第二十話 名前で呼んで
婚約から三年。
リゼリアは十一歳。
ノアは十三歳になっていた。
身長も少しずつ伸び、声も少しだけ低くなってきた。
けれど。
「り、リゼリア様……」
照れ屋なところは、何も変わらない。
◇ ◇ ◇
その日は、両家そろって昼食会が開かれていた。
和やかな食事が終わり、大人たちは談話室へ移動する。
「二人は庭園でも歩いてきたら?」
レイヴェルト公爵夫人が笑顔で言った。
「はい」
二人は並んで庭へ出る。
春の花々が風に揺れていた。
「暖かくなりましたね」
「ええ」
穏やかな沈黙。
昔なら気まずかったその時間も、今は心地いい。
しばらく歩いていると、リゼリアがふと足を止めた。
「ノア様」
「はい?」
「お願いがあるんです」
ノアは首を傾げる。
「何でしょう?」
リゼリアは少し恥ずかしそうに笑った。
「いつまで『リゼリア様』なんですか?」
「……え?」
ぽかん、とした顔。
「私たち、婚約して三年ですよ?」
「は、はい」
「もう少し気軽に呼んでくださってもいいんです」
ノアは困ったように笑う。
「でも……婚約者とはいえ、礼儀がありますし」
「二人きりの時だけでも」
「…………」
沈黙。
ノアは真剣な顔で考え込んだ。
「難しい、ですか?」
「いえ」
小さく首を振る。
「嬉しすぎて……」
「え?」
「夢みたいで」
その言葉に、リゼリアは思わず笑ってしまった。
「大げさです」
「僕にとっては大げさじゃありません」
真っ直ぐな瞳。
リゼリアは少し照れて視線を逸らした。
「じゃあ……一度だけ」
「……はい」
ノアは深呼吸する。
何度も口を開いては閉じる。
まるで難しい試験に挑むような表情だ。
「り……」
リゼリアは黙って待つ。
「……リゼ」
小さな声だった。
風に溶けてしまいそうなくらい。
それでも。
確かに聞こえた。
「……!」
リゼリアの心臓が大きく跳ねる。
今。
名前で呼ばれた。
初めて。
「も、もう一回!」
「えっ?」
「今の、もう一回お願いします!」
「む、無理です!」
ノアは真っ赤になって首を振った。
「一回言うだけで精一杯でした!」
「えぇ……」
あまりに必死な様子がおかしくて。
リゼリアは声を上げて笑った。
「あはは!」
「笑わないでください……」
「ごめんなさい」
笑いながら涙を拭う。
「でも、とても嬉しかったです」
「……本当ですか?」
「はい」
リゼリアは優しく微笑んだ。
「ありがとう、ノア」
今度は。
ノアの方が固まる番だった。
「…………」
「ノア?」
「…………」
「ノア?」
返事がない。
顔を覗き込むと。
耳まで真っ赤になったノアが、両手で顔を覆っていた。
「ど、どうしました!?」
「…………嬉しすぎます」
小さな声だった。
「もう今日は、何も考えられません」
その一言に。
リゼリアはまた笑ってしまう。
こんなにも照れ屋な婚約者。
世界中探しても、きっとノアだけだ。
そう思うと。
胸がじんわりと温かくなった。
この幸せが、ずっと続きますように。
リゼリアは春空を見上げ、静かに願った。




