第四十三話 迎えに来た
「……来ないで」
リゼリアは震える声で言った。
逃げたい。
けれど、足が動かない。
路地の入口に立つノアは、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
眼鏡は外され、金色の瞳が真っ直ぐリゼリアを映していた。
「迎えに来た」
低く甘い声。
その一言だけで、身体が震える。
「嫌……」
リゼリアは後ずさる。
だが、すぐに背中が壁へぶつかった。
逃げ場はない。
ノアはあと一歩の距離で足を止めた。
怒鳴られる。
責められる。
そう思っていた。
しかし。
「……見つかってよかった」
ぽつりと零れた声は、どこか安心したように震えていた。
「え……?」
「少しだけ」
ノアは苦く笑う。
「君を見失った」
その笑みは、今まで見たことがないほど弱々しかった。
「本当に、焦った」
リゼリアは言葉を失う。
焦った?
この人が?
「護衛が追おうとしたけど止めた」
ノアは静かに言う。
「君は人混みへ逃げた」
「大勢で追えば、君が転ぶかもしれない」
「怖い思いをするかもしれない」
一歩、近付く。
「だから俺が来た」
あと半歩。
二人の距離は、もう手を伸ばせば触れられるほどだった。
「……どうして」
リゼリアの瞳に涙が滲む。
「どうして、そんなに私なの……」
ノアは答えなかった。
代わりに、そっと右手を伸ばす。
びくり、とリゼリアの肩が震えた。
「怖がらせたな」
その手は頬には触れず、乱れた髪を耳へ掛けるだけだった。
優しい仕草。
昔から変わらない。
「でも」
ノアは静かに笑う。
「逃げた君が悪い」
責めるような口調ではない。
困った子どもに言い聞かせるような声音だった。
「っ……」
「君がいなくなった数分が」
ノアはゆっくり息を吐く。
「何年にも感じた」
その言葉に偽りはなかった。
だからこそ。
リゼリアは怖かった。
ノアはそっと両手でリゼリアの頬を包む。
「リゼ」
親指が涙を優しく拭う。
「もう、逃げるな」
「……嫌」
リゼリアは首を横に振る。
「また逃げる」
震えながらも言い切った。
「何度でも」
ノアは目を細めた。
怒らない。
笑わない。
ただ、愛しそうに見つめる。
「そうか」
静かな返事。
「なら」
ゆっくりと顔を近付ける。
「そのたびに迎えに来る」
吐息が触れるほど近い距離。
リゼリアは逃げようと顔を背けた。
しかし。
ノアは追いかけることなく、そっと額へ口づけを落とした。
「……っ」
熱が伝わる。
優しく。
大切な宝物に触れるようなキスだった。
そして。
「これは」
ノアが低く囁く。
「無事に見つけられた祝いだ」
そのまま視線がゆっくりと唇へ落ちる。
「嫌なら、押しのけろ」
そう言って、ノアは動かなかった。
選ぶ時間をくれるように。
リゼリアは固まったまま動けない。
その一瞬の沈黙を肯定と受け取ったのか。
ノアはゆっくりと唇を重ねた。
触れるだけの、短い口づけ。
すぐに離れる。
けれど。
離れたあとも二人の距離は近いままだった。
「……甘い」
ノアは小さく笑う。
「昔と同じ味がする」
その一言に、リゼリアの鼓動が跳ねた。
一度目も。
二度目も。
三度目も。
四度目も。
この人は、自分に口づけをしてきたのだ。
そう思い出した瞬間。
頬が熱くなる自分がいた。
そんな自分に気付き、リゼリアは慌てて目を逸らす。
ノアはその反応を見て、満足そうに微笑んだ。
「さあ、帰ろう」
そう言って自然に手を差し伸べる。
まるで。
ただ散歩の途中ではぐれた妻を迎えに来ただけのように。




