第三十七話 帰りたい
朝食を終えたリゼリアは、自室へ戻ろうと席を立った。
「失礼します」
ノアは椅子から立ち上がらず、穏やかに微笑む。
「ゆっくり休んでください」
その口調は、婚約中と何一つ変わらない。
使用人たちも、二人の様子を微笑ましそうに見守っている。
誰も気付いていない。
昨夜、この部屋で何があったのかを。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻る途中。
リゼリアは廊下の窓から庭を見下ろいた。
昨日と同じように庭師が花壇を手入れしている。
侍女たちが洗濯物を運び。
使用人たちが慌ただしく働いている。
平和な光景だった。
だからこそ。
「……帰りたい」
思わず呟いてしまう。
この屋敷ではない。
生まれ育った公爵家へ。
お父様とお母様のいる家へ。
ほんの数日前まで暮らしていた場所へ。
「一度だけでも……」
顔を見たい。
抱きしめてもらいたい。
安心したい。
そう思うのはいけないことだろうか。
◇ ◇ ◇
昼前。
リゼリアは意を決して執務室を訪ねた。
コンコン。
「入ってもいい?」
「どうぞ」
扉を開けると、机に向かって書類へ目を通すノアがいた。
眼鏡を掛け、真面目な表情で仕事をしている。
いつものノアだ。
「どうしました?」
ペンを置き、穏やかに笑う。
リゼリアは深呼吸をした。
「お願いがあるの」
「何でしょう」
「実家へ帰りたいの」
ノアは少しだけ目を瞬かせた。
それだけだった。
怒ることも。
表情を変えることもない。
「今日ですか?」
「ええ」
「お父様とお母様に会いたいの」
「昨日は結婚式で、ゆっくり話もできなかったから」
ノアは静かに頷いた。
「分かりました」
「……え?」
あまりにもあっさりした返事だった。
「行きましょう」
「一緒に」
リゼリアは言葉を失う。
「え……?」
「夫婦ですから」
ノアは当然のように言う。
「僕もご挨拶をしたいですし」
その笑顔は、周囲が見れば理想の婿そのものだった。
断る理由もない。
夫婦なのだから、一緒に帰るのは当たり前。
けれど。
(違う……)
リゼリアが欲しかったのは。
ノアのいない場所だった。
両親だけに、本当のことを話せる時間だった。
「どうしました?」
ノアが不思議そうに首を傾げる。
「何か問題でも?」
「……ううん」
言えなかった。
あなたがいると困るなんて。
「では、馬車を用意させます」
ノアは立ち上がる。
「リゼのご両親も、きっと喜びます」
優しく微笑むその姿を見て。
リゼリアは改めて思い知る。
この男は。
自分を閉じ込める時だけではない。
逃げ道そのものを、自然に塞いでくるのだ。




