第3話:花言葉をあなたに
三日間にわたる聖ルミナス・ジパング女学院の学園祭が、ついに幕を閉じた。
校内を埋め尽くしていた外部からの来訪者たちの喧騒も引き、講堂での閉会式を終えた生徒たちの名残惜しげな歓声が、夕暮れの校舎に遠く響いている。
私は教室の片付けを終えると、誰にも気づかれないよう足早に本館を抜け出した。
薄紅から茜色、そして濃い紫へと移り変わる秋の夕空。冷え込んできた風がセーラー服のプリーツスカートを揺らし、木々の梢をカサカサと鳴らす。
目指すのは、もちろんあの場所だった。
学園祭の期間中、実行委員長として何百人もの来客や保護者、教員たちの前で完璧な立ち振る舞いを続けていた綾乃先輩。壇上で挨拶をする彼女の背中は息を呑むほど凛々しく美しかったけれど、その細い肩がどれほどの重圧に耐えていたかを、私は誰よりも知っていた。
(早く、会いたい……)
胸の中で高鳴る鼓動を抑えきれず、落ち葉の積もる小道を走る。
旧校舎の裏手に佇む硝子のドーム。錆びついた真鍮のドアノブに手をかけ、息を整えてからゆっくりと押し開けた。
――ギギ……。
懐かしい静寂と、湿った土の匂い。
ガラス屋根を透過した夕陽が、温室全体を燃えるような黄金色に染め上げていた。光の粒子が舞うその中心に、彼女は立っていた。
「……綾乃さん」
振り返った綾乃先輩は、制服の乱れもない、いつも通りの完璧なお嬢様の姿だった。けれど、私を認めた瞬間にその琥珀色の瞳がふわりと緩み、張り詰めていた空気がほどけていく。
「栞さん。……来てくれたのね」
駆け寄る私を、先輩は柔らかな微笑みで迎えてくれた。
その顔には隠しきれない疲労の色が滲んでいたけれど、同時にすべての重責を果たし終えた清々しさが宿っていた。
「学園祭、本当にお疲れ様でした。講堂でのご挨拶、とても立派で……本当に素敵でした」
「ありがとう。みんなの前では、最後まで『完璧な橘綾乃』でいられたかしら?」
「はい。世界中の誰よりも完璧で、誇らしかったです」
私が答えると、先輩は「よかった」と小さく息を吐き、糸が切れたようにその場にしゃがみ込みそうになった。慌ててその体を支えると、先輩の細い腕が私の背中に回され、ぎゅっと抱きしめられる。
「……もう、限界よ」
耳元で囁かれた掠れ声は、甘やかで、ひどく熱を持っていた。
「ずっと、この瞬間だけを待っていたの。誰の目も届かないここで、あなたに抱きしめてもらうことだけを考えて、三日間耐えていたのよ」
「綾乃さん……」
先輩の体温と、あの柑橘とハーブの香りが私を満たしていく。
背中に回した手に力を込めると、先輩は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。言葉のない時間が、琥珀色の夕暮れの中に溶けていく。
やがて、先輩はゆっくりと体を離すと、私の手を引いて温室の最も奥、陽だまりの残る棚の前へと導いた。
そこには、一つの素焼きの鉢植えが置かれていた。茂る緑の葉の間に、小指の先ほどの可憐な白い花々が、房状になって慎ましく咲き誇っている。
「これ、覚えていてくれたかしら」
先輩は愛おしそうにその花びらを撫でた。
「ここで出会ってすぐの頃、枯れかけていたところを二人で手入れしたでしょう? もう咲かないかもしれないと思っていたのに……こんな季節に、狂い咲きしてくれたの」
「白い……ライラック、ですね」
先輩は小さく頷き、細い指先でその一房を丁寧に手折った。
そして私の正面に立つと、少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐに私の瞳を見つめ返してきた。
「栞さん、受け取ってくださる?」
「私に……ですか?」
「ええ。あなたにしか、渡せないものだから」
先輩の指先が、私のセーラー服の胸元、スカーフの結び目にそっと白い花を挿し入れる。
触れ合う距離の近さに、息が止まりそうになる。先輩の白い頬は、夕日の照り返しだけではない、淡い桜色に染まっていた。
「ライラックの花言葉を、知っているかしら」
「……いえ。勉強不足で、分かりません」
首を横に振ると、先輩はいたずらっぽく目を細め、吐息が触れ合うほどの距離まで顔を近づけた。
温室を包む夕暮れの静寂の中で、鈴を転がすような澄んだ声が、静かに落ちる。
「――『初恋の誇り』。そして、『友情を超えた愛』よ」
トクン、と胸の奥で何かが弾けた。
言葉の意味が頭に染み渡っていくにつれ、視界が滲み、目の奥が熱くなっていく。
「綾乃さん、それって……」
「学院の誰もが求める完璧な私ではなくて、弱くて、臆病で、狡い私を見つけてくれたのは、栞さん……あなただけだった」
先輩は私の両手を包み込み、自分の胸元へと引き寄せた。重なる手のひら越しに、先輩の確かな鼓動が伝わってくる。
「私はこれからも、橘家の娘として、学院の模範として生きていかなきゃいけない。この制服を着ている間は、誰にも言えない秘密のままよ。……それでも、この温室の扉を閉めた時だけは、私はあなただけの綾乃でいたい」
「……はい」
「あなたのすべてを、私に預けてくれるかしら」
溢れそうになる涙を堪えながら、私は力強く頷いた。
これ以上の答えなど、必要なかった。
「はい、綾乃さん。……私にとっても、あなたは最初で最後の、たった一人の人です」
先輩の唇が、優しく弧を描いた。
彼女は私の手を引くと、そっと額を重ね合わせてきた。触れ合う肌の温もりと、夕陽に透ける栗色の髪。
二つの影が、古びた温室の床の上に長く伸びて、一つに重なり合う。
外界の喧騒も、厳格な校則も、身分の違いも、この硝子の聖域には届かない。
夕闇がゆっくりと温室を包み込む中、私たちは二人だけの永遠を祈るように、静かに手を握り締め合っていた。
(完)




