第五十話 眠れない夜
その夜。
リゼリアは何度も寝返りを打っていた。
「……眠れない」
目を閉じれば、昼間のことを思い出す。
街で手を繋いだこと。
頬へ口づけをしたこと。
そして。
「キスしてもいいか?」
許可を求めたノアの声。
「もう……」
頬が熱くなる。
あんな風に大切にされたことなんて、今までなかった。
◇ ◇ ◇
コンコン。
控えめなノックが響く。
「リゼ」
ノアだった。
「まだ起きているか?」
「……うん」
扉がゆっくり開く。
「眠れないのか?」
「少しだけ」
ノアは部屋へ入ると、温かい湯気の立つカップを差し出した。
「眠りやすくなる薬草茶だ」
「ありがとう」
受け取ると、優しい香りがふわりと広がる。
一口飲む。
「おいしい」
「よかった」
ノアは安心したように笑った。
「少しだけ話そうか」
リゼリアは小さく頷く。
二人は窓際の長椅子へ並んで腰を下ろした。
窓の外には月明かりを映す湖。
静かで、穏やかな夜だった。
「リゼ」
「なに?」
「今日、楽しかったか?」
少し迷ってから答える。
「……楽しかった」
その言葉は嘘ではない。
ノアは嬉しそうに目を細めた。
「それを聞けて安心した」
「でも」
リゼリアは視線を落とす。
「どうして、そんなに優しいの?」
ぽつりと零れた本音。
「私は逃げたのに」
「あなたを傷付けたのに」
「どうして怒らないの?」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
「怒っても」
「君が傷付くだけだ」
その答えはあまりにも自然だった。
「俺は」
ノアはリゼリアを見つめる。
「君に笑っていてほしい」
「それだけだ」
リゼリアは胸が締めつけられた。
この人の言葉に嘘はない。
だから困る。
だから苦しい。
「……リゼ」
ノアがそっと手を伸ばす。
「手を貸して」
リゼリアは素直に右手を差し出した。
ノアはその手を両手で包み込む。
「冷えてるな」
大きな手がゆっくりと温めてくれる。
不思議と安心する温もりだった。
「今日は」
ノアが優しく微笑む。
「ここまでにしておく」
「え?」
「このままだと」
少し照れたように笑う。
「君を離したくなくなる」
リゼリアは思わず笑ってしまった。
「もう離してないじゃない」
一瞬、空気が止まる。
ノアは驚いたように目を瞬かせたあと、小さく吹き出した。
「確かに」
二人は顔を見合わせて笑う。
こんな風に笑い合ったのは、いつ以来だろう。
ノアは名残惜しそうに手を離すと、立ち上がった。
「おやすみ、リゼ」
「おやすみ」
扉の前まで歩いたノアは、ふと立ち止まる。
「そうだ」
「ん?」
「明日は湖で舟に乗ろう」
「舟?」
「ああ」
ノアは優しく笑う。
「君に見せたい景色がある」
そう言い残し、部屋を後にした。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、リゼリアは自分の手を見つめた。
さっきまでノアに包まれていた右手。
そこにはまだ、彼の温もりが残っていた。
その温もりを振り払うように胸へ抱き寄せながら、リゼリアは小さく目を閉じる。
――この人を好きになってはいけない。
何度そう言い聞かせても。
その決意は、少しずつ揺らぎ始めていた。




