第六十二話 一曲だけ
ゆったりとした音楽が流れ始める。
ノアはリゼリアの前で立ち止まると、優雅に一礼した。
「踊っていただけますか?」
リゼリアはくすりと笑う。
「喜んで。」
ドレスの裾を摘み、礼を返す。
ノアが右手を差し出すと、リゼリアはその手をそっと重ねた。
手を取った瞬間。
ノアは一瞬だけ表情を和らげる。
「緊張してる?」
リゼリアが尋ねる。
「ああ。」
ノアは苦笑した。
「君が自分から手を取ってくれるたびに、まだ夢じゃないかと思う。」
「大げさね。」
「本気だ。」
リゼリアは照れ隠しに笑う。
「そういうところ、本当に変わらないわ。」
ノアはリゼリアの腰へそっと手を添える。
その動きはとても自然だった。
けれど、リゼリアの肩がわずかに強張る。
ノアはすぐに気付き、距離を取ろうとした。
「すまない。」
「……大丈夫。」
リゼリアは小さく首を振る。
「びっくりしただけ。」
そう言って、自分から一歩近付く。
「踊りましょう。」
ノアは安心したように微笑んだ。
「ああ。」
二人はゆっくりと踊り始める。
足取りは穏やかで、自然と息が合っていた。
「前より上手になった?」
リゼリアが尋ねる。
ノアは少し考えてから笑う。
「いや。」
「君は最初から上手だった。」
「お世辞でしょう?」
「違う。」
「俺が見惚れていただけだ。」
「もう。」
リゼリアは呆れたように笑う。
「今日は前より楽しい。」
その言葉に、ノアは目を見開いた。
「……そうか。」
嬉しそうに微笑むノアを見て、リゼリアも自然と笑みがこぼれる。
「前はね。」
「踊ることより、早く終わってほしいって、そればかり考えていたの。」
ノアは静かに耳を傾ける。
「でも今日は違う。」
「ちゃんと私のことを見てくれてる。」
「私の気持ちを考えてくれてる。」
「だから、怖くない。」
ノアは一瞬目を閉じた。
胸の奥が痛む。
前世では、その当たり前のことができなかった。
「ありがとう。」
ノアは静かに呟く。
「もう一度、君と踊る機会をくれて。」
リゼリアは少し照れながら笑った。
「一曲だけ、だからね。」
「ああ。」
「十分だ。」
曲は終わりへ近づく。
二人は最後まで歩幅を合わせ、美しく礼を交わした。
周囲から温かな拍手が送られる。
「本当にお似合いのお二人ですわ。」
近くにいた貴婦人が微笑む。
「ありがとうございます。」
リゼリアは自然に笑顔で応じた。
その姿を見たノアも、小さく微笑む。
以前なら想像もできなかった。
リゼリアが心から笑い、自分の隣に立っている。
それだけで十分だった。
その時だった。
「ノア。」
落ち着いた男性の声が響く。
ノアが振り返る。
「兄上。」
そこには、ノアによく似た面影を持つ青年が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。




