中庭のジンクス⑤
週明けの朝。二階の廊下は、異様な熱気に包まれていた。 まだ掲示板は白紙だというのに、集まった生徒たちのざわめきが、湿り気を帯びて肌にまとわりつく。
「おい、浅間だ……」 「記憶がないって噂、本当なのかな」
無責任な視線を突き抜け、俺は凪冴と共に掲示板の最前列へと向かった。 そこには、まるで周囲と時間の流れが違うかのように、静止した影があった。
白氷 冴。 彼女は掲示板の白地を、ただ無機質に見つめている。俺が隣に立っても、視線を動かすことすらしない。
「……来たのね、浅間くん」
感情の起伏が一切削ぎ落とされた、静かな声。 彼女はゆっくりと顔をこちらに向けると、値踏みするように俺の瞳を覗き込んだ。
「準備はいいかしら。あなたが何を失い、どれほどの損失を出したのか。それを突きつけられる準備よ」
「……あいにく、失ったものを数える趣味はない。俺はただ、今の俺ができることをしただけだ」
「相変わらずね。……不確定なものに縋って、自分の価値を下げている自覚もない。滑稽だわ」
白氷はフッと短く息を吐くと、興味を失ったように視線を正面に戻した。その横顔は、まるで「自分の勝利」という既定事項を確認しに来ただけの、絶対的な余裕に満ちている。
その時。
掲示板の端を留める画鋲の音が、静まり返った廊下に硬く響いた。 教師の手によって、ゆっくりと模造紙が広げられていく。カサリ、という紙の擦れる音が、俺の鼓動と同期するように耳元で異様に大きく鳴った。
一センチ、また一センチ。白い紙が自重で垂れ下がり、隠されていた文字が光の下に晒される。廊下に集まった数百人の生徒たちの視線が、その一点に収束し、空気さえもが質量を持って押し寄せてくるような錯覚。
そして。最上段、一際太いマジックで書かれた「1位」の横に刻まれた名前が、残酷なまでに鮮明に浮かび上がった。
1位 浅間 千冬 494点 2位 白氷 冴 492点
「…………」
廊下の空気が、一瞬で凍りついた。生徒たちのどよめきすら起こらない、完全な空白の時間。
常に完璧な水平を保っていた白氷の視線が、初めて、見開かれた瞳の中で大きく揺れた。自分の名前の上に君臨する、俺の名前。 それは彼女にとって、世界の秩序が、自らが信じてきた「正解」が、音を立てて崩壊した瞬間だった。
「……計算外だわ。ありえない」
「……白氷にも、わからないことがあるんだな。これが今の俺が出した数字だ」
「ははっ、マジかよ! 千冬、お前本当にやりやがったな!」
横で見ていた凪冴が、驚きと興奮が混ざったような声で俺の肩を叩いた。
「白氷、悪いな。今の千冬は一味違うだろ? ……じゃ、俺たちは打ち上げの相談があるから。先に行かせてもらうぜ」
凪冴はいつもの調子で軽く手を上げ、俺を促す。白氷は氷のような眼差しで俺たちを一蹴したが、その瞳の奥には拭いきれない屈辱が揺れていた。
「せーーーんぱいっ!!」
そこへ、廊下の喧騒を突き破って、三橋が弾けるように飛び込んできた。
「1位! 1位じゃないですか! 先輩、すごいです! 私のまじない、完璧に効いちゃいましたね!」
恋羽は俺の腕に抱きつくと、弾んだ声で白氷を見据えた。
「白氷先輩。……言ったでしょ。私の先輩は、もう先輩の着せ替え人形じゃないんです。今の先輩が、一番かっこいいんです!」
「……三橋さん。騒がしいのは、その頭の中だけにしておきなさい」
白氷は冷ややかに言い放つと、乱れた空気そのものを嫌悪するように、俺たちに背を向けた。
「……浅間くん。今回は譲ってあげる。でも、次はないわ。あなたがどこまでその『不確かな自分』を維持できるか、特等席で見届けさせてもらうから」
彼女は一度も振り返ることなく、人混みの中へと消えていった。
「……勝ったんだな」
「何言ってるんですか、当然です! さあ、1位のお祝いにカフェですよ! 今日は先輩の奢りで、特大のケーキを二つ食べちゃいますからね!」
三橋の明るい声が、まだ熱を帯びたままの廊下に響く。彼女の体温が伝わってくる腕の感覚が、この勝利が幻ではないことを教えてくれていた。
かつての俺は、白氷という正解の隣に並ぶために、ただ必死に自分を削っていたのかもしれない。けれど、隣で「おめでとう」と無邪気に喜ぶこの少女の笑顔を見ていると、この数点の差が数字以上の意味を持っているように思えた。
誰かの期待に応えるための1位じゃない。俺が俺として、足掻いて、迷って、それでも掴み取った結果。
俺は三橋に腕を引かれながら、もう一度だけ、掲示板の1位に刻まれた自分の名前を見た。 そこにある「浅間 千冬」という文字は、かつて白氷と共有していたものではない。
今の俺が、この足で手に入れた「一歩目」だった。
学校の喧騒を離れ、夕暮れに染まり始めた街を二人で歩く。 テストが終わったあとの、あの独特な空気の軽さが足取りを弾ませていた。
「いやー、それにしても気分最高ですね! 学年1位の先輩と一緒に歩けるなんて、私、役得すぎませんか?」
「……お前が騒ぐから、さっきから色んな奴に見られてるぞ」
「いいんです! 誇らしいんですから。あ、そうだ。ご褒美のカフェ、一番高いケーキ頼んじゃってもいいですよね? 勝利のお祝いですし!」
三橋は俺の腕をぶんぶんと揺らしながら、これ以上ないくらい幸せそうに笑った。 そんな彼女に連れられて、近道の公園へと足を踏み入れた時、ふと気になっていたことを口にした。
「……そういえば三橋。お前、自分の結果はどうだったんだ? さっきから俺のことばっかりで、自分の順位を一つも言ってないだろ」
俺が尋ねると、三橋はどこか得意げに、いたずらっぽく目を細めた。
「えっ、気になっちゃいます? 私の隠れた実力、知りたいですか?」
「……まさか、自分は散々だったなんてオチじゃないだろうな」
「失礼な! 見てください、これ!」
三橋はカバンから折りたたまれた成績表の端を、自信満々に突き出してきた。そこには、学年上位に食い込む彼女の名前と、見事な数字が並んでいた。
「……9位? お前、そんなに良かったのか」
「ふふん、当然です! 私だって、遊んでるだけじゃないんですよ? 先輩が必死に頑張ってるの知ってましたから、私も負けてられないなって思って、こっそり猛勉強してたんです!」
「……完全に舐めてた。お前、そんなに地頭良かったんだな。……お互い、頑張ったんだな」
俺が素直に感心すると、三橋は一瞬だけ照れくさそうに頬を染め、「……まあ、先輩が1位なのに、隣を歩く私が赤点じゃカッコつかないですから」と小さく呟いた。
「あ、見てください先輩! 公園のつつじ、もうあんなに咲いてますよ!」
そう言って、彼女は照れ隠しをするように、鮮やかに咲き誇る花の方へと俺の手を引いた。
「……ああ、綺麗だな」
三橋に腕を引かれ、夕暮れの公園を横切る。テスト明けの解放感と、1位という結果。隣で喋り続ける彼女の体温が伝わってくる感覚が、この勝利が幻ではないことを教えてくれていた。
かつての俺は、白氷という正解の隣に並ぶために、ただ自分を削っていたのかもしれない。けれど、隣で「おめでとう」と無邪気に喜ぶこの少女の笑顔を見ていると、この数点の差が数字以上の意味を持っているように思えた。
誰かの期待に応えるための1位じゃない。俺が俺として足掻いて掴み取った結果。
そんな感慨に浸っていた、その時だった。
「……? 先輩、どうしました?」
不自然に足を止めた俺に、三橋が不思議そうに首を傾げる。 視線の先、人気のない植え込みの陰に、見覚えのある制服の背中があった。
白氷 冴だ。 いつも凛として、冷徹なまでに完璧な彼女が、今はベンチの端で小さく丸まっている。
「……っ、……っく、……バカっ……!」
押し殺した、震える声。 彼女は膝の上に置いた鞄をぎゅっと抱きしめ、誰も見ていないはずの空間に向かって、必死に悔しさをぶつけていた。
「浅間くんのくせに……! 記憶もない、あんなにバラバラだったはずの彼に……どうして……っ!」
掲示板の前で見せていた余裕はどこにもない。 白氷は地面を真っ赤な瞳で見つめ、華奢な肩を震わせて鼻をすすっている。
「二点なんて……そんなの、計算間違いみたいなものじゃない。次は……次は絶対に、泣かせてやるんだから……バカ浅間……っ」
膝をぺしっと弱々しく叩くと、彼女はハンカチで乱暴に目元を拭った。そして深呼吸を一つして、またいつもの「冷徹な白氷」の仮面を被り直そうとする。
だが、拭いきれなかった目元の赤みと、悔しさで少し尖らせた唇。 それは、俺が今まで一度も見たことのない、驚くほど人間らしくて、可愛らしい彼女の素顔だった。
「……先輩? あれ、白氷先輩……ですよね?」
隣で三橋が小声で囁く。俺は咄嗟に三橋の肩を抱き寄せ、白氷に気づかれないよう、静かにその場を離れた。
「……シー。放っておいてやれ。あいつも、ただの高校生だったってことだ」
「……ふふ、そうですね。ちょっとだけ、白氷先輩のこと好きになっちゃいそうです」
三橋が茶目っ気たっぷりに笑う。
「……行くぞ。ケーキ、奢らなきゃいけないしな」
「やった! 先輩の気が変わらないうちに急ぎますよ!」
三橋は上機嫌に俺の腕を引いて歩き出す。夕闇が迫る公園を抜けて、街の灯りがキラキラと輝き始める方へと向かう。
ふと、自分の手のひらを見つめた。 ここにあるのは、かつて白氷に「完璧」を求められていた頃の、無機質な手じゃない。試験中に何度もペンを走らせ、今日、三橋の熱い体温を感じている、血の通った俺の手だ。
白氷が見せたあの涙。彼女もまた、俺と同じように必死に自分の居場所を守ろうとしている一人の人間なんだと知って、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
俺たちはもう、誰かが作ったレールの上を走るだけの駒じゃない。 不器用で、間違いだらけで、それでも自分の意志で選び取った「今日」という結果が、今はたまらなく誇らしかった。
「先輩、何ぼーっとしてるんですか!あ! もしかして、まだ変なジンクスとか気にしてます? 1位を取った瞬間に、そんなの全部ただの迷信になったんですよ!」
三橋が笑いながら、俺の手をぎゅっと握り直した。 彼女の体温が伝わってくるだけで、胸の中に残っていたわだかまりが、夕暮れの風に溶けて消えていくような気がした。
「……そうだな。ありがとな、三橋。」
俺が足を止め、正面から真っ直ぐに伝えると、三橋は「えっ……」と声を漏らして動きを止めた。夕暮れの光の中で、彼女の大きな瞳が何度か瞬きを繰り返す。
「……急に、そういうこと言うのは禁止です。……あ、でも。今の感謝の言葉で、私、思い出しちゃいました」
三橋は一歩、また一歩と距離を詰めると、俺の制服の裾をぎゅっと掴んで上目遣いに覗き込んできた。
「ご褒美……まだ、受け取ってもらってませんよね?」
「……。カフェでケーキを奢る話だろう」
「違います。朝、昇降口で約束した……『ぎゅー』の方です」
三橋は少しだけ顔を赤らめながら、けれど逃げ場を塞ぐような真剣な眼差しで俺を見つめた。
「ケーキを食べてる時は、お口が塞がっちゃいますから。……今、ここでいいですか? 先輩が頑張ったこと、私が一番近くで、ちゃんとヨシヨシしてあげたいんです」
彼女はそう言って、少しだけ腕を広げて見せた。公園を吹き抜ける風が、彼女の甘い香りを運んでくる。俺は困惑し、周囲を気にするように視線を泳がせたが、彼女の真っ直ぐな想いから逃げるための論理的な理由は、今の俺の中には一つも残っていなかった。
「……一瞬だけだぞ」
「あ、やった! じゃあ、遠慮なく……えいっ!」
三橋は俺の胸元に飛び込むようにして、その小さな身体で俺を抱きしめた。伝わってくる、確かな体温と鼓動。それは白氷が言った「不確定なもの」なんかじゃない。今の俺を繋ぎ止めてくれる、何よりも確かな「正解」だった。
「……よしよし。先輩、本当にお疲れ様でした。……大好きですよ」
耳元で囁かれた小さな声。俺の心臓が、テスト結果を見た時よりも激しく跳ねた。
「……もういいだろ。行くぞ、ケーキが売り切れる」
俺は熱くなった顔を隠すように彼女を軽く引き剥がすと、足早に歩き出した。 「あ! 先輩、また逃げた! 待ってくださいよー!」
三橋が後ろからパタパタと駆け寄り、当然のように俺の制服の袖をぎゅっと掴む。俺はその重みを振り払うこともせず、ただ彼女の歩調に合わせて、少しだけ速度を落とした。
「ケーキ、二つ。……今日だけだぞ」
「やった! 三つでもいいですか? ……なんて。ふふ、行きましょう、先輩!」
照れ隠しに声を弾ませ、俺の腕に体重を預けてくる三橋。俺はその温もりを「ノイズ」だと切り捨てる代わりに、心地よい重みとして受け入れながら、公園の出口へと向かった。
忌まわしいジンクスを自分の力で書き換えた「今日」という日。俺は隣で笑う少女と共に、一歩ずつ、新しい物語へと踏み出していった。




