第九話 婚約
月日は、穏やかに流れていった。
リゼリアは八歳。
ノアは十歳になっていた。
二人が顔を合わせることは、もう珍しいことではない。
月に一度のお茶会。
一緒に本を読む時間。
庭園を散歩する時間。
その全てが、リゼリアにとって当たり前の日常になっていた。
そして、その日常は――何より幸せだった。
◇ ◇ ◇
「リゼリア」
夕食後、公爵が娘を執務室へ呼んだ。
「少し話がある」
「はい、お父様」
父の向かいへ座ると、どこか嬉しそうな表情が目に入った。
「レイヴェルト公爵家から正式なお話があった」
リゼリアの心臓が跳ねる。
「正式な……?」
「ああ」
父は優しく微笑んだ。
「ノア君との婚約を進めたいそうだ」
一瞬、言葉を失った。
婚約。
ついに。
その日が来た。
「もちろん、お前の意思を一番に考える」
父は真剣な眼差しで続ける。
「まだ子ども同士だ。嫌なら断って構わない」
リゼリアは俯いた。
嫌。
そんなはずがない。
最初は、生き残るためだった。
あの人から逃げるため。
普通の人生を手に入れるため。
だから選んだ相手だった。
でも。
今は違う。
ノアと話す時間が好きだった。
ノアの笑顔を見ると安心した。
また会いたいと思った。
もっと一緒にいたいと思った。
気づけば。
『安全だから』ではなく。
『ノアだから』。
そう思うようになっていた。
「……お父様」
リゼリアは顔を上げる。
「私は」
少し照れくさくて。
でも。
自然と笑みがこぼれた。
「ノア様のお嫁さんになりたいです」
父は目を丸くしたあと、穏やかに笑った。
「そうか」
それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
数日後。
婚約の席が設けられた。
「リゼリア様」
正装姿のノアは、いつも以上に緊張していた。
眼鏡がずり落ちそうになるたび、慌てて押し上げている。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は向かい合って座る。
両家の親たちは、少し離れた場所で見守っていた。
ノアは何度も口を開きかけては閉じる。
「ノア様?」
「あ、あの……」
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
「ぼ、僕なんかで、本当にいいんでしょうか……」
その言葉に。
リゼリアは思わず笑ってしまった。
「また、それですか」
「だ、だって……」
「私が選んだんですよ?」
ノアはきょとんとした。
「え?」
「ノア様がよかったんです」
その瞬間。
ノアは固まった。
耳まで真っ赤になる。
「そ、そんなことを言われたら……」
「?」
「すごく……嬉しいです」
その笑顔は。
少しだけ照れくさそうで。
でも、とても幸せそうだった。
リゼリアも笑う。
ああ。
この人を選んで、本当によかった。
あの恐ろしい日々は、もう終わったのだ。
私はきっと。
この人と幸せになれる。
そう信じて疑わなかった。




