第三十九話 母の願い
「そういえば」
母がお茶を口にしながら微笑んだ。
「ノアくん、本当に素敵な方ね」
リゼリアの肩がぴくりと震える。
「婚約した頃から思っていたけれど」
「誠実で、優しくて」
「リゼリアを見る目が、本当に愛おしそうなの」
胸が苦しくなる。
その"愛おしそう"という表現は間違っていない。
間違っていないからこそ苦しい。
「お父様もね」
母は嬉しそうに続ける。
「安心して送り出せるって言っていたのよ」
「……そう」
「本当なら、もっと早く結婚してもよかったくらい」
リゼリアは曖昧に笑うことしかできなかった。
「ねぇ、リゼリア」
母が優しく手を重ねる。
「あなた、幸せ?」
その一言に。
リゼリアの喉が詰まる。
――幸せじゃない。
そう言いたい。
でも。
母の優しい笑顔を見た瞬間、言葉が出なくなった。
「……うん」
小さく頷く。
「幸せよ」
また嘘をついた。
母はほっとしたように息を吐く。
「よかった」
「実はね」
少し照れくさそうに笑う。
「早く孫の顔が見たいなんて、お父様と話していたの」
「っ……!」
リゼリアは息を呑んだ。
昨夜のことを思い出す。
ノアは何もしなかった。
でも。
これから先は分からない。
「焦らなくてもいいけれど」
母は穏やかに笑う。
「きっとノアくんなら、素敵なお父さんになるわ」
その言葉に、リゼリアは笑えなかった。
(子ども……)
もし生まれたら。
あの屋敷から、もっと逃げられなくなる。
そんな考えが頭をよぎる。
コンコン。
扉がノックされた。
「失礼します」
侍女が一礼する。
「ノア様がお迎えにいらっしゃいました」
リゼリアの心臓がどくりと鳴った。
「もうそんな時間なのね」
母は立ち上がる。
「またいつでも帰っていらっしゃい」
その言葉に、リゼリアは胸が締めつけられた。
本当に。
また自由に帰って来られる日は、あるのだろうか。
部屋を出ると、廊下にはノアが立っていた。
「お話は終わりましたか?」
眼鏡越しに優しく微笑む。
「……ええ」
「では帰りましょう」
自然に差し出された手。
婚約中なら、迷わず握っていた。
けれど今は。
その手が鎖のように見えてしまう。
「リゼ?」
不思議そうに首を傾げるノア。
リゼリアは数秒ためらい――
「……はい」
作り笑顔を浮かべて、その手を取った。
逃げたい。
そう思っているのに。
誰の目にも。
二人は仲睦まじい新婚夫婦にしか見えなかった。




