第六十七話 恐怖の記憶
「ノア……。」
抱き締められたまま、リゼリアは小さく名前を呼ぶ。
しかし、返事はない。
ノアの腕は震えていた。
息も乱れている。
「ノア。」
もう一度呼ぶと、ようやく腕の力が少しだけ緩んだ。
「……すまない。」
掠れた声だった。
「苦しかったか。」
「ううん。」
リゼリアは首を振る。
「大丈夫。」
その言葉を聞いても、ノアの表情は晴れない。
レオンが静かに口を開いた。
「ノア。」
「犯人は逃げた。」
「騎士団が追っている。」
ノアは短く頷く。
しかし視線は、一度もリゼリアから離れない。
「兄上。」
「後は頼みます。」
「ああ。」
レオンも何かを察したように、それ以上は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
夜会は騒然となり、中止が告げられた。
公爵家の馬車は急ぎ屋敷へ向かう。
車内は静かだった。
向かい合って座っているのに、誰も口を開かない。
やがてリゼリアが、そっと沈黙を破った。
「ノア。」
「……怪我はないか。」
返ってきたのは、その言葉だった。
リゼリアは少し困ったように笑う。
「それ、さっきから何回も聞いてる。」
「何回でも聞く。」
ノアは俯いたまま答えた。
「君が無事だと、何度確認しても足りない。」
リゼリアは胸が締め付けられる。
さっきまでのノアは、明らかに普通ではなかった。
「……怖かったの?」
その問いに。
ノアの肩がぴくりと震えた。
しばらく沈黙が続く。
馬車の車輪の音だけが響いていた。
「怖かった。」
ようやく漏れた声は、とても小さかった。
「君が倒れる姿を見た瞬間……。」
ノアは拳を強く握る。
「前世を思い出した。」
リゼリアは息を呑む。
「前世?」
「ああ。」
ノアは苦しそうに目を閉じた。
「君が俺の前からいなくなる夢を、何度も見た。」
「夢……?」
「夢じゃない。」
ノアはゆっくり首を振る。
「記憶だ。」
「前世の最後。」
「君は……俺の腕の中で息を引き取った。」
リゼリアの瞳が揺れる。
その時のことは、自分も覚えている。
けれど、ノアがどんな表情をしていたのかまでは思い出せない。
「……あの日から。」
ノアは窓の外を見つめたまま続ける。
「俺は毎日思っていた。」
「どうすれば君を失わずに済んだんだろうって。」
リゼリアは静かに耳を傾ける。
「答えは、間違っていた。」
ノアは自嘲するように笑った。
「でも、その時の俺には、それしか思いつかなかった。」
「君を危険から遠ざけること。」
「誰にも近付けないこと。」
「屋敷の外へ出さないこと。」
一つひとつの言葉が重く落ちる。
「そうすれば……。」
ノアは震える声で続けた。
「君は生きていてくれると思った。」
リゼリアは何も言えなかった。
前世で自由を奪われた理由。
それは愛ではなく――。
失うことへの恐怖だった。
もちろん、それは許されることではない。
それでも。
ノアの震える声を聞いたリゼリアは、初めてその狂気の始まりに触れた気がした。
馬車は静かに、公爵家の屋敷へと到着した。




