第三十五話 窓の外
部屋に静寂が戻る。
リゼリアはしばらく動けなかった。
本当に、ノアはいなくなった。
さっきまで部屋を満たしていた気配が消え、広い寝室だけが残される。
「……逃げなきゃ」
その言葉が、自然と口からこぼれた。
考えるまでもない。
ここにいたら、また同じだ。
優しく愛され。
少しずつ自由を失い。
気付いた時には、もう逃げられなくなる。
「今しかない」
リゼリアは立ち上がった。
扉へ向かう。
そっと取っ手に手を掛ける。
――開かない。
「やっぱり……」
鍵が掛かっている。
期待していたわけではない。
それでも、小さく肩を落とした。
ならば。
視線は窓へ向く。
ノアは言っていた。
『窓から飛び降りようとは考えるな』
あの言葉が、頭の中で何度も響く。
「……見てみるだけ」
自分に言い聞かせるように呟き、窓辺へ歩いた。
カーテンを開ける。
夜風が頬を撫でた。
眼下には、月明かりに照らされた庭園。
ここは二階。
飛び降りられない高さではない。
「…………」
リゼリアは息を潜め、庭を見回した。
誰もいない。
そう思った、その時だった。
庭園の隅で、小さな灯りが揺れた。
「え……?」
目を凝らす。
ランタンを持った使用人が、一人。
いや。
二人。
三人。
巡回している。
(こんな時間に……?)
結婚式の日だからだろうか。
いや、違う。
よく見ると、普段は閉まっている庭門の前にも人影がある。
外壁の近くにも。
裏庭にも。
屋敷を囲むように、人が立っていた。
まるで。
誰かが外へ出ないように。
「そんな……」
リゼリアの喉が乾く。
偶然とは思えなかった。
今日だけ警備を増やした?
本当に?
それとも。
最初から。
「気付いたか」
不意に背後から声がした。
「きゃっ!」
リゼリアは飛び上がるように振り返る。
誰もいない。
部屋には自分しかいない。
「……え?」
鼓動が激しく鳴る。
聞き間違い?
そう思った瞬間。
コンコン。
扉が軽く叩かれた。
「リゼ」
ノアの声だった。
「眠れないなら、温かいミルクを持って来させようか」
扉越しの、いつもの穏やかな声。
まるで。
さっきまで窓辺に立っていたことを知っているような、絶妙なタイミングだった。
リゼリアは息を呑む。
――まさか。
見られていた?
返事ができない。
すると扉の向こうで、小さく笑う気配がした。
「返事はいらない」
静かな声が続く。
「ちゃんと休め」
足音が遠ざかっていく。
リゼリアはその場に立ち尽くした。
窓の外。
増えた警備。
そして、あまりにも出来すぎたタイミング。
胸の奥で、一つの確信が芽生える。
この屋敷は。
もうすでに――逃げることを前提に作られている。




