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中庭のジンクス①

 昼休みの喧騒を避け、俺は一人、中庭の隅にあるベンチで単語帳を開いていた。 記憶の空白を埋めることはできない。ならば、せめて積み上げられる知識だけは誰にも負けないように。そう自分を追い込むことが、今の俺にできる唯一の「防衛」だった。


「……また、そんな非効率な暗記法をやっているのね」


不意に投げかけられた、温度のない涼やかな声。 見上げると、そこには昼食のパンの袋を片手に持った白氷しらひ さえが立っていた。 彼女は俺と同学年で、常に学年2位を死守している。その名の通り、白く透き通るような肌と、眼鏡の奥に宿る氷のような瞳。彼女は俺の単語帳を値踏みするように見つめていた。


「白氷か。……非効率だと言うなら、代案を出せ」


「貴方の語彙力なら、単語を単体で覚えるフェーズはとうに過ぎているはずよ、浅間くん。今の貴方は、まるで基礎を疑う初心者みたい。……かつての貴方は、他人の介在する余地がないほど完成されていたはずだけど?」


白氷はそう言い放つと、当然のように俺の隣に座った。三橋のような遠慮のなさはなく、ただ「そこが空いていたから」という、冷徹な合理性だけで俺のパーソナルスペースを侵食してくる。


「……俺には、俺のやり方がある」


「そう。けれど、貴方がそんな風に停滞している間に、私は貴方の背中を追い越させてもらうわ。……次のテスト、楽しみにしておいて。貴方が1位でいられる最後の機会になるかもしれないから」


白氷はパンを一口かじり、事務的に、けれど確かな執念を込めてそう言った。 彼女の隣にいると、自分が「ただの人間」ではなく「競うべき数値」であるかのような錯覚に陥る。それが、今の俺にはむしろ心地よかった。


「——あーっ! 先輩発見! 私の特等席に、先客がいるなんて聞いてませんよー!」


そんな俺たちの静寂を、計算され尽くした高い声が切り裂いた。 三橋恋羽だ。彼女は遠くから手を振りながら、全力の笑顔で中庭を駆けてくる。


「三橋……。別に特等席なんて決まってないだろ」


「決まってます! 私が隣に座るって、宇宙の法則で決まってるんです。……それにしても、白氷先輩? 随分と熱心に、私の先輩を口説いてらっしゃるんですね」


三橋は白氷の反対側に滑り込むと、俺の腕を自分の両手で抱きしめるようにして密着させた。ベンチの上が一気に狭くなる。


「口説く? 心外ね、三橋さん。私は浅間くんと建設的な議論をしていただけよ。貴方のように、知性のかけらもない振る舞いで彼の邪魔をしていたわけじゃないわ」


「邪魔だなんて失礼だなあ。私、先輩の脳に糖分と癒やしを供給してるんですよ? 白氷先輩みたいに、氷点下の正論で凍えさせてやる気を削いだりしませんもん」


三橋は俺の腕にさらに力を込め、挑発するように白氷を見据えた。


「やる気? 浅間くんに必要なのはそんな安っぽい感情論じゃないわ。三橋さん、貴方は彼を自分のレベルまで引きずり落としたいだけでしょう。……彼がかつての冴えを取り戻せないのは、貴方のようなノイズが四六時中まとわりついているからじゃないかしら」


「ひっどーい。ノイズじゃなくて、愛着ですよ。ねえ、先輩? 先輩も、白氷先輩の冷たいお説教より、私のおねだりの方が、ずっとドキドキしますよね?」


三橋はそう言って、俺の耳元に唇を近づけ、甘い吐息混じりに囁いた。 右側からは、白氷の刺すような鋭い視線。 左側からは、三橋の熱を帯びた、計算高い距離感。


「……お前ら、いい加減にしろ。飯ぐらい静かに食わせろ」


俺は両側からの圧に耐えかね、手元の単語帳をバタンと閉じた。 中庭を吹き抜ける風は春の暖かさを含んでいるはずなのに、俺の左右だけは、氷河期と熱帯がせめぎ合っているような異常な温度差だった。


「ふふ、先輩、耳まで赤くなってますよ?」


「……。脈拍が乱れているわね。自己管理が甘いんじゃないかしら、浅間くん。……三橋さん、あまり彼を安売りさせないでくれる?」


「安売りなんてしてませんよ。先輩の価値を一番わかってるのは私ですから。白氷先輩は、テストの点数だけ見てればいいんじゃないですか?」


「……。貴方に言われるまでもないわ」


逃げ場のないベンチの上。 白氷 冴の冷徹な執着と、三橋恋羽の甘く包み込むような熱。 俺の日常は、交わるはずのない二つのベクトルによって、どんどん複雑な方向へと歪められていった。


三橋が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。対して白氷は、手元に残っていたパンを最後の一口までゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。そして、事務的にパンの袋を畳むと、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。


「……三橋さん。貴方が彼に何を吹き込もうと自由だけれど、私は私の基準で彼を評価させてもらうわ」


白氷はそう言い残して、スッとベンチから立ち上がった。 三橋との言い合いを続ける気はないらしい。その立ち振る舞いには、感情に左右されない彼女なりの気高さがあった。


「あら、白氷先輩。もう行っちゃうんですか? もっと先輩のダメ出し、聞いてあげてもよかったですけど」


「必要ないわ。用事は済んだから。……浅間くん」


「私は、貴方に忠告しに来ただけよ。今の貴方は、自分という数式の解を出すことを放棄しているように見える。……かつての貴方を追い越すのが私であるために、貴方には完成された状態でいてもらわないと困るの」


「白氷……」


「次のテスト、その答えを見せなさい。……失礼するわ」


白氷は一度も三橋の方を見ることなく、背筋を伸ばして校舎の方へと歩いていった。 嵐が過ぎ去ったような静寂が、一瞬だけ中庭に訪れる。


「……ふん。相変わらず、可愛くない先輩ですね」


隣で、三橋がポツリと独り言を漏らした。 腕に絡みつく彼女の熱は、先ほどよりも少しだけ強くなった気がする。


「……三橋。お前、さっきから密着しすぎだ」


「いいんです。白氷先輩がいなくなって、寒くなっちゃったでしょ? 私がしっかり、先輩の温度を管理してあげますから」


そう言って三橋は、俺の肩に頭を預けてきた。 白氷 冴が残していった鋭い忠告と、三橋恋羽が与えてくる甘い体温。 俺の頭脳は、正反対な二つの情報を受け取ったまま、いつまでも適切な処理ができずにいた。


遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムが響き始める。 その音に重なるように、三橋が顔を上げず、俺の耳元で小さく囁いた。


「ねえ先輩、知ってますか? この中庭のベンチで、お昼休みのチャイムを三人で聞くと、そのうちの一人は必ず「大事なものをなくしちゃう」っていうジンクスがあるんですよ」


予期せぬ言葉に、俺の思考がわずかに停止する。


「……なくす? 何をだ」


「それは、テストの結果かもしれないし……もっと別の、心のことかもしれないですけど」


三橋は腕を離すと、いたずらが成功した子供のような、それでいて全てを見透かしているような瞳で俺を見た。


「でも、大丈夫です。私が先輩の隣にいる限り、先輩をなくさせたりしませんから」


彼女はそう言い残して、軽やかな足取りで立ち上がった。 一人残されたベンチで、俺はふと、彼女の言葉が気になって周囲を見渡した。


桜の若葉が揺れる中庭。昼食を終えて教室へ戻る生徒たちの群れ。 ふと気づくと、四人で賑やかに笑うグループや、背中を合わせて語らう二人組はいても、不思議なほどに「三人」で歩いている生徒が見当たらない。


(……まさか、な)


そんな迷信めいた話を、誰もが本気で信じているわけがない。たまたま誰かが先に教室へ戻ったか、あるいは最初から偶数で集まっているだけのことだ。 理屈で考えれば、ただの統計的な偏りに過ぎない。


けれど、三橋がさっきまで座っていた場所の余熱を感じながら、俺は彼女の後ろ姿を追った。 偶然を必然のように語り、何でもない日常を二人だけの「運命」に塗り替えてしまう。 あのあざとい笑顔で「おまじない」や「ジンクス」を囁かれるたび、俺の中にある論理的な世界が、少しずつ彼女の色に染められていくような気がしている。


一人残されたベンチ。白氷が残していった鋭い忠告と、三橋が残した不思議なジンクス。 俺のポケットの中にある、角の丸まった消しゴム。


論理で武装していたはずの俺の日常は、彼女が囁いた根拠のないジンクスによって、取り返しのつかないほどに歪められようとしていた。

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