中庭のジンクス④
定期考査、初日。 校舎に足を踏み入れた瞬間に感じる、あの刺すような張り詰めた空気。廊下の至る所で参考書を片手に最後の悪あがきに励む生徒たちの姿が、否応なしに緊張感を煽ってくる。
俺が下駄箱でローファーを履き替えていると、背後から「だーれだ!」という、この緊迫した朝には似つかわしくない能天気な声が響き、視界が両手で塞がれた。
「……三橋。こんなところで遊んでいる暇があるなら、一単語でも覚えろ」
「ぶー。正解は、先輩のことが心配で昨日の夜も三時間しか眠れなかった恋羽ちゃんでした!」
手を離して目の前に回り込んできた三橋は、いつものように俺のパーソナルスペースを無視して顔を寄せてきた。数日前のカフェ以来、テスト勉強に集中するために連絡を控えていたせいか、その笑顔が妙に眩しく見える。
「先輩、ちゃんと朝ごはん食べました? 脳みそ動いてます? もし足りないなら……私のパワー、分けてあげましょうか?」
三橋は上目遣いで俺をじっと見つめると、自分の指先で、ぷるんとした唇をわざとらしくなぞった。
「パワー? 栄養ドリンクなら自分で買える」
「そんな可愛くないこと言わないの! もっとこう、特別なやつです」
三橋は辺りをキョロキョロと見回し、誰もいないことを確認すると、俺の制服の袖をぎゅっと掴んで、さらに距離を詰めてきた。ふわりと、柔軟剤のような甘い香りが鼻をくすぐる。
「はい、深呼吸して! 恋羽ちゃんの全力応援まじない、いきますよ?」
彼女は俺の胸元に小さく拳を当てると、いたずらっぽく微笑み、吐息が届くような距離で囁いた。
「せんぱーい。もし今日、英語で白氷先輩に勝てたら……。ご褒美に、放課後ぎゅーってしてあげます。あ、やっぱり、私がしてもらう方がいいかなぁ? ……なんてね、えへへ!」
そう言って三橋は、頬を少し赤らめて見せながら、ぱちんとあざとくウィンクをしてみせた。
「……バカなことを言ってないで、早く教室に行け」
「冷たいなぁ。でも、先輩の耳、ちょっと赤いですよ?」
彼女がさらに踏み込んでからかおうとした、その時。無情にも、試験開始前の着席を促す予鈴が校内に鳴り響いた。
「あ、やば! 忘れてた、今日の一時間目、一番苦手な古典のテストだった! 現代語訳、まだ半分も見てない!」
さっきまでのあざとい余裕はどこへやら、三橋は一気に顔を真っ青にして飛び上がった。
「じゃ、じゃあ私行きますね! 先輩、絶対、絶対負けないでくださいね。カフェで話したこと、信じてますから!」
三橋は俺の腕をポンと叩くと、ローファーを投げ込むように靴箱に押し込み、猛ダッシュで自分の教室へと向かっていった。だが、階段の手前、角を曲がる直前でピタッと足を止めると、もう一度こちらを全力で振り返り、両手で大きなハートマークを作って見せた。
「先輩、恋羽パワーで全勝ですよっ!」
そう叫ぶだけ叫んで、彼女は嵐のように階段を駆け上がっていった。
静まり返った昇降口。 一人残された俺は、微かに残る甘い香りを振り払うように、一歩を踏み出した。
自分の教室へと向かう廊下。その途中、隣のクラスの入り口付近で、一際冷ややかな空気を纏った背中が見えた。
白氷 冴。
彼女は教室に入る直前、何かに気づいたように足を止め、こちらを振り返った。 感情を排したその瞳が、俺を、あるいは俺の背後に残る三橋の残像を射抜く。
……準備はいい?
声は届かなかったが、その唇は確かにそう動いた。三橋が残していった微かな柔軟剤の香りを、彼女は鼻先でわずかに、蔑むように一瞥する。その眼差しは「そんな不純物に染まって、何が計算だ」と嘲笑っているかのようだった。
数日前、カフェで三橋に伝えた本音。そして凪冴が言った、今の俺がしている顔。 今の俺を構成しているこの「温度」を、隣の教室に座る冷徹なアイスドールに奪わせるわけにはいかなかった。
1限目、英語。 試験開始まであと数分。教室は、参考書を鞄にしまうファスナーの音や、最後の確認を急ぐ生徒たちの話し声が混ざり合い、落ち着かない喧騒に包まれていた。 俺は自席で、使い慣れた筆箱の位置を数ミリ単位で微調整する。昨夜の詰め込みによる疲労はあるはずなのに、不思議と視界はクリアだった。
「よお。ずいぶんスッキリした面してんじゃん、千冬」
周囲の物音に紛れるような低い声。 自分の席から離れ、俺の机の前にふらりとやってきた凪冴が、ニヤニヤしながらこちらを覗き込んでいた。
「……凪冴。もうはじまるぞ。自分の席に戻れ」
「いいじゃん、あと3分もある。……で、どうした? 数日前のカフェで、何かいいもんでも食ったか?」
凪冴は俺の顔をまじまじと見る。 俺に「計算がザルだ」と言い放った時の、あの突き放すような鋭さはない。今の彼の瞳には、どこか親友としての安堵が混ざっている。
「……別に。カフェではコーヒーを飲んだだけだ。脳に糖分を補給して、効率を戻したに過ぎない」
「へぇ、効率ね。……まあ、あんなに死にそうだった顔が、今は少しはマシな『優等生』に戻ってるんだ。その理屈、信じてやるよ」
凪冴はそう言うと、俺の肩を軽く拳で叩いた。
「白氷のやつ、隣のクラスで相当気合入ってたぞ。あいつ、お前がまた自分と同じ『マシーン』に戻ってくるのを、今か今かと待ち構えてるぜ」
「……関係ない。今の俺として、あいつに勝つだけだ」
俺の言葉を聞くと、凪冴は短く吹き出した。
「ハッ、言うようになったじゃん。……じゃあな。満点逃して泣きついてくんなよ」
凪冴が自分の席へと戻るとほぼ同時に、試験開始を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。 一気に静まり返る教室。それと入れ替わるように、試験監督の教師が厚い問題用紙の束を抱えて教室に入ってくる。
机に置いた自分の手を見る。 三橋が下駄箱で触れた袖のあたりに、まだ微かに熱が残っているような気がした。 かつての自分がどうだったかは、もう重要ではない。 凪冴に「スッキリしてる」と言わせた今の俺が、この回答用紙に何を刻むのか。
「それでは、始めてください」
合図とともに、俺は一気にペンを走らせた。
「……そこまで。解答をやめ、筆記用具を置いてください」
最終日、最後の一科目が終わった。 教室中に、一斉に深く長い溜息が漏れ出す。俺も椅子に背中を預け、こわばった指先をゆっくりと解いた。
「終わったな、千冬。お前のペン、最後の方火を噴きそうな勢いだったぞ」
自分の席から歩いてきた凪冴が、俺の机の端に腰をかけてニヤリと笑った。
「……必死だっただけだ。最後の一問、計算が合わなくて焦った」
「お、人間味あるじゃん。じゃあ、パーッと打ち上げでも――」
凪冴が言いかけたその時。 ガラッと、教室の扉が勢いよく開いた。
「せんぱーい! テストお疲れ様でしたっ!」
静まりかけた教室に響く、弾けるような声。 ドアのところに立っていたのは、自分の教室から走ってきたのか、少し肩で息をしながら顔を上気させた恋羽だった。
クラスメイトたちの視線が一斉に彼女に集まるが、本人は気にした様子もない。俺を見つけるなり、パタパタと小走りで駆け寄ってきた。
「三橋。お前、自分のクラスのホームルームはどうした」
「そんなの秒で終わらせてきました!」
「……秒で終わるわけないだろう。担任の話を無視してきたのか?」
「もう、細かいことはいいんですって! それより先輩、テスト! どうでした? 白氷先輩をギャフンと言わせられそうですか?」
恋羽は俺の机に両手を突き、ぐいっと身を乗り出して聞いてくる。 テストが終わった解放感のせいか。 彼女の距離の近さが、数日前よりもさらに自然に感じられた。
「……手応えは悪くない。だが、結果が出るまでは分からない」
「もう、相変わらず硬いんだから。でも、そのスッキリした顔なら大丈夫そうですね!」
恋羽は満足げに頷くと、不敵な笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んだ。
「ねえ先輩。覚えてます? ……『ご褒美』のお話」
「……。バカなことを言うな。俺はそんな話をした覚えはない」
俺が視線を逸らすと、横で見ていた凪冴が「お? なんだなんだ? ご褒美?」と面白がって首を突っ込んでくる。
「ひどーい! 私、あのまじないのおかげで古典、奇跡的に埋まったんですよ? ほら、先輩も頑張ったんだから。私、特別に『ぎゅー』ってしてあげてもいいんですよ?」
恋羽はいたずらっぽく腕を広げて見せる。 教室に残っていた数人の男子生徒から「おい、千冬……」「あいつ、死ねばいいのに」という殺気混じりの呟きが聞こえてくる。
「……場所を考えろ。というか、しない。帰るぞ」
俺が逃げるように鞄を掴んで立ち上がると、恋羽が「あ、逃げた! 待ってくださいよ先輩!」と楽しそうに後を追ってくる。
それまで黙ってやり取りを眺めていた凪冴が、俺の背中に向かって、これ以上ないくらいニヤついた声を投げかけてきた。
「おーい千冬、打ち上げはいいから、しっかり『ご褒美』もらってこいよ。いってらっしゃーい!」
「……っ、猛烈に黙れ凪冴!」
背後で上がる凪冴の爆笑と、教室に残っていた連中の視線を振り切るように、俺は早歩きで廊下へ出た。
「あはは! 凪冴先輩、わかってますねー!」
隣で機嫌よさそうに笑う恋羽。廊下の窓から差し込む夕日が、彼女の笑顔を一層眩しく照らしている。
「……三橋」
「なんですか? やっぱりぎゅーしてほしくなりました?」
「違う。……お前の応援があったから、最後まで集中できた。それは、一応礼を言っておく」
歩きながらボソッと言うと、隣を歩いていた恋羽が、一瞬だけ目を見開いて立ち止まった。そして、すぐに顔を真っ赤にして、さっきまでの余裕が嘘のように視線を泳がせる。
「……あ、ずるい。そういうこと、さらっと言うんだから……」
三橋は顔を真っ赤にして視線を泳がせる。さっきまで俺の耳が赤いことをからかっていた彼女だったが、今は自分の方が熱くなっていることに気づいたのか、慌てて両手で自分の耳を隠した。
彼女は自分の鞄のストラップをぎゅっと握りしめ、小声で「……今の、ご褒美ってことでいいです」と呟いた。
「何か言ったか?」
「何でもありません! さ、カフェ行きますよ、カフェ! 今日は先輩の奢りで、一番甘いやつ頼んじゃいますからね!」
テストの結果が出るまでの、短い猶予。隣で騒がしく笑う彼女の温度が、今は何よりも心地よかった。




