第三十六話 朝
コンコン。
「奥様、お目覚めでしょうか」
侍女の声で、リゼリアはゆっくりと目を開けた。
ほとんど眠れなかった。
「……はい」
返事をすると、侍女が部屋へ入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもと変わらない朝。
侍女たちも、いつもと変わらない笑顔。
昨日までと何一つ変わらないはずなのに。
世界だけが変わってしまったような気がした。
「ご朝食のご用意が整っております」
「ノア様がお待ちです」
その名前を聞いただけで、身体が強張る。
昨日までなら嬉しかった言葉。
今は違う。
◇ ◇ ◇
食堂へ入ると、ノアはすでに席についていた。
眼鏡を掛け。
穏やかな笑みを浮かべる。
「おはようございます、リゼ」
昨日までのノアだ。
優しくて。
誠実で。
誰もが理想の夫だと思うような姿。
「……おはようございます」
リゼリアは向かいの席へ座る。
使用人たちが朝食を運んでくる。
パン。
スープ。
サラダ。
焼きたての卵料理。
「昨日は眠れましたか?」
ノアが自然に尋ねる。
「……少しだけ」
「そうですか」
優しく微笑む。
何も知らない人が見れば、仲睦まじい新婚夫婦だ。
でも。
リゼリアには分かる。
その笑顔の裏を。
「リゼ」
「はい」
「パンを」
ノアは手を伸ばし、リゼリアの皿へパンを置く。
「君はこちらの方が好きでしょう」
「……」
好き。
確かに好きだ。
でも。
それは五度分の人生で覚えた好み。
そう思うと、素直に喜べない。
「ありがとうございます」
小さく礼を言う。
食事は静かに進んでいく。
誰も話さない。
ナイフとフォークの音だけが響く。
耐えきれなくなったのは、リゼリアだった。
「ノア」
「はい」
「一つ、聞いてもいい?」
「もちろん」
ノアは食事の手を止めた。
「私が逃げるって言ったら」
昨夜の言葉を思い出す。
「本当に追いかけてくるの?」
ノアは少しだけ考えるように目を伏せた。
そして。
「訂正しよう」
静かに微笑む。
「追いかけるんじゃない」
「……え?」
「迎えに行く」
その言い方が、あまりにも自然だった。
まるで。
外出した妻を迎えに行くような。
そんな穏やかな口調で。
「君がどこにいても」
ナイフとフォークを置く。
「迎えに行く」
リゼリアは胸が締めつけられた。
この人の中では。
逃げることすら。
ただの寄り道なのだ。
だから、止める必要もない。
必ず連れ帰れると信じているから。
ノアはいつものように優しく笑った。
「朝食が冷めますよ、リゼ」
その笑顔は昨日までと何も変わらない。
変わってしまったのは。
その笑顔を見る、リゼリアの心だけだった。




