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中庭のジンクス③

三橋が図書室を飛び出してから、俺たちの間に「計画的な沈黙」が流れて三日が過ぎた。 勉強の効率は上がっている。はずだった。 余計な雑談も、意味のないハートマークも、俺の視界からは排除された。なのに、教科書の文字を追う速度は、あの日以前よりも明らかに鈍っている。


「……はぁ。見てるこっちが反吐が出るほど息苦しいんだけど、千冬」


昼休みの教室。 独り、機械的にパンを口に運んでいた俺の前に、一足のローファーが止まった。


「……凪冴か」


「あのなぁ、お前、いつまでそんな顔してんだよ」


凪冴は、俺の前の席を勝手に反対に向けて座ると、背もたれに腕を乗せて俺の顔を覗き込んできた。


「最近、三橋さんと話してないだろ。喧嘩でもしたわけ?」


凪冴の直球に、飲み込もうとしたパンが喉に詰まりそうになる。


「……喧嘩ではない。ただ、効率を優先した結果、接触頻度が下がっただけだ」


「へぇ、効率ねぇ。その効率のいいはずの顔が、今にも『計算ミスしました』って書いてあるのは気のせいか?」


凪冴は俺の机の上に広げられた、書き込みの少ないノートを指先で叩いた。


「……嫌ったわけではない。ただ、白氷との勝負に向けて、今は馴れ合っている時間がないだけだ」


「それが突き放してるって言ってんだよ。あのアイスドール、また何か吹き込んだんだな」


凪冴は呆れたように天井を見上げた。


「千冬。お前さ、記憶なくしてから『正解』ばっかり探してるけど。……三橋さんをなくすことが、お前の人生にとってどれだけのマイナスになるか、ちゃんと計算できてんのか?」


「……。」


「あのジンクス、本当になっちゃうぞ? 『大事なものをなくす』ってやつ」


凪冴の言葉が、図書室で聞いた三橋の震える声と重なる。俺は答えを出す代わりに、残りのパンを無理やり口に押し込んだ。味は、全くしなかった。


「……白氷に勝つことが、今の俺にとっての最優先事項だ。彼女を遠ざけたのは、そう判断したからに過ぎない」


俺は自分に言い聞かせた。だが、凪冴は鼻で笑い、俺のノートの端を指先で弾いた。


「相変わらず、自分のことになると計算がザルだな、千冬。三橋さんが隣にいて邪魔なのは、お前の理屈だろ? でも、あの子が隣で騒いでる時、お前、自分が記憶喪失だってこと忘れてる顔してんぞ。……それすら『非効率』で切り捨てるわけ?」


凪冴の言葉に、心臓が小さく跳ねた。図書室で三橋が「恋羽タイム」と書き込んだ、あのロードマップの余白。あの瞬間、確かに俺の頭から「白氷 冴」の名前も、「失った過去」への焦燥も消えていた。


「……それは、ただの弛緩だ」


「それが人間味ってやつだよ、バカ。……とにかく、三橋さんは今、相当参ってる。白氷との賭けの話も、風の噂で聞いたよ。あのアイスドール、相変わらずやり方がエグいよな」


凪冴は立ち上がると、俺の頭を乱暴に撫で回した。


「お前が勝とうが負けようが、このままだと『大事なもの』をなくすのは確定だ。三橋さんは、お前が自分を捨ててまで『かつての完璧な浅間千冬』に戻りたがってると思ってるからな」


「……捨ててなどいない」


「だったら、ちゃんと示してやれよ。……あ、そうだ。明日の放課後、駅前に新しくできたカフェ、三橋さんと行く約束してたんだろ? あそこ、あの子がずっと行きたがってた場所だぞ。効率とか言ってバックレたら、今度こそ本当におさらばだぜ?……じゃあな、優等生くん」


凪冴はひらひらと手を振って去っていった。一人残された教室で、俺はスマホを取り出し、数日間止まったままの三橋とのトーク画面を開く。


最後に送られていたのは、スタンプ一つない短いメッセージ。


『約束のカフェ、先輩が大変そうなら、キャンセルでも大丈夫ですよ』


画面の明かりが、俺の指先を冷たく照らしていた。 論理的に考えれば、明日は白氷との勝負に向けた復習に充てるべきだ。 だが、俺の指は、ロードマップには存在しない非効率な返信を打ち込み始めていた。


駅前に新しくできたカフェは、オープン記念の花の匂いと、浮かれた学生たちの声で満ちていた。 俺は約束の五分前に到着し、窓際の席に座る。手元には英単語帳があるが、文字は滑るだけで一行も頭に入ってこない。


「……あ、先輩」


聞き慣れた声に顔を上げると、そこには三橋が立っていた。 いつもなら真っ先に俺の隣を陣取るはずの彼女が、今日は一瞬迷ったような素振りを見せてから、俺の正面の席に座った。


「本当に、来てくれたんですね」


三橋は小さな声でそう言うと、膝の上で指をいじった。


「予定通りだ。駅前まで来る用事もあったし、脳の糖分補給も効率に含まれる」


俺はあらかじめ用意していた、可愛げのない言い訳を口にする。三橋はそれを聞くと、ほんの少しだけ安心したように口角を上げた。



「相変わらず、理屈っぽいですね。……あ、私、期間限定のやつ頼んでもいいですか?」


「好きにしろよ」


三橋が注文したのは、山盛りのホイップクリームにキャラメルソースがかかった、見るからに甘そうなラテだった。俺は、冷めたブラックコーヒーを一口啜る。


「……先輩、阿久津先輩から何か言われました?」


運ばれてきたラテのホイップをスプーンで掬いながら、三橋が不意に訊いてきた。


「……凪冴が、何か言ったのか」


「いえ、別に。ただ、先輩が急に『行く』って言ってくれたから、少し気合を入れられちゃったのかなって。阿久津先輩、ああ見えて先輩のことすごく気にかけてますから」


三橋はそう言って、窓の外を流れる人々を眺めた。


「……正直、今日のカフェはもう無理かなって思ってました。今の先輩にとって、私は復習計画の邪魔にしかならないのかな、とか。せっかく私が好き勝手言ってもいいって決めたのに、そのせいで先輩が調子狂っちゃうなら、それって意味ないじゃんって」


コーヒーの苦味が喉の奥に沈む。 昼休みに凪冴先輩から投げられた言葉が蘇る。あの子が隣で騒いでる時、お前、自分が記憶喪失だってこと忘れてる顔してんぞ。


「……あの時は、余裕がなかっただけだ」


俺は、自分でも驚くほど素直に言葉を紡いでいた。


「白氷に勝つことばかり考えて、目の前のことが見えなくなっていた。……でも、三橋。お前を遠ざけることが正解だとは、今は思っていない」


「……え」


「お前といると、自分が記憶を失っていることを……変に焦らなくて済む。それが今の俺にとって、一番必要なことなんだろうと思う」


三橋は、丸い瞳をさらに大きくして俺を見つめた。やがて、彼女の顔に花が咲いたような笑顔が広がる。


「……それ、先輩なりの『一緒にいたい』って意味で受け取ってもいいですか?」


「……。さあな、どうだろうな」


「あ、また逃げた! でも、いいです。今日のところは、その言葉で許してあげます!」


三橋はそう言うと、勢いよくラテを啜り、鼻の頭に白いクリームをつけた。まるでいたずらっ子の勲章のようについたそれを見て、俺は無意識に鞄のサイドポケットからハンカチを取り出そうとして……。


(……待て。俺は、ハンカチなんて持ち歩いているのか?)


記憶にない自分の動作に、指先が止まる。  記憶の中の「完璧な俺」は、常に合理的で、他人の世話を焼くような隙を持ち合わせていなかったはずだ。だが、このハンカチは、まるで彼女のそんな失態をあらかじめ予測していたかのように、あまりにも自然に俺の手の中にあった。


記憶にはない。けれど、俺の身体は、彼女をケアすることを当然のルーチンとして記憶している。その矛盾に激しい戸惑いを覚えるが、目の前でクリームをつけたまま、「えへへ」と無防備に笑う三橋を見ていると、そんな矛盾すらどうでもよくなってくる。


「……お前、鼻の頭にクリームがついてるぞ」


「あ、ホントですか? どこだろ、ここ?」


あざとく指を動かして見当違いな場所を触ろうとする彼女を見て、俺はためらいを捨て、自分のハンカチでその白い汚れを軽く拭った。  三橋はいたずらっぽく笑い、俺の動揺を見透かしたように、図書室で俺の計画表に書き込んだあの言葉を口にした。


「今は『恋羽タイム』中ですからね。効率とか、過去の自分とか、白氷先輩への対抗心とか……そういう難しいのは全部、立ち入り禁止。今は、私の目の前にいる先輩だけが、本物なんですから」


恋羽タイム。あの日、計画表を汚す不純物だと思ったその言葉が、今は冷え切った俺の思考を解きほぐす熱を持っているように感じた。


白氷 冴が求める完全な解への道。三橋恋羽が与えてくる不完全で、けれど熱を帯びた時間。


今の俺にとって、どちらが「今の自分」らしいのか。その答えは、あと数日後に迫った定期考査の結果が出るまで、保留にしておくことに決めた。


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