入れの行き届いていないバラのアーチを抜けた先に、目指す場所はあった。
旧校舎――数十年前に建て替えられて以来、物置や備品庫として放置されている木造二階建ての建物。そしてその裏手にひっそりと取り残された、かつての園芸部が使っていたという廃温室。
カサリ、と落ち葉を踏みしめる音だけが、静かな小道に響く。
ここは、学院の厳格な秩序から忘れ去られた唯一の空白地帯だった。蔦が網目のように絡みついた硝子張りのドームは、午後の斜光を浴びて、森の中に沈んだ難破船のように静まり返っている。
ポケットからハンカチを取り出し、湿った真鍮のドアノブを包んでゆっくりと回す。
ギギ……と微かに蝶番が錆びた音を立て、隙間から懐かしい土と青葉の匂いが鼻腔をくすぐった。
一歩足を踏み入れれば、そこは埃と陽だまりが溶け合う、私だけの聖域――そのはずだった。
「……っ」
思わず、息を呑んで足が止まる。
温室の中央、かつては色とりどりの洋ランが並べられていたであろう木製の長いベンチ。緑青の浮いたアイアンフレームの上に、誰かが横たわっていた。
高いガラス天井の割れ目から、レースのカーテンのように降り注ぐ幾筋もの光の帯。その光の粒子の中で、一人の少女が眠っていた。
濃紺のセーラー服の胸元、きっちりと結ばれているはずのスカーフは緩められ、襟元から覗く白い鎖骨が微かに上下している。何よりも目を奪われたのは、その髪だった。
普段は一分の隙もなく編み込まれ、黒のリボンで留められているはずの豊かな金糸のような栗色の髪が、今は完全に解かれ、柔らかな波を描いてベンチから零れ落ちていた。
その横顔を見て、私の心臓が激しく跳ね上がった。
(……橘、先輩……?)
橘綾乃。
この聖ルミナス・ジパング女学院で、その名を知らない生徒は一人もいない。
学院の創立にも深く関わる名門・橘家の令嬢であり、高等部二年生にして生徒会の副会長を務める人物。毎朝の礼拝で壇上に立ち、聖書を朗読するその声は澄み渡る鐘のようで、所作の一つひとつがすべての生徒の模範とされる「完璧なお嬢様」。
私のような外部生にとって、彼女は雲の上の存在であり、ステンドグラスに描かれた聖女と同じくらい遠い世界の住人だった。
その橘先輩が、埃っぽい廃温室のベンチで、無防備にまどろんでいる。
床に落ちていた枯れ枝を、私のローファーが無意識に踏み折ってしまった。
――パキリ。
静寂の中で、その音はあまりにも大きく響いた。
ベンチの上の長い睫毛が、微かに震える。
しまった、と思った時にはもう遅かった。先輩の瞼がゆっくりと持ち上がり、光を孕んだ琥珀色の瞳が、正確に私を捉えた。
「……ん……」
小さく喉を鳴らし、先輩は体を起こした。解けた髪がさらりと肩から滑り落ち、西日の光を反射して黄金色に輝く。
私は完全に硬直していた。見つかってしまったことへの恐怖と、見てはならないものを見てしまったという罪悪感、そして目の前のあまりの美しさに、言葉が喉に張り付いて出てこない。
「……あら」
先輩は細い指先で眠そうに目尻を擦り、それから周囲を見回して、最後に私を見て小さく首を傾げた。
「一年生の……白石さん、だったかしら?」
「は、はいっ……! し、失礼いたしました、橘先輩! 私、まさかどなたかいらっしゃるとは存じ上げず……すぐに立ち去ります!」
反射的に頭を下げ、逃げるように踵を返そうとした私の手首を、ふわりと柔らかな温もりが引き止めた。
「待って」
振り返ると、先輩がベンチから立ち上がっていた。
近づいて初めてわかる。彼女からは、学院指定の石鹸の香りではなく、どこか甘く切ない、柑橘とハーブを煮詰めたような微かな香水が香っていた。校則では厳禁とされているはずの、けれど彼女に驚くほど似合っている香り。
「そんなに怯えないで。驚かせてしまったのは、こちらのほうでしょう?」
「ですが……先輩の、その、お休みを邪魔してしまいましたので……」
「お休み、ね」
先輩はくすりと悪戯っぽく笑うと、解けた自分の髪を指先にくるくると巻きつけた。
「授業を一つサボって、こんなところで油を売っていた不真面目な先輩を、軽蔑したかしら?」
「め、滅相もありません! 軽蔑だなんて、そんな……!」
必死に両手を振って否定する私を見て、先輩は声を立てて笑った。いつも壇上で見せる淑やかな微笑みではない。もっと無邪気で、もっと生身の少女らしい、鈴を転がすような笑い声だった。
「ふふ、ごめんなさい。からかいすぎたわね。……ここには、よく来るの?」
「……はい。放課後、どうしても少しだけ一人になりたい時に……」
正直に答えると、先輩の琥珀色の瞳がすっと細められ、静かな理解の色が宿った。
「そう。あなたも、息が苦しくなることがあるのね」
その一言は、私の胸の最も柔らかい場所に、音もなく突き刺さった。
外部生としてのプレッシャー、周囲の完璧な品行に合わせようとすり減らしていた神経。誰にも言えなかった孤独を、この人はたった一目で見抜いてしまったのだ。
先輩はベンチに戻ると、隣のスペースをポンポンと軽く叩いた。
「立ち話も疲れるでしょう。少しだけ、お話ししていかない?」
「え……でも、私なんかが……」
「私なんかって言わないで。今、この温室にいるのは生徒会の副会長でも外部特待生でもない、ただのサボり魔の綾乃と、迷い込んできた栞さんよ」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ね上がった。
恐る恐る近づき、ベンチの端に腰を下ろす。先輩との距離は、わずか数十センチ。先輩が息を吸い込むたびに、あの甘いハーブの香りがふわりと漂ってくる。
「ここ、いい場所よね」
先輩は天井のガラスを見上げながら、独り言のように呟いた。
「誰も来ないし、誰の期待も届かない。ガラスが割れているから、風の音も鳥の声も、ちゃんと外の世界のまま聞こえるの。……本館にいるとね、自分が綺麗なガラス細工の人形になって、誰かの作った陳列棚に飾られているような気分になるのよ」
「橘先輩でも……そんな風に思うことがあるんですか?」
「当たり前じゃない」
先輩は自嘲気味に微笑み、膝の上で自分の指を組んだ。
「橘の名前に恥じないように。生徒会の鑑であるように。誰からも羨まれる理想の令嬢であるように……そうやって背筋を伸ばし続けているとね、時々、背骨がポキリと折れそうになるの。だから、ここへ逃げてくるのよ」
完璧な仮面の下に隠されていた、痛々しいほどの孤独。
学院中の生徒が憧れ、崇拝する橘綾乃という偶像の裏側で、この人はずっと一人で、この埃だらけの温室で息を潜めていたのだ。
「……私の前では」
気づけば、私は言葉を口にしていた。
「私の前では、背筋を伸ばさなくて大丈夫です。私、誰にも言いませんから。先輩がここで寝ていたことも、髪を解いていたことも、本当は少し疲れてしまっていることも」
先輩は驚いたように目を丸くし、それからじっと私の顔を見つめた。
夕暮れの茜色の光が、ガラス屋根を透過して温室全体を琥珀色に染め上げていく。沈黙が流れる中、遠くで放課後の完全下校を知らせる予鈴が鳴り響いた。
「……ふふ」
先輩の唇が、柔らかく弧を描いた。
彼女は身を乗り出すと、私の顔にそっと自分の顔を近づけた。触れ合いそうなほど至近距離で見つめ合う瞳に、私の呼吸が止まる。
「約束よ、栞さん。――ここでのことは、私たち二人だけの秘密」
先輩の細く冷たい指先が、私の小指にそっと絡められた。
指先から伝わる微熱が、電流のように全身を駆け巡っていく。
「また、ここに来てもいいかしら? あなたさえ良ければ……今度は、美味しい紅茶でも淹れるわ」
「……はい。喜んで」
私が頷くと、先輩は満足そうに目を細め、ほどけた栗色の髪を指でかき上げた。
夕陽に透けるその笑顔は、どんな礼拝堂のステンドグラスよりも神聖で、そしてひどく妖艶に見えた。
私の退屈で息苦しかった女学院の生活は、この日、この埃だらけの温室の中で、音を立てて鮮やかに色づき始めていた。
(第2話につづく)




