第四十五話 別邸の夜
夕暮れ。
馬車は湖のほとりに建つ別邸へ到着した。
「お帰りなさいませ」
使用人たちが一斉に頭を下げる。
白い石造りの屋敷。
窓からは夕日に染まる湖が見え、庭には色とりどりの花が咲いていた。
「綺麗……」
思わず本音が漏れる。
ノアは嬉しそうに微笑んだ。
「気に入ってくれたか?」
「……うん」
リゼリアは頷く。
景色だけなら、本当に素敵な場所だった。
◇ ◇ ◇
夕食後。
二人は湖へ続くテラスに出ていた。
夜風が心地よく髪を揺らす。
月明かりが湖面に映り、まるで宝石を散りばめたように輝いていた。
「寒くないか?」
「大丈夫」
そう答えた瞬間。
ふわり、と肩に何かが掛けられた。
「え……」
ノアの上着だった。
「風邪を引く」
「でも、ノアは?」
「俺は平気だ」
リゼリアは上着をぎゅっと握る。
温かい。
まだノアの体温が残っていた。
「ありがとう」
素直に礼を言うと、ノアは目を細めた。
「その一言だけで十分だ」
二人の間に静かな時間が流れる。
誰も話さない。
それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
「リゼ」
「何?」
「こっちへ」
ノアが手招きする。
近付くと、彼は一本の小さな花を摘んだ。
白く可憐な花。
「動くな」
「え?」
そっと耳元へ手が伸びる。
花を髪へ挿しただけなのに。
指先が耳をかすめ、リゼリアの肩がぴくりと震えた。
「似合う」
ノアは少し見惚れたように笑う。
「やっぱり白い花だったな」
「そんなに見ないで……」
恥ずかしくて目を逸らす。
「綺麗だから仕方ない」
さらりと言われ、リゼリアは言葉を失った。
(この人……)
こんなことまで自然に言えるなんて。
ずるい。
「照れたか?」
「照れてない!」
「顔が赤いぞ」
「夜だから分からないでしょう!」
「分かる」
ノアはくすりと笑う。
「君のことなら」
その言葉に胸が高鳴る。
悔しい。
怖いはずなのに。
こんな一言で心が揺れるなんて。
その時だった。
ふわり、と風が吹く。
髪に挿した花が落ちそうになる。
「あ……」
ノアは素早く花を受け止めると、もう一度リゼリアの髪へ挿し直した。
二人の距離はほんの数センチ。
目が合う。
月明かりに照らされた金色の瞳が、優しく細められる。
「リゼ」
低く甘い声。
「今日はもう逃げないか?」
冗談のような口調だった。
けれど、その瞳だけは笑っていない。
リゼリアは一瞬だけ息を止める。
そして、小さく微笑んだ。
「……今日は、ね」
その答えに、ノアは満足そうに笑った。
「それでいい」
そう言って、そっとリゼリアの額へ口づけを落とす。
昨日のような不意打ちではない。
優しく。
慈しむような口づけ。
「おやすみ、リゼ」
リゼリアは額に残る熱を押さえながら、胸の鼓動をごまかすように小さく頷いた。
「……おやすみ」
逃げなければならない。
そう思っているのに。
ノアの優しさに触れるたび、その決意が少しずつ揺らいでいく自分がいた。




