第四十四話 膝の上
馬車へ戻る道。
リゼリアはノアの半歩後ろを歩いていた。
逃げようと思えば、まだ逃げられるかもしれない。
そう考えた瞬間。
「リゼ」
ノアが振り返る。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
嘘だった。
心臓はまだ速く鳴っている。
さっきの口づけが頭から離れない。
◇ ◇ ◇
馬車へ乗り込むと、扉が閉まった。
ガタン、と車輪が動き出す。
狭い車内。
向かい合って座る二人。
沈黙だけが流れる。
「……怒らないの?」
リゼリアは耐えきれず口を開いた。
ノアは本を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。
「何をだ?」
「逃げたこと」
「怒ってほしいのか?」
「そういう意味じゃない!」
リゼリアは思わず声を荒らげる。
「普通なら怒るでしょう!」
ノアは少し考え、小さく笑った。
「怒っても、君は逃げる」
「……」
「なら、怒る意味がない」
あまりにも自然な答えだった。
「次は、もっと上手く逃げようとするだけだろう?」
見透かされている。
リゼリアは何も言えなかった。
「だから」
ノアは席を立つ。
「逃げたくなくなるくらい、大切にする」
「っ!」
ノアが隣へ腰を下ろした。
近い。
逃げようと身体を引いた瞬間。
「おっと」
馬車が大きく揺れる。
「きゃっ!」
バランスを崩したリゼリアの身体が、そのままノアへ倒れ込んだ。
気付けば。
膝の上に座る格好になっていた。
「……え」
リゼリアの思考が止まる。
「ご、ごめん!」
慌てて立ち上がろうとする。
しかし。
ノアの腕が、そっと腰へ回った。
「そのままで」
「で、でも……!」
「馬車が揺れる」
低く落ち着いた声。
「危ない」
確かに。
また揺れれば転ぶかもしれない。
それでも。
「恥ずかしい……」
顔が熱い。
ノアは小さく笑った。
「顔が真っ赤だ」
「見ないで……」
リゼリアは思わず胸へ額を押し付ける。
すると。
ノアの身体がぴたりと止まった。
「……リゼ」
掠れた声だった。
「それ以上は駄目だ」
「え?」
顔を上げると。
ノアは苦笑していた。
「今は我慢すると約束した」
その言葉で意味を理解し、リゼリアは一気に耳まで赤くなる。
「ち、違っ……!」
「分かってる」
ノアは優しく髪を撫でた。
「君は何も悪くない」
その手は、あまりにも優しかった。
まるで壊れ物に触れるように。
「もう少しだけ」
ノアは静かに囁く。
「このままでいてくれ」
リゼリアは抵抗しようとした。
なのに。
不思議と身体に力が入らない。
温かい。
悔しいほど安心する。
(駄目……)
こんな風に思ってしまったら。
また前世と同じになる。
そう分かっているのに。
馬車の揺れに身を任せながら、リゼリアは目を閉じた。
その様子を見つめるノアは、小さく安堵の息を漏らした。
まるで、大切な宝物がようやく腕の中へ戻ってきたかのように。




