中庭のジンクス②
あの中庭での出来事から数日が経った。 掲示板に貼り出された定期テストの範囲表を前に、生徒たちが一喜一憂している。だが俺にとっては、それは単なる「処理すべきタスクのリスト」に過ぎない。
放課後の図書室。窓から差し込む西日が、並べられた専門書の背表紙をオレンジ色に染めている。 俺は机の上に、ルーズリーフに青いペンで書き殴った「定期考査・対策ロードマップ」を広げていた。
「……よし。これで、白氷に付け入る隙は与えない」
各科目の配点比率、苦手分野の重点補強、そして忘却曲線を考慮した復習のタイミング。すべてが数式のように組み上がっている。 あの日、白氷 冴に「凡人」と断じられたことが、予想以上に俺のプライドを逆撫でしていた。今の俺に出せる最高効率の解で、彼女を黙らせる必要がある。
「……あの、先輩。これ、なんですか? ろーどまっぷ? 先輩、これからどこか遠くに旅でもするんですか?」
向かい側の席で、三橋が俺のメモを指先でつつきながら、呆れたような声を上げた。
「無駄を削ぎ落とした結果だ。三橋、お前もテスト範囲は出ているだろ。早く自分の計画を立てろ」
「立ててますよー。ほら、見てください」
三橋が差し出してきた手帳には、可愛らしいシールやカラーペンで彩られた、お世辞にも計画とは呼べないようなメモが並んでいた。
「月曜日:先輩と放課後勉強。火曜日:先輩に数学を教えてもらう(ご褒美アイス付き)。水曜日:先輩の横顔を眺める……。三橋、これはただの願望リストだ。勉強の効率が一切考慮されていない」
「効率効率って、先輩はそればっかり! 脳細胞だって、たまには甘いものとか、可愛い女の子の笑顔を摂取しないと、カサカサに乾いて死んじゃいますよ?」
三橋はぷくっと頬を膨らませて俺を睨むと、次の瞬間、身を乗り出して俺の「ロードマップ」の月曜日の欄を指さした。
「ここ、1時間の空きがありますよね? 予備時間って書いてありますけど」
「不測の事態に備えたバッファだ。当然の危機管理だろ」
「じゃあ、その『不測の事態』、私が今ここで予約しちゃいます」
三橋は俺のペンをひょいっと奪うと、その無機質な計画表の余白に、さらさらと何かを書き込んだ。
「おい、勝手に書き込むな……」
書き込まれたのは、小さなハートマークと、「恋羽タイム」というふざけた文字。
「この時間は、計画禁止の時間です。先輩が、私のことだけを考える時間。……白氷先輩との勝負とか、1位とか、そういう難しいことは全部忘れて、ただの千冬先輩に戻る時間。……ダメ、ですか?」
上目遣いで、少しだけ不安そうに、けれど確かな計算を込めて俺を見つめてくる。 数日前、中庭で彼女が囁いた「負けちゃう」というジンクスの意味を、俺はまだ解き明かせていない。その不確かさが、俺の論理的な判断を狂わせる。
「……。計画が狂う」
「狂わせに来てるんですもん。……先輩が、自分を削りすぎちゃわないように」
三橋は満足げにペンを返すと、再び自分のノートに向き直った。 精密に管理されていたはずのロードマップ。 そこに混じった、不純物のようなインクのハートマーク。
白氷 冴が求める完全な解への道は、三橋恋羽という最大のノイズによって、どこまでも不完全で、けれど不思議な熱を帯びたものへと変わっていった。
精密に管理されていたはずのロードマップ。 そこに混じった、不純物のようなインクのハートマークと「恋羽タイム」の文字。
俺がその「ノイズ」をどう処理すべきか立ち尽くしていると、図書室の静寂を切り裂く、ヒールの音が近づいてきた。 この足音の主を、俺は知っている。
「……随分と楽しそうね。浅間くん」
本棚の陰から現れたのは、白氷 冴だった。 眼鏡の奥の瞳は、いつも以上に温度が低い。彼女は俺の机に近づくと、迷いなくその視線を俺のロードマップへと落とした。
「……白氷」
「あ、白氷先輩。こんにちは。先輩も勉強ですかー?」
三橋が、俺の腕を抱きしめる力を強めながら、あからさまに牽制するような笑みを向けた。白氷は三橋を無視し、ロードマップに書かれたハートマークを、汚いものを見るような目で指さした。
「失望したわ。……かつての貴方は、こんな稚拙な感情論で自分の聖域を汚したりしなかった。今の貴方は、ただの凡人どころか、堕落した敗北者ね」
「……堕落だと?」
白氷の言葉が、俺の胸の奥にある「かつての自分」の残像を鋭く抉る。
「えー、白氷先輩、ひどくないですか? 勉強にハートマークがあってもいいじゃないですかー」
「黙って、三橋さん。貴方の金切り声は、知性のノイズでしかないわ。……浅間くん。貴方がその程度の『甘え』で私に勝てると、本気で思っているの?」
白氷はそう言い捨てると、俺の目の前に自分のノートをバンと叩きつけた。 そこには、俺のロードマップすら生温く見えるほどの、圧倒的な勉強量と、完璧な論理で構成された数式が並んでいた。
「……。勝負に条件をつけましょう。次のテスト、もし私が貴方に勝ったら……そうね。隣にいる彼女と、今後一切の接触を断ちなさい。今、貴方達は付き合ってないのでしょう?……付き合ってもいないのに、貴方のパーソナルスペースを乱し、才能を削るだけの存在を、私は排除したいの」
「……ッ!」
俺の隣で、三橋が息を呑むのがわかった。 まだ付き合ってもいない。なのに、白氷はその不確かな関係を、勝負の代償として突きつけてきた。
「どうしたの? かつての完璧な貴方なら、即答できたはずだけど。……それとも、記憶と一緒に、戦う誇りまで失ったのかしら」
白氷の挑発。三橋の、俺の腕を掴む震える手。 俺の脳は、その論理的ではない賭けを拒絶しようとしながらも、彼女を黙らせたいという本能的な欲求に突き動かされていた。
「……いいだろう。その勝負、受けた」
「成立ね。楽しみにしておくわ、浅間くん。……あ、それと。そのハートマーク、計画がズレるから消しておきなさい。……無意味よ」
白氷は満足げに、けれど一度も微笑むことなくノートを回収した。彼女は最後まで三橋を視界に入れることすらなく、冷徹な足取りで図書室の奥へと消えていった。
残されたのは、夕闇が迫る図書室の沈黙と、俺の腕を掴む三橋の指先の震えだけだった。
「……先輩」
三橋の声は、いつものあざとい明るさを完全に失っていた。
「……悪い。つい、熱くなった」
「……謝らないでください。先輩が、白氷先輩に負けたくないって思うのは、当然ですから」
三橋はゆっくりと自分から俺の腕を離した。その指先が、机に広げられたロードマップの上を、迷子のように彷徨う。彼女がさっき書き込んだばかりの「恋羽タイム」という文字。白氷に「無意味」と切り捨てられたその場所を、彼女は震える指でそっと撫でた。
「でも……もし、本当に負けちゃったら。先輩、私ともう口を聞いてくれないんですか?」
「……。勝てばいいだけの話だ」
俺は努めて冷静に答えたが、三橋は力なく首を振った。
「先輩、あの中庭でのジンクスのこと、覚えてますか? 『三人のうちの一人は、必ず大事なものをなくしちゃう』っていう……」
「……ただのオカルトだと言ったはずだ」
「そうかもしれません。でも、白氷先輩のあの自信……。私、怖いです。先輩が、私の知らない『かつての先輩』を取り戻そうとして、今の私を……ただの邪魔者だって思って、捨てちゃう日が来るのが」
三橋にとっての「大事なもの」は、今の俺との時間そのものなのだと、その震える声が突きつけてくる。
「今日は、もう帰ります。……先輩を楽しくさせることしかできない私なんて、隣にいても、きっとお勉強の邪魔になるだけですから」
三橋は力なく席を立ち、そして、図書室の出口へと歩き出し、扉に手をかけたところで一度だけ立ち止まった。
振り返った彼女の顔には、涙も怒りもなかった。ただ、今にも消えてしまいそうな、精一杯の、痛々しいほどの笑顔だけがあった。
「……先輩。私、先輩のこと、信じてますから。……また明日です」
図書室の重い扉が、音を立てて閉まる。 俺の唇はわずかに動いたが、結局、意味のある言葉を紡ぐことはなかった。引き止めるための論理的な理由が見つからなかったからだ。……いや、見つけようとしなかっただけかもしれない。
一人取り残された机の上で、俺は再び「ロードマップ」に目を落とす。
完璧な計画。 白氷への対抗心。 そして、急速に冷めていく三橋の座っていた椅子の温度。
もし白氷に負ければ、俺は三橋という存在を「なくす」ことになる。 それがどれほどの損失なのか、今の俺の計算式では、まだ解を出すことができなかった。
俺は、一度だけ短く息を吐き、震える指先を隠すようにペンを握り直した。




