第四十二話 逃走
馬車の扉が開く。
「足元に気を付けて」
ノアが手を差し出した。
「ありがとう」
リゼリアは笑顔でその手を借りる。
街道には多くの人が行き交っていた。
旅人。
商人。
家族連れ。
荷車を押す男たち。
これほど人が集まっている場所は久しぶりだった。
「少し歩きましょう」
ノアは自然にリゼリアの隣へ並ぶ。
護衛たちは少し離れた位置から二人を見守っている。
(今しかない)
リゼリアは静かに周囲を見回した。
その時。
「きゃっ!」
少し離れた場所で子どもが転んだ。
積まれていた木箱が崩れ、りんごが道いっぱいに転がる。
「おい!」
「拾え!」
商人たちが慌て始める。
一瞬で人だかりができた。
ノアの視線がそちらへ向く。
(今!)
リゼリアは反対方向へ駆け出した。
人混みへ飛び込む。
「すみません!」
「ごめんなさい!」
肩がぶつかっても止まらない。
振り返らない。
ただ前へ。
(逃げる!)
息が切れる。
ドレスの裾が邪魔だ。
それでも走る。
角を曲がる。
市場へ入る。
人の波に紛れ込む。
やがて大通りを抜け、小さな路地へ飛び込んだ。
「はぁ……はぁ……」
誰も追ってきていない。
ノアの姿も。
護衛の姿もない。
「逃げ……られた?」
壁にもたれながら息を整える。
心臓が激しく鳴っていた。
初めてだ。
初めて、あの人から逃げ切れたかもしれない。
涙が滲む。
「やった……」
思わず笑みがこぼれた。
「やっと……」
その時だった。
「随分と遠くまで来たな」
低く落ち着いた声。
リゼリアの全身から血の気が引く。
恐る恐る振り返る。
路地の入口。
陽の光を背に、一人の男が立っていた。
眼鏡を外し、片手でゆっくりと畳む。
整えられた前髪をかき上げる仕草。
金色の瞳が、まっすぐリゼリアを捉える。
口元には、穏やかな笑み。
けれど、その笑みは屋敷で見るものとはまるで違っていた。
「迎えに来た」
甘く、低く響く声。
それはもう、"気弱な次男"ノアの声ではなかった。
リゼリアは息を呑む。
――捕まった。
そう悟った瞬間、足から力が抜けた。




